お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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緊急声明《侵略戦争を賛美、教科書選定への介入をもはばからない目片信大津市長の時代錯誤な発言に断固抗議する》に賛同します2005/08/04

 「新しい教科書をつくる会」の歴史教科書(扶桑社版)が歴史をゆがめ、日本、中国、韓国の間の関係を将来にわたって悪化させるものだと私も思います。
 その教科書を目片大津市長が肯定的に評価してことに、以下の緊急声明が出されました。
 私の賛同の意思をしめすために、そのまま転載させていただきました。

***************************
  2005年8月3日

緊急声明
 侵略戦争を賛美、教科書選定への介入をもはばからない
目片信大津市長の時代錯誤な発言に断固抗議する
 
 大津市の目片市長が2日の定例記者会見において、扶桑社版の歴史教科書は「客観的に見ても当然であろうという表現がされている。できうることなら、選ばれてもおかしくない」という発言をしたことが新聞で報道されています(朝日)。報じられていることが事実ならば、これは断じて容認できない問題です。
 扶桑社版教科書は、「新しい歴史教科書をつくる会」が主導して編集作成されたものです。この歴史教科書は、太平洋戦争を「大東亜戦争」としていることからも明らかなように、日本の侵略の事実を覆い隠し、「自存自衛」のための戦争でありアジアの独立に貢献したなどという特異な歴史観に立っています。このような教科書を肯定的に評価し、採択を促すような発言をしてはばからない、市長の歴史認識と言動を厳しく糾弾するものです。
 今、大津市教育委員会をはじめ各市町教委は教科書採択作業のまっただ中です。その時に、市長が特定の教科書に肩入れする発言をすることは、教育委員会をないがしろにするものです。教育委員会の努力を顧みず、頭越しになされた今度の発言は、教科書採択を歪めることに他ならず、まさに教育への介入です。これは、たとえ「個人的見解」と断ったとしても、その責任を免れるものではありません。教育介入につながる発言は、ただちに撤回するべきです。
 大津市教育委員会ならびに志賀町教育委員会は、採択地区協議会の中でこの間採択作業をすすめてきています。その採択作業に対して、市長が介入するということはあってはならないことです。ここは毅然と「教育介入をするな」と市長に対して抗議をするべきです。
現行制度の下では教育委員会が教科書採択の責任を負う、市長といえどもそこには介入できないということを、両教委自らが行動でもって示してこそ教科書採択への市民からの信頼が得られるのです。
 誤った歴史を押しつけ、侵略戦争を賛美することで子どもたちを戦争に駆り立てるような教科書は採択するべきではありません。私たちは、歴史の真実をしっかり伝え、二度と戦争をしないという戦後日本の反省に立って、21世紀にアジア諸国と平和で友好的な関係を築く担い手として子どもたちが成長していくことを心から願うものです。 そうした立場から、さまざまな団体や個人と共同して、滋賀県の中学生がこんな教科書を押しつけられることのないように、今後もいっそう運動を広げていきます。

在日本大韓民国民団滋賀県地方本部
  団長  具滋 源 

滋賀県公立高等学校教職員組合
   執行委員長  西山 佳子

全教滋賀教職員組合
執行委員長  丸岡 英明

新日本婦人の会滋賀県本部
会長   山梶 麻喜子

連絡先  全教滋賀教職員組合
滋賀県大津市朝日が丘1-11-3
TEL 077-526-2912

上野正彦『死体は語る』2005/08/22

「死者の人権を守れ」は
かつて話題になった上野正彦氏の
『死体は語る』(時事通信社 1989年)
の最後の章である。

話題になった本をすぐ読むのが嫌いというのが私の性格。
話題になるものには、それなりの理由があるのだが、
最初から、抵抗をかんじてしまうのである。

だから、この本もよまないまま、ほったらかし。

本棚の整理のさいに、買ったくせに
放置されている本を見つける。
そういう”見慣れない”本を見ると、やはり
かじり読みをする。

冒頭の「死者との対話」
大火傷をして死亡した幼女の話。
担当医は火傷死。
だが、死体を検証した監察医の所見は異なった。
警察が捜査を開始し、やがて母親が自供。
知恵遅れの子どもの前途を悲観し、過失を
装いヤカンの熱湯をかけたことが判明。

《なぜこうなったかはさておき、監察医は
 臨床医とは全く逆の方向から、医学を見るのである。
 まず、死体がある。
 なぜ死んだのかを調べていく。
 やがて一つの死と、それにまつわるさまざまな事情が
 はっきりしてくる。
 生きている人の言葉には嘘がある。
 しかし、もの言わぬ死体は決して嘘は言わない。
 丹念に検死し、解剖することによって、
 なぜ死に至ったのかを、死体自らが語ってくれる。
 その死者の声を聞くのが、監察医である。》

