お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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サイパン一日目(3月27日) :目覚めて2005/04/01

26日の深夜に大阪国際空港を出発。
27日の午前2時にサイパンに到着。
いきなりの暑さでした。
バスでホテルに向かいましたが、
周りは真っ暗で、外国に来たという実感はわきませんでした。
家族は二室に分かれてしばらく仮眠を取りました。

歓声によって目を覚ましました。
海に面したホテルの11階から外を見ると、
一面に真っ青な海が広がっていました。
これから3日間、私たちの目を楽しませてくれた景色が
広がっていました。

サイパン一日目: 「中部太平洋戦没者の碑」2005/04/02

サイパンで宿泊したのは、ホテルニッコー。
日本のホテルであり、日本人ばかりが目立ちました。
「サイパンダ」号に乗って、サイパンの観光に出発しました。
バンザイクリフに向かいました。
そこに、「中部太平洋戦没者の碑」がありました。

《さきの大戦において、中部太平洋の
 諸島および海域で戦没さえた人々をしのび
 平和への思いをこめてこの碑を建立する
 竣工 昭和49年3月25日
 日本国政府》

このように書かれていました。

サイパン一日目(3月27日):司令部跡2005/04/03

サイパンに到着したのは深夜。朝目覚めて、すぐにバスで観光に出かけました。バンザイクリフ、そして日本軍の司令部の跡地を回りました。
今年は、終戦60周年の年です。
それだけの年月が経っていますが、艦砲射撃でえぐられた崖や
破壊された砲などは、その時間の長さを忘れさせるリアルさがありました。
バスの乗客はほとんどが日本人。

サイパン一日目(3月27日):美しい海2005/04/04

サイパンの一日目。サイパンダ号に乗り込んで、ホテルから観光旅行へ。
他のバスもいっしょになる観光スポットがあります。
ほんとうに美しい海と島。
中国人や韓国人の観光客に出会いました。
最近は、日本人より韓国人の方のほうがサイパンには多いかも知れません。
名鉄はすでにサイパンから撤退。
そのあと進出している企業のほとんどは、韓国だそうです。
バブルが崩壊したあと、サイパン行きの航空便も縮小されています。
私たちが旅行したあと、さらに縮小される予定です。
複雑な気持ちでこの話をききました。

サイパン二日目(3月28日):マニャガハ島2005/04/05

サイパンの観光スポットのひとつ、マニャガハ島に向かいました。
周囲は2~3キロの小さな島です。

ここでも、従業員はサイパンの人でしたが(船はちがいました)
あとは日本人、中国人、韓国人でした。
ここは、子どもたちに美しい海でダイビングをさせたいと思って
カミさんが選んだところでした。
子どもたちはすぐにシュノーケルの使い方を覚え、
美しい海の中を泳ぐ熱帯魚を見つけて、満足した様子でした。

サイパン二日目(3月28日):マニャガハ島に大砲2005/04/06

サイパン旅行の二日目は、子どもたちにとって一番の楽しみのはずでした。
マニャガハ島でのダイビング体験です。

美しい海に浮かぶ美しい小島・・・天国のような島にも
戦争の傷跡が残っています。
どうしてこんな小さなところに大砲があるのかと思いました。

サイパン二日目(3月28日):マニャガハ島に高射砲2005/04/07

サイパンにあるマニャガハ島は天国のような楽園の地。
しかし、桟橋の正面に大砲が据付されていました。
もちろん、現役の砲ではなく、日本軍の残骸です。
残骸には、説明文がついていました。
他にもないのか気になって、島を一周してみました。
上の写真は、説明はありませんでしたが、
高射砲のように見えます。

サイパン三日目(3月29日):ヒストリカル・ツアー2005/04/08

サイパンで三日目。最後の日です。
私が一番楽しみにしていたイベントである「ヒストリカル・ツアー」。
サイパンの戦跡と歴史をたずねるツアーです。
これは、小型のバスで回るので、予約は10名以内。
なぜ小型のバスなのか?
参加人数もあるでしょうし、通過する道の問題もあるのです。
「砂糖王」⇒「神社」⇒「刑務所」⇒「黒木隊」⇒「弾薬庫」
おおよそこのような流れになります。

バスの助手席にガイドさんが乗り込み、案内と解説をしてくれます。
写真は車でのガイドさんの様子です。

サイパン三日目(3月29日):砂糖王の銅像2005/04/09

サイパンにある日本人の銅像。

それは、サイパンにとって日本が抑圧するだけではなかった証と
いえるのでしょうか?
日系人(?)ガイドさんは
「サイパン人は、日本人に共感をいだいているので、
グァムほど(日本人にとって)危険ではない。
サイパンでは、民間人も(日本)軍も一緒になって戦った」と。

サイパン三日目(3月29日):彩帆香取神社2005/04/10

ガイドさんの話し振りは、まちがいなく日本語ではありましたが
聞き取りやすいものではありませんでした。
それに、その話のスタンスがなかなか私にはつかめませんでした。
日本の統治を肯定的に語ることに違和感があったからです。

「彩帆」というのは、サイパンのこと。
神社ではあっても、日本と同じ素材がサイパンにあるわけではありません。
シメ縄などは別の素材となっています。
それでも、こういうものをつくり、故国をしのんだと思われます。
それをサイパンの人たちに強制しなければ問題はないのです。

日本からも当時の人たちやその関係者が参拝にこられるといいます。
ガイドさんの話し振りから、日本政府の人情に乏しい取り組みに非難がこめらえているのを感じました。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)