お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

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エフトシェンコの詩 : Бабий Яр2007/07/08

エフトシェンコときいてすぐピンとくる人は少ないでしょう。
ソ連時代の詩人、雪解け時代に名をはせた人です。
「バビ・ヤール」は、1961年11月19日に「文学新聞」に
発表された詩です。ユダヤ人虐殺を扱っているだけに、
スターリン時代の反ユダヤ人政策を考えると、決して
穏やかな主題ではありませんでした。
これを読み、ショスタコーヴィッチが交響曲を作曲しはじめます。
その年の4月にスコアができていますから、かなり早い仕上がりです。
元の詩は、以下のとおりです。

Бабий Яр
 バビ・ヤール

Над Бабьим Яром памятников нет.
 「バビ・ヤール」には、記念碑は存在しない。
Крутой обрыв, как грубое надгробье.
 切り立った崖が、粗末な墓標のように存在するだけである。
Мне страшно.
私は恐ろしい
Мне сегодня столько лет,
как самому еврейскому народу.
私は、今日は、ユダヤ民族そのものように年老いている。

ここまでが、ショスタコーヴィッチの交響曲では、合唱が歌います。
次は、バスがソロで。

Мне кажется сейчас — я иудей.
私には、自分がいまやユダヤ人であるように思える。
Вот я бреду по древнему Египту.
ほら、私は、古代のエジプトをさまようのだ。
А вот я, на кресте распятый, гибну,
ほら、私は十字架に釘づけされて死ぬのだ。
и до сих пор на мне — следы гвоздей.
そして、いまにいたるまで、私には釘の跡が残っている。

実は、このソロの部分が書き換えるようにソ連当局から求められたのです。
エフトシェンコは書き直して、つぎのようにしました。

Я тут стою, как будто у криницы,
дающей веру в наше братство мне.
われわれの友情を私に信じさせるような、そんな泉に私は立っている。
Здесь русские лежат и украинцы,
лежат с евреями в одной земле.
ここには、ロシア人たち、ウクライナ人たちが横たわっている。
ユダヤ人と同じ大地に横たわっている

以下の部分にも、もう一箇所改定があります。

したがって、「バビ・ヤール」の歌詞には、二つの版が存在するわけです。
初演をしたのは、キリル・コンドラシン。1962年12月18日のことです。
演奏は、モスクワ・フィル。バス独唱は、グロマツキー。
このときは、オリジナルを用いています。
改定は、この初演のあとで求められたのです。
ユダヤ色を薄めて、ロシア人を賛美するような歌詞にかえられています。
コンドラシンが演奏する「バビ・ヤール」には、数種類の録音がありますが、
改訂版を使っているものも(おそらくやむをえず)ありますが、
1980年12月にミュンヘンで録音されたCD(2006年に出版)では、初版が使われています。
いまや圧力を加えるソ連体制は存在しません。
オリジナルを用いるのになんの躊躇も必要ありません。
全音楽譜出版から出ている「バビ・ヤール」のスコアは、オリジナルに言及はしていますが、改定された歌詞を用いています。

Мне кажется, что Дрейфус — это я.
Мещанство — мой доносчик и судья.

Я за решеткой.
Я попал в кольцо.
Затравленный,
оплеванный,
оболганный.
И дамочки с брюссельскими оборками,
визжа, зонтами тычут мне в лицо.
Мне кажется —
я мальчик в Белостоке.
Кровь льется, растекаясь по полам.
Бесчинствуют вожди трактирной стойки
и пахнут водкой с луком пополам.
Я, сапогом отброшенный, бессилен.
Напрасно я погромщиков молю.
Под гогот:
"Бей жидов, спасай Россию!" —
насилует лабазник мать мою.
О, русский мой народ! —
Я знаю —
ты
По сущности интернационален.
Но часто те, чьи руки нечисты,
твоим чистейшим именем бряцали.
Я знаю доброту твоей земли.
Как подло,
что, и жилочкой не дрогнув,
антисемиты пышно нарекли
себя "Союзом русского народа"!
Мне кажется —
я — это Анна Франк,
прозрачная,
как веточка в апреле.
И я люблю.
И мне не надо фраз.
Мне надо,
чтоб друг в друга мы смотрели.
Как мало можно видеть,
обонять!
Нельзя нам листьев
и нельзя нам неба.
Но можно очень много —
это нежно
друг друга в темной комнате обнять.
Сюда идут?
Не бойся — это гулы
самой весны —
она сюда идет.
Иди ко мне.
Дай мне скорее губы.
Ломают дверь?
Нет — это ледоход...
Над Бабьим Яром шелест диких трав.
Деревья смотрят грозно,
по-судейски.
Все молча здесь кричит,
и, шапку сняв,
я чувствую,
как медленно седею.
И сам я,
как сплошной беззвучный крик,
над тысячами тысяч погребенных.
Я —
каждый здесь расстрелянный старик.
Я —
каждый здесь расстрелянный ребенок.
Ничто во мне
про это не забудет!
"Интернационал"
пусть прогремит,
когда навеки похоронен будет
последний на земле антисемит.
Еврейской крови нет в крови моей.
Но ненавистен злобой заскорузлой
я всем антисемитам,
как еврей,
и потому — я настоящий русский!

1961

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)