お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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息子K君の卒業旅行に沖縄を選びました2002/03/25

上の息子のK君が小学校を卒業しました。
これからは、競争社会がまっていますね。
がんばらなくてもいいから、自分の個性を伸ばしてほしい。

さて、卒業旅行先として、沖縄を選びました。
そこは、戦後の日本にとって、ヒロシマ・ナガサキとならんで
特別な原点だからです。

私にとって、沖縄は、二度目です。
一度目は、1995年だったと思います。

カメラの特性も知らず、どの写真もブレて、ピントもずれています。
構図もめちゃくちゃだし、撮りたいものも枠からはみでています。

この写真だけがまだお見せできるかなと思います。
ひめゆりの塔に行ったときの写真です。

沖縄・南風原陸軍病院壕跡をたずねて ① 迷いに迷って2002/03/26

沖縄訪問の目的は、戦跡をまわることでした。
「ひめゆり学徒」が従軍したのは、ひめゆりの塔の付近ではなく、
南風原のあたりだと思います。
そこをナビゲーターで探して、
いったん、通り過ぎたあと、また立ち戻って
ようやくたどりつきました。

しかし、そこは、なんの変哲もないふつうの暮らしのある土地でした。
ビニールハウスがならび、道路は整備されていませんでした。

坂道の上に看板をみつけて、やっとここがそうだと確信しましたが、
私たちが予想していたような整った戦跡記念の土地では
ありませんでした。

なにか心に割り切れないものを感じました。
なぜなら、1995年には、整備してなかった「安保の見える丘」が
すっかり様相を変えていたからです。
なぜ、ここはちがうのか?
その重要性から考えて、しっくりきませんでした。

沖縄・南風原陸軍病院壕跡をたずねて ② 看板2002/03/27

アスファルトでかろうじて舗装されている坂道の途中に、
この看板があります。
先の写真に小さく見えていたものです。

そこで、ここがやはりそうなんだと納得しました。

それで、それらしいものを家族4人で探しました。

沖縄・南風原陸軍病院壕跡をたずねて ③ 坂道を登る2002/03/27

その道は、こんなものでした。

どんなものがこの道の先にあるのか、わくわくしながら、
元気な子どもたちに後れないようにがんばって歩きました。

沖縄・南風原陸軍病院壕跡をたずねて ④ これはなに?2002/03/28

壕の跡らしきものは、この石で囲まれたものだけでした。
不案内なので、見つけられなかったのかも知れません。

疑問をもちながら、近づいていきました。

沖縄・南風原陸軍病院壕跡をたずねて ⑤ 壕の入り口?2002/03/29

このようなものとしか、私には、いえません。

沖縄・南風原陸軍病院壕跡をたずねて ⑥ 説明文2002/03/30

南風原陸軍病院壕跡のゆかりを書いた看板を見つけました。
デジカメを使いはじめで、どうすれば、全体が写るのかが
わかりませんでした。
文章が画面から切れていることが残念でなりません。

沖縄・南風原陸軍病院壕跡をたずねて ⑦ 戦跡碑2002/03/31

これが戦跡の碑です。

残念ながら、これも全体を写すことができませんでした。
下手なカメラマン・・・後悔しています。

沖縄・南風原陸軍病院壕跡をたずねて ⑧戦争の歴史をどう伝えるのか2002/03/31

この戦跡がある高台から、街の方角を写しました。
映画にもなり、本土でさえ有名な土地なのに、
整備されている様子もありません。

基地の重圧に苦しみ、経済格差も本土との間に
存在するのは事実です。

現在の暮らしの困難さが、この戦跡の扱いに
出ているのかも知れません。
決して無関心なはずはありません。
同時に、忘れたいという思いがあるのかも知れません。

私は、複雑な気持ちで、街を見下ろしながら
坂道をおりてゆきました。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)