お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
こんな街でいいのかという写真=写らないものを写したくて ― 2007/06/19
●ヘタな写真
少し開いた時間。
自分が以前に写した写真に目を通していました。
シャガール展の写真を見つけました。
ミクシに書いた日記を思い出し、ほとんどそのまま
「過去の日記」(2005年9月30日)を書いてみました。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/06/16/1582809
おなじホルダーにピンボケのチケットとJR大津駅前が
写っている写真がありました。
上のアップした写真です。
自分の手でチケットをもって、背景と同時に写すって
難しいですね。
ですから、ひどい出来。
でも・・・思い出しました。
腹立ちを表現したかったんです。
チケットと対比してお見せしたかったのは、
サラ金の看板。
「ほのぼのレイク」「アイフル」「プラム」「プロミス」「ディック」「レタス」
写っていない側にもまだまだあります。
●京都駅から大津駅を眺めて
この日は、月末で仕事がとても忙しいときに、
どうしようかと迷い迷って30分間だけ、
たった一人でシャガール展を見に行きました。
そのときに、美術館が駅にある便利さを
どれほど感じたか知れません。
JR京都駅には、美術館「駅」があり、
私が見たかったシャガール展を開いていました。
ところが、大津の戻ったとたん目に飛び込んでくるのは、
「文化」ではなく、「サラ金」の看板の乱立だったからです。
見慣れている風景が、みすぼらしく、なさけなく感じたのです。
ほかにどういう表現もできなくて、チケットといっしょに
写しこんだという訳でした。
そこに存在するものは、写すことができます。
しかし、そこにあってほしいと願うものを写すことはできません。
チケットはその代用物としては、うまくありませんでした。
・・・これだけの説明が必要になるのですから。
少し開いた時間。
自分が以前に写した写真に目を通していました。
シャガール展の写真を見つけました。
ミクシに書いた日記を思い出し、ほとんどそのまま
「過去の日記」(2005年9月30日)を書いてみました。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/06/16/1582809
おなじホルダーにピンボケのチケットとJR大津駅前が
写っている写真がありました。
上のアップした写真です。
自分の手でチケットをもって、背景と同時に写すって
難しいですね。
ですから、ひどい出来。
でも・・・思い出しました。
腹立ちを表現したかったんです。
チケットと対比してお見せしたかったのは、
サラ金の看板。
「ほのぼのレイク」「アイフル」「プラム」「プロミス」「ディック」「レタス」
写っていない側にもまだまだあります。
●京都駅から大津駅を眺めて
この日は、月末で仕事がとても忙しいときに、
どうしようかと迷い迷って30分間だけ、
たった一人でシャガール展を見に行きました。
そのときに、美術館が駅にある便利さを
どれほど感じたか知れません。
JR京都駅には、美術館「駅」があり、
私が見たかったシャガール展を開いていました。
ところが、大津の戻ったとたん目に飛び込んでくるのは、
「文化」ではなく、「サラ金」の看板の乱立だったからです。
見慣れている風景が、みすぼらしく、なさけなく感じたのです。
ほかにどういう表現もできなくて、チケットといっしょに
写しこんだという訳でした。
そこに存在するものは、写すことができます。
しかし、そこにあってほしいと願うものを写すことはできません。
チケットはその代用物としては、うまくありませんでした。
・・・これだけの説明が必要になるのですから。
かけがえのないリヒテルの世界 : ディートリヒ追悼コンサート ― 2007/06/19
スビャトスラフ・リヒテルが私たちに残した
もっともすばらしい遺産のひとつがこのCDであるように思えます。
「最晩年のスビャトスラフ・リヒテル マレーネ・ディートリヒ追悼のために」
Sviatoslav Richter Out of Later years in memoriam Marlane Dietrich
LIVE CLASSICSレーベルのサイト
http://www.live-classics.com/richter.htm
ディートリヒというのは、
あの女優のマレーネ・ディートリヒ(1901~92)のことです。
http://www.marlene.com/
●マレーネ・ディートリヒ追悼コンサート
二人の間に、重要な関係があったことに
最初に気がついたのは、つい最近のことです。
ライヴクラシックス・レーベルの、
《マレーネ・ディートリヒに捧ぐ》というCDを
手に入れたときです。
これは、ディートリヒの死(5月6日)の直後の
1992年5月15日にミュンヘン大学で行われた
追悼演奏会のライヴ録音です。
演奏曲目は、以下のとおりです。
★ ハイドン アンダンテと変奏曲ヘ短調作品10
★ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第31番
変イ長調 作品110
★ショパン 幻想ポロネーズ 作品61
★スクリャービン マズルカ 変ニ長調 作品40-1
マズルカ 嬰ヘ長調 作品40-2
ポエム―ノクチュルヌ 作品61
★ドビュッシー 喜びの島
★ラヴェル 鐘の谷(「鏡」より)
●両者の接点
両者の接点など想像がつきませんでしたので、
意外に思いました。
それでも、それ以上、つっこむ気持ちになれず、
ずっと放置してきました。
まあ、女優さんとの関係なんてどうでもいいやと
いう気分だったのです。
今日、鈴木明さんの
『わがマレーネ・ディートリヒ伝』(小学館ライブラリー)
を読み直してみて、ディートリヒという女性を
あらためて見直しました。
それで、リヒテルとの関係がそぞろ気になりはじめた
のです。
エジンバラ音楽祭で出会っていることがわかって
いますから、リヒテルのコンサート記録を調べて、