短いが40余りの章の最後に
日記のタイトルにした章がおかれている。

そして、私は死者の人権の大切さを知る。

《風邪をひけば内科へ行き、ケガをすれば外科へ行く。
 わが身を守る上で当然の選択である。
 これと同じで異状死体の検死は、死体を見慣れ、
 死者と対話できる監察医や法医学者に任せないと、
 もの言わずして死んだ人々の人権は守れない。
 死者にも、医師を選択する権利があろう。
 そのためには、地方自治体に任された監察医制度の
 活用が必要である。(中略)
 死者はどのような制度があっても生き返らない、
 などとあきらめてはならない。
 死者の側に立って
 人権を擁護している医師もいるのである。》

そういう人々に感謝をしたい。

シェーンベルク『浄夜』2005/08/23

●「浄夜」
シェーンベルクの有名な曲。

カラヤン指揮のベルリン・フィルが
弦楽合奏版で演奏しているCDを
聴いている。

ほんとうに疲れ果てているせいか、
イスにすわったまま、寝入ってしまった。

この曲にはプログラムがある。
ドイツの詩人リヒャルト・デーメルの詩集
『女と世界』(1896年)の冒頭の詩に
よっている。

りっぱな解説がついているけれど、
原詩は載っていない。
大意は以下のとおりだという。

《月夜の冬枯れの木立の中を
 愛する男女がそぞろ歩きながら、
 女はつぎのような告白をする。
 それは、母たる幸せを夢みて、
 見知らぬ男に身をまかせたため、
 自分は子を宿している。
 今あなたに会って
 そのことを後悔している、と。
 しかし女を深く愛する男は、
 月光のふりそそぐ浄夜をたたえつつ、
 その子を自分の子として
 産んでくれという。
 ふたりは相抱き、
 また歩みを進めていく。》

タイトルは「浄夜」だが、
なまめかしさにみちていると感じた。

だれの演奏だったか忘れたけれど、
CDジャケットに、クリムトの絵が使われていた。
曲そのもののような気がしたことだけ
覚えている。

青柳いづみこ さんのコメントを見つけた。
共感する。
http://ondine-i.net/column/column058.html

ジョージ・ケナン『アメリカ外交50年』2005/08/24

岩波現代文庫にジョージ・F・ケナンの『アメリカ外交50年』がある。
近藤晋一・飯田藤次・有賀貞【訳】

読みはじめて、感じたこと。

現在のブッシュ政権の傲慢なアメリカとは
違うアメリカがここにあるということである。

ソ連崩壊後のアメリカの対外政策は
軍備縮小への期待をいだかせたが、
実際には逆の方向に進んだ。
そして、この唯一の超大国は
いまや知性的にすぐれているとは
とてもいえない指導者を頭にいだいて
危険な道を暴走している。
このようなとき、
別のアメリカがあることを示す
この本はわれわれに勇気と希望を与えてくれると
思うのである。

もちろん、
そのことは日本にもいえることだ。
自分を見失わないことは、
個人についてもいえるが、
国家については、さらに高度な水準で
求められることではないだろうか。

mixiのコミュニティについて2005/08/24

「毎日が刺激的であったらいいのに」
「いつでも、わくわくした気持ちで過ごしたい」
 ・・・・たぶん、だれもがそう思う。

mixiのコミュニティの機能は、そういうものを
念頭において生まれたのだと思った。

自分の関心のあるコミュニティに登録する。
そうすると、自分のトップページに
コミュニティに参加した人たちが立てたトピックや
コメントのかきこみが連日湧き出てくる・・・。
かくして、毎日が刺激の日々が生まれる・・・・。

そうなればいいと思うけれど、現実はちがうようだ。

私も数十のコミュニティに参加している。
なかには、いつでも、かきこみできるコミュニティもあれば、
かきこみがしかねるコミュニティもある。
無責任だけど、参加だけのものもある。
どれも、すてきなコミュニティとは思うのだが、
かきこみが連日あるどころか、一ヶ月以上も休眠のものもある。

自分の好きな分野なのになぜ?

