お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
かけがえのないリヒテルの世界 : ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番 ― 2007/06/22
スビャトスラフ・リヒテルが、東西冷戦の壁の向こう側にいて、
すばらしいピアニストであることは伝わってきても、
実際に確かめようのない状態がずいぶん長く続きました。
それは、リヒテルが母はウクライナの地主に娘でしたが、
父親が生粋のドイツ人であったことと無縁ではありませんでした。
第二次世界大戦では、ソ連とドイツは敵国であり、交戦中でした。
父テモティは、ピアニストでしたが、スパイ容疑で逮捕され、
銃殺されてしまいます。
リヒテルが、ソ連外での演奏を許可されたのは、1950年のことです。
http://www.ne.jp/asahi/ponpoko/tanuki/nenpyou.htm
行き先は当時のチェコスロヴァキア。
1954年には、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランド。
1956年には、三度チェコスロヴァキアへ。
1957年、モスクワに演奏旅行をしていたグレン・グールドと出会います。
同じ年に、ギレリスが初来日。リヒテルのうわさをひろめる役目も果たします。
1958年には、ハンガリーへ。
1959年4月には、ワルシャワへ行き、そこでラフマニノフのピアノ協奏曲大j二番を録音するのです。
長々と書きましたが、リヒテルがようやく国外旅行を許されて
10年近くたっても、まだ西欧に顔を出すことは許されませんでした。
アメリカ・デビューは、1960年です。
日本は、1970年。
どれだけ、リヒテルの来日をファンの人たちが待っていたのかは
想像できます。
その間、リヒテルのレコードが不在を埋めていました。
そのなかで、もっとも人気が高く、
これによってリヒテルを知ったというのが、
ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番だと思います。
そういういわくつきの(?)CDですね。
鮮やかで、濃厚なラフマニノフを聞くことができます。
オーケストラが物足りない人は、ザンデルリング指揮のものがあります。
すばらしいピアニストであることは伝わってきても、
実際に確かめようのない状態がずいぶん長く続きました。
それは、リヒテルが母はウクライナの地主に娘でしたが、
父親が生粋のドイツ人であったことと無縁ではありませんでした。
第二次世界大戦では、ソ連とドイツは敵国であり、交戦中でした。
父テモティは、ピアニストでしたが、スパイ容疑で逮捕され、
銃殺されてしまいます。
リヒテルが、ソ連外での演奏を許可されたのは、1950年のことです。
http://www.ne.jp/asahi/ponpoko/tanuki/nenpyou.htm
行き先は当時のチェコスロヴァキア。
1954年には、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランド。
1956年には、三度チェコスロヴァキアへ。
1957年、モスクワに演奏旅行をしていたグレン・グールドと出会います。
同じ年に、ギレリスが初来日。リヒテルのうわさをひろめる役目も果たします。
1958年には、ハンガリーへ。
1959年4月には、ワルシャワへ行き、そこでラフマニノフのピアノ協奏曲大j二番を録音するのです。
長々と書きましたが、リヒテルがようやく国外旅行を許されて
10年近くたっても、まだ西欧に顔を出すことは許されませんでした。
アメリカ・デビューは、1960年です。
日本は、1970年。
どれだけ、リヒテルの来日をファンの人たちが待っていたのかは
想像できます。
その間、リヒテルのレコードが不在を埋めていました。
そのなかで、もっとも人気が高く、
これによってリヒテルを知ったというのが、
ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番だと思います。
そういういわくつきの(?)CDですね。
鮮やかで、濃厚なラフマニノフを聞くことができます。
オーケストラが物足りない人は、ザンデルリング指揮のものがあります。
ナウカからの電話をうけて ― 2007/06/22
朝、ナウカ書店から、電話がありました。
在庫確認をしていたクリチェフスキー Ключевский, Василий Осиповичの本があったので、
アルセニー・タルコフスキーの詩集と二冊、発送するとのことでした。
●クリュチェフスキーは、帝政ロシア末期の優れた歴史家です。
ロシア史講話は、持っています。
今回購入したのは、
「貴族会議」Боярская дума Древней Руси
クリュチェフスキーについては以下のとおり。
Василий Осипович Ключевский (16 (28 января) января) 1841, с. Вознесенское Пензенской губернии в 12 (25) мая 1911, Москва в русский историк, академик (1900), почётный академик (1908) Петербургской Академии Наук. Сын сельского священника Осипа Васильевича Ключевского (1815 - 1850). Учился в Пензенской Духовной семинарии. В 1861 году поступил на историко-философский факультет Московского университета. Кандидатская диссертация Сказания иностранцев о Московском государстве; магистерская диссертация Древнерусские жития святых как исторический источник (1871 г.). С 1885 года профессор Московского университета. В 1893-1895 гг. по поручению императора Александра III читал курс русской истории великому князю Георгию Александровичу. В 1905 году участвовал в особом совещании об основных законах. В 1882 году вышла докторская диссертация Ключевского Боярская дума Древней Руси. В 1899 г. Вышло Краткое пособие по русской истории, а с 1904 г.издается полный курс. Всего вышло 4 тома - до времени Екатерины II. В 1906 году в Париже принят в Ложу Шотландского устава «Космос» вместе с историками профессором Трачевским А.С., Аничковым Е. В. и рядом других известных русских общественных деятелей, главным образом принадлежащих кадетской партии. При рассмотрении русской истории на первый план выдвигал политические и экономические события.
[править] Ссылки
Биография В.О. Ключевского
在庫確認をしていたクリチェフスキー Ключевский, Василий Осиповичの本があったので、
アルセニー・タルコフスキーの詩集と二冊、発送するとのことでした。
●クリュチェフスキーは、帝政ロシア末期の優れた歴史家です。
ロシア史講話は、持っています。
今回購入したのは、
「貴族会議」Боярская дума Древней Руси
クリュチェフスキーについては以下のとおり。
Василий Осипович Ключевский (16 (28 января) января) 1841, с. Вознесенское Пензенской губернии в 12 (25) мая 1911, Москва в русский историк, академик (1900), почётный академик (1908) Петербургской Академии Наук. Сын сельского священника Осипа Васильевича Ключевского (1815 - 1850). Учился в Пензенской Духовной семинарии. В 1861 году поступил на историко-философский факультет Московского университета. Кандидатская диссертация Сказания иностранцев о Московском государстве; магистерская диссертация Древнерусские жития святых как исторический источник (1871 г.). С 1885 года профессор Московского университета. В 1893-1895 гг. по поручению императора Александра III читал курс русской истории великому князю Георгию Александровичу. В 1905 году участвовал в особом совещании об основных законах. В 1882 году вышла докторская диссертация Ключевского Боярская дума Древней Руси. В 1899 г. Вышло Краткое пособие по русской истории, а с 1904 г.издается полный курс. Всего вышло 4 тома - до времени Екатерины II. В 1906 году в Париже принят в Ложу Шотландского устава «Космос» вместе с историками профессором Трачевским А.С., Аничковым Е. В. и рядом других известных русских общественных деятелей, главным образом принадлежащих кадетской партии. При рассмотрении русской истории на первый план выдвигал политические и экономические события.
[править] Ссылки
Биография В.О. Ключевского
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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