お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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無料通園バスも廃止の方向2006/03/03

志賀町の無料通園バスです。
南北に長い志賀町では、子育てに必要な制度です。

しかし、大津市と合併はすべて「大津市にあわせる」約束。
このために、3年で廃止の方向が決まっています。

数の横暴で上から決められていく合併。
やがて、住民から審判が下されることになるでしょう。

合併は、もう目の前。
3月20日です。

この姿を残したくて写真に撮りました。

志賀中学校にも政治の波が2006/03/06

●南北に細長い志賀町に唯一の中学校

 志賀町は南北に細長い土地。
 JRの駅も、小野、和邇、蓬莱、志賀、近江舞子、比良、北小松と
 7つもあります。
 そのような土地柄にたった一つの中学校。
 そのために、通学補助を町独自につくっているのです。

●政治の波が押し寄せる

 しかし、この3月20日に志賀町は大津市に編入合併されます。
 こうむる弊害は主には二つ。
 第一、通学補助の削減。
  町当局は、合併を念頭に補助率を引き下げていましたが、
  その負担は重いと思います。
 第二は、自校方式の給食の廃止。
  わずか三年で廃止されます。

●美しい風景はかわらないのに

 写真で見るとわかるように、美しい風景に囲まれています。
 この風景とは裏腹にすすむ政治の荒波。
 
 負けるな!と心で叫びたくなります。

豪華庁舎をムダにするな! 合併の爪あと:旧志賀町役場(木戸支所)①2006/03/07

「平成の大合併」は、さまざまな不合理を生んでいます。
住民サービスがたくさん削られたこともそうです。

しかし、税金をつぎこんで建設された豪華庁舎が
まったく、有効に使われなくなるというのが、
腹立たしいのです。

議会もなくなる(本会議場その他はまったく無用に)
機能がけずられた結果、人数が減らされる、
そのために、空き部屋がものすごく増えていくということです。

そこにいままでとかわらない豪華な庁舎があるのに、
わざわざ遠い市役所にいかなければ、処理ができないことは
さらに怒りを高めます。

高島市からの帰りに、何枚か写真を撮りました。

豪華庁舎をムダにするな! 合併の爪あと:旧志賀町役場②2006/03/08

この旧志賀町役場は、その豪華な計画に反対意見が
あったにもかかわらず、時の町長と議会の多数派によって
建設が強行されました。
それも数年前のことです。
建設して、わずか数年で、合併問題が起こりました。
国が上から推し進める押しつけ合併です。

これも議会の多数派と保守系の町長の仕事でした。

豪華な庁舎を強引に建設し、
建設したとと思ったら数年で、無用なものにしてしまう。

これは許されることではありません。

上の写真は、この豪華庁舎の前に町役場があったところです。
2006年3月に撮りました。

見てのとおり、まったくの空き地になっています。
いまだに、用途がないのでしょうか。
なにかむなしい気持ちでシャッターを切ったことを覚えています。

志賀町で新大津市の門出祝い・・・はたしてお祝い気分になれるでしょうか2006/03/21

 志賀町と大津市の合併は、志賀町の側からすれば、土下座合併。正式には、編入合併。私は旧大津人ですが、祝う気分にはなれません。
 かつげの志賀町役場で行われたセレモニーの報道を記念にメモしておきましょう。

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新大津市の門出祝う 志賀・旧町役場が「木戸市民センター」に
2006年3月20日
 滋賀県大津市と志賀町が20日、合併した。同市木戸の旧町役場を「木戸市民センター」(市支所)に改める開所式を開いて、職員や関係者が「新大津市」の門出を祝った。
 式には、旧町からの職員をはじめ、約160人が出席した。目片信市長は「合併に託された皆さんの期待を思うと、責任に身の引き締まる思いだ。合併して良かったと実感してもらえるまちづくりにまい進していきたい」と決意を語り、後藤又久前町長も「(旧志賀町の)自然の豊かさと癒しを感じてもらい、県都としての装いが一層向上することを期待したい」とエールを送った。
 センターの玄関前で、新名称を刻んだ銘板を除幕し、職員たちは新市の発展を誓い合った。
 木戸市民センターは3月末まで、旧町の職員がそのまま残り、来年度からは旧町域に設ける4支所の「基幹支所」として30人が配置される。その後、段階的に職員を減らし、3年後に一般支所となる。
京都新聞

交野吊橋 星のブランコ①2006/03/27

生駒市からの帰り道に、「交野吊橋 星のブランコ」に寄ってきました。

交野吊橋 星のブランコ②日本一2006/03/27

横から見ると、こんな感じです。K君とH君が渡っています。
人道つり橋としては、日本最大らしいですね。
府民の森「ほしだ園地」にあります。周囲の景観に配慮し、床版は木製とし
主塔は山の稜線より高さを低く抑えているそうですね。
全長 280メートル
高さ  50メートル

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)