私は、コミュニティの管理人もしているので、
好きだということと運営のギャップを感じることがある。
リアルの世界のコミュニティは、多面的なつきあいができる。
しかし、仮想の世界では、文字だけの細いつながりでしかない。
リアルなら、コミュニティの話題で対話しなくても、
会釈や天気の話題で心をつなぐこともできる。
しかし、mixiではそうはいかないのだ。
かきこみしなくても、日々の生活は普通にすぎていく。
コミュニティとmixiは名づけているけれど、
実際は、そういうものではない。
クリックひとつでつながる関係。
それだけの、つながり。
だから、管理人さんはちょっぴりさびしい想いをもつのだ。

コミュニティ運営の難しさは、
リアルと仮想のちがいだけが原因じゃない。

サイトとちがって機能が限定されていることも、ある。
サイトなら、情報を多彩に展開できる。
それを見ながら、反応してもらえる。
しかし、mixiでは、トピックは、書き込まないかぎり、
つぎつぎと背後に消えていく。
体系だって、コミュニティの主題を深く知るというものではないのだ。
仕方ないから、紹介の部分で詳しく展開することで補うことになる。

つまり、知りたいと思って登録しても、トピをたて
回答をもらわないと、知ることができない。
ざっと目をとおして、そうなんだっていえる部屋
そういう概観できる機能のパーツを
mixiは提供していないと思う。

だから、
トピックでのやりとりや
書き込みがすすまないのではないだろうか。

私は、サイトとの連携をするのがいいと思う。
コミュニティのトップページで、その主題に照応する
サイトへのリンクをつくる。
サイトはもちろん、協力してつくっておけばいいのだ。
もしくは、mixiがコミュニティの内容を多彩に展開できる
部屋なんかを用意することだ。

いまの機能の範囲なら、サイトとの連携をしてみようと思う。
リアルにくらべて関係の希薄さを埋めるためには、
特別の方法があるわけじゃない。
やはり、リアルと同じように、コミュニティを
つまり、共同体らしいつながりをつくることだと思う。

そのために、自分が守っていることがある。
それは、登録してくれた人へのお礼のメール。
マイミクの人たちへのメールである。
もっとも、そんなことしか思いつかないのだけれど。

さうだ。
mixiのコミュニティで、機能を生かしたものと
感心しているものがある。
それが、《資料になりそうなウェブサイト》

「なぜ女優が北極点を?」 和泉雅子さんの答え2005/08/25

「なぜ」って他人に向かってたずねるとき、
そこにはある種の羨望が混じっていないだろうか。

あまりに有名な話。
「なぜ、山に登るのか」という問いかけへの
 単純きわまりない回答がある。
 ・・・・「そこに山があるから」
 聞いたほうには、答えになっていないが、
 聞かれたほうには、十分すぎる答えなのだ。
 そこには、大河が横たわっている。
「なぜ」と聞くほうは、此岸にあり、
 彼岸にある相手にむかって、意地悪くたずねる。

この場合もそうだ。

「なぜ女優が北極点を?」

 これは、和泉雅子著
 『笑ってよ、北極点』(文芸春秋 1989年)の
 冒頭の章のタイトルである。
 さっき本棚から、転げ落ちた本のひとつである。

 《「女優だったからこそ北極点に行きたいと考える
  人生にめぐり会えたのです」と答えるしかない。
  北極点に到達することができ、そこで何を見出すか、
  何を見出したいのか。今の私にはわからない。
  北極点は、誰からも強制されたものでもない。
  私一人の夢なのだ。》

もう少し、書かれている。

TV局の仕事で南極大陸にいく。
《そのとき私は生まれて初めて、違う世界を見た。
 はげしいショックを受けた。雄大な自然を前に、
 今までの自分の生き方がコセコセしたものに
 見えてきたといったら、カッコよすぎる言い方に
 なってしまうけれど、
 言葉にすれば大体そんなところだった。》
《それが、きっかけだった。・・・好きに理由はない。》

だが、

《あるとき、こんなことを言われた。
「女優なのに、それ以上有名になりたいの?」と。
 私は悲しくなった。有名になりたいから、女性として
 初めて北極点に立つ名誉がほしいから、北極点に
 行くのではない。私の心の中の何かが、北極点に
 立ちたいと叫んでいるのだ。
 「それ以上有名になりたいの?」というなら、
 「私はこれ以上有名になりたいとは思っていない。
  もう十分に有名です」といいたい。
  私は情けなくて、くやしくて、涙が出そうだった。》