両者が出会っている日を確認しました。
その日は、1964年9月4日のはずです。
鈴木氏の記述は以下のとおりです。
《エディンバラ音楽祭では、彼女はソ連の、というよりロシアの生んだ最高のピアニスト、リヒテルと同じプログラムに名前を連ね、同じパーティの席に坐った。このときディートリヒはリヒテルの手を見て、
「素晴らしい芸術家としての手をもっておいでですね。私はいつまでもパスポートの職業欄に”女優”と書かれていて、芸術家にはなれないのです」
と語ったという。ゴシップにしてはできすぎている。》
(同書 274㌻)
●リヒテル側の証言
リヒテル自身がディートリヒに言及しているものは、
たしかにいくつかあります。
ブリューノ・モンサンジョンの『リヒテル』(筑摩書房)
には、「音楽をめぐる手帳」に3箇所あります。
どれも、彼女の音楽を手放しでほめたたえている文章です。
たとえば、1973年8月。
ミッタードルフのテレビ放送で、
マレーネ・ディートリヒの歌を聴いて
『マレーネはいつ見ても驚異であり、またとない贈り物だ。こんなに遠く離れた場所、村にあっても。実に素敵で、うっとりするほど魅力的だ。そして驚くほどの才能と趣味の良さで歌を聴かせてくれる。ほかにどう言ったらいいだろう。』
(モンサンジョン 282㌻)
さらに、もっと私的な会話内容をうかがえるのは、
ユーリー・ボリソフの『リヒテルは語る』(音楽の友社)
です。
『私は知っているが、マレーネ・ディートリッヒは自分の葬儀のことばかり考えていた。いくつかのシナリオができていた。葬儀の日、ホテルには空き部屋がひとつもなく、満室でなければいけないのだそうだ。棺はディオールの生地で覆われて・・・。「スラーヴァ、あなたの葬儀のシナリオはないの?」彼女にそう訊かれたよ。どうも彼女には妙なこだわりがあってね。』(ボリソフ 61㌻)
もっともすばらしい遺産のひとつがこのCDであるように思えます。
「最晩年のスビャトスラフ・リヒテル マレーネ・ディートリヒ追悼のために」
Sviatoslav Richter Out of Later years in memoriam Marlane Dietrich
LIVE CLASSICSレーベルのサイト
http://www.live-classics.com/richter.htm
ディートリヒというのは、
あの女優のマレーネ・ディートリヒ(1901~92)のことです。
http://www.marlene.com/
●マレーネ・ディートリヒ追悼コンサート
二人の間に、重要な関係があったことに
最初に気がついたのは、つい最近のことです。
ライヴクラシックス・レーベルの、
《マレーネ・ディートリヒに捧ぐ》というCDを
手に入れたときです。
これは、ディートリヒの死(5月6日)の直後の
1992年5月15日にミュンヘン大学で行われた
追悼演奏会のライヴ録音です。
演奏曲目は、以下のとおりです。
★ ハイドン アンダンテと変奏曲ヘ短調作品10
★ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第31番
変イ長調 作品110
★ショパン 幻想ポロネーズ 作品61
★スクリャービン マズルカ 変ニ長調 作品40-1
マズルカ 嬰ヘ長調 作品40-2
ポエム―ノクチュルヌ 作品61
★ドビュッシー 喜びの島
★ラヴェル 鐘の谷(「鏡」より)
●両者の接点
両者の接点など想像がつきませんでしたので、
意外に思いました。
それでも、それ以上、つっこむ気持ちになれず、
ずっと放置してきました。
まあ、女優さんとの関係なんてどうでもいいやと
いう気分だったのです。
今日、鈴木明さんの
『わがマレーネ・ディートリヒ伝』(小学館ライブラリー)
を読み直してみて、ディートリヒという女性を
あらためて見直しました。
それで、リヒテルとの関係がそぞろ気になりはじめた
のです。
エジンバラ音楽祭で出会っていることがわかって
いますから、リヒテルのコンサート記録を調べて、
両者が出会っている日を確認しました。
その日は、1964年9月4日のはずです。
鈴木氏の記述は以下のとおりです。
《エディンバラ音楽祭では、彼女はソ連の、というよりロシアの生んだ最高のピアニスト、リヒテルと同じプログラムに名前を連ね、同じパーティの席に坐った。このときディートリヒはリヒテルの手を見て、
「素晴らしい芸術家としての手をもっておいでですね。私はいつまでもパスポートの職業欄に”女優”と書かれていて、芸術家にはなれないのです」
と語ったという。ゴシップにしてはできすぎている。》
(同書 274㌻)
●リヒテル側の証言
リヒテル自身がディートリヒに言及しているものは、
たしかにいくつかあります。
ブリューノ・モンサンジョンの『リヒテル』(筑摩書房)
には、「音楽をめぐる手帳」に3箇所あります。
どれも、彼女の音楽を手放しでほめたたえている文章です。
たとえば、1973年8月。
ミッタードルフのテレビ放送で、
マレーネ・ディートリヒの歌を聴いて
『マレーネはいつ見ても驚異であり、またとない贈り物だ。こんなに遠く離れた場所、村にあっても。実に素敵で、うっとりするほど魅力的だ。そして驚くほどの才能と趣味の良さで歌を聴かせてくれる。ほかにどう言ったらいいだろう。』
(モンサンジョン 282㌻)
さらに、もっと私的な会話内容をうかがえるのは、
ユーリー・ボリソフの『リヒテルは語る』(音楽の友社)
です。
『私は知っているが、マレーネ・ディートリッヒは自分の葬儀のことばかり考えていた。いくつかのシナリオができていた。葬儀の日、ホテルには空き部屋がひとつもなく、満室でなければいけないのだそうだ。棺はディオールの生地で覆われて・・・。「スラーヴァ、あなたの葬儀のシナリオはないの?」彼女にそう訊かれたよ。どうも彼女には妙なこだわりがあってね。』(ボリソフ 61㌻)
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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