だれでも、心のなかに鳥を飼っている。
その鳥がはばたきしたいと思ったら、
もう誰も止めることはできない。

シュニトケ『ビオラ協奏曲』2005/08/26

私が最初に聴いたシュニトケ作品は、
ビオラ協奏曲でした。
だれの演奏か忘れましたけれど。

偶然ですが、大学になってビオラを習いました。
オーケストラに参加するときに選んだ楽器です。
初心者からですから、いまはもう弾けません。

ビオラは内声部だし、目立たちませんね。
高音は、バイオリンほどの伸びがなく
低音は、チェロほどの深みもない。
でも、そのやわらかい音色が好きでした。

本来内声部をうけもつ地味な楽器を
主役にした協奏曲を書く人は
決して外面的な効果をねらうわけはなく、
したがって、私は、ビオラ協奏曲ときくと
文句なく好きになります。

シューマン『詩人の恋』と歌うピアノ(ホロヴィッツ)2005/08/27

ハインリヒ・ハイネの詩をもとにした
シューマンの有名な歌集です。

1976年5月18日に行われた
カーネギー・ホール85周年記念演奏会があります。
そこで、ホロヴィッツさんが伴奏をつとめ、
ディートリヒ・フィーシャー=ディースカウさんが
歌っています。

この取り合わせを聞いただけで、胸がときめきませんか?
(ある種の心配がないわけではないけれど)

16曲の冒頭は、「美しい五月に」。
導入のピアノの伴奏(?)に、耳が釘付けになりそうです。
バリトンが必要ないとさえ感じます(笑)。
そして、
うっとりと16曲を聴き終わりました。

この日、ホロヴィッツさんは、シューマンのほかに
スターンさん、ロストロポーヴィッチさんと
チャイコフスキーのピアノ三重奏曲イ短調の第一楽章、
ロストロポーヴィッチと
ラフマニノフのチェロ・ソナタト短調の第三楽章を演奏しています。

ぶっつけ本番の合わせだったのかも知れないけれど、
聴く方は、とても楽しむことができました。

ロシア・ピアニズムの世紀的な名手の一人
ウラジーミル・ホロヴィッツ
ヴァイオリンやチェロの名手と並んでも、
また世紀の名歌手と共演しても
歌う能力の高さは際立ちます。
音量に関係なく、耳にからみつく歌を聞かせてもらいました。
おかげで、すこし疲れもしましたが。

ニジンスキーの手記2005/08/28

●『ニジンスキーの手記』

この本をさがして、本棚をごそごそしていたが、ようやく見つけた。
古い本である。現代思想社で、1982年出版。
翻訳したのは、市川雅氏。

調べてみると、これはロシア語原書からではなく、
その英訳版をもとにした訳書であった。
しかも、英訳版は、割愛が多く、もとの三分の一の分量。
訳として優秀であっても、値打ちは高くはないと思われる。

最近・・・といっても1998年だが、
ロシア語原書からの翻訳が出された。
タイトルは同じ『ニジンスキーの手記』
新書館から鈴木 晶 訳で。

上の写真は、この新訳である。

ともかく旧版しかもっていないので、
そのページを繰ってみると、?????となる。
そうだ、これは狂気におちいったニジンスキーの
文字通りの手記だからだ。
話に展開はなく、短いフレーズで、繰り返されるおなじ表現。
それでも、きにせずパラパラパラ。
原著はもっと生々しく、性描写も露骨だという。
しかし、そこに魅力があるわけではない。

「訳者あとがき」にたどりつき、正気の世界にもどる。
市川氏の筆になるこの「あとがき」はすぐれたものだ。

そこに、探していたオーギャスト・ロダンの言葉を見つける。
それを引用して、この本を閉じることにしたい。

1912年5月29日、パリでニジンスキーが振付けた
マラルメの「牧神の午後」が初演される。
そして、大スキャンダルとなる。
『ル・マタン』紙にロダンはつぎのように書く。

《ニジンスキーは、肉体的な完璧さ、調和のとれた
 体つき、もっとも複雑な感情さえ、肉体によって
 伝達することができるまれに見る能力、
 というきわだった長所を備えている。
 『ペトルーシュカ』の悲しい演技は胸に迫るものであり、
 『バラの精』の最後の跳躍は、あたかも無限の空間へ
 飛びさるような感じを与える。
 だが、『牧神の午後』におけるニジンスキーを凌ぐほど
 すばらしくまた賞賛すべき演技を見出すことは 不可能であろう。
 跳躍もなく、むずかしい技術の見せ場もない。
 ただ、半ばうずくまり、不意に体を伸ばす。
 時にゆっくりと、時にはぴくりと。
 神経的にぎこちなく、彼は進み後ずさりをする。
 目は獲物を求め、胸を大きく広げて、手を開き、閉じ、
 頭はぐらりと傾き、うしろにそりかえる。
 肉体のあらゆる部分が、彼の心をよぎる動きを表現する》

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)