お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
三井寺観音堂から見た大津①明治時代 ― 2007/08/11
大津事件(1891年)のパンフレットのなかに、明治の頃の大津を風景の写真がありました。それは、三井寺観音堂から琵琶湖に向かって写された写真です。
パンフを(申し訳ありませんが)写してみました。
はじめてみた時、米軍の空襲の跡地かと錯覚したくらい建物の影がありません。よく見ると、平屋の建物が多いのでそう感じたのです。
真ん中に琵琶湖に向かって水路が通っています。
これが第一琵琶湖疏水です。
1885年(明治18年)に着工し、1890年(明治23年)に鴨川 (淀川水系)合流点までが完成しました。明治の土木技術の粋を集めた難工事でした。
それが写っていますから、これ以後の写真だとわかります。
この写真を見ていましたから、できるだけ近い位置で、同じ方向を撮影してみようと思いました。
ヒロシマの日に、法要がありましたので、その機会に試してみました。
それが次の写真です。
パンフを(申し訳ありませんが)写してみました。
はじめてみた時、米軍の空襲の跡地かと錯覚したくらい建物の影がありません。よく見ると、平屋の建物が多いのでそう感じたのです。
真ん中に琵琶湖に向かって水路が通っています。
これが第一琵琶湖疏水です。
1885年(明治18年)に着工し、1890年(明治23年)に鴨川 (淀川水系)合流点までが完成しました。明治の土木技術の粋を集めた難工事でした。
それが写っていますから、これ以後の写真だとわかります。
この写真を見ていましたから、できるだけ近い位置で、同じ方向を撮影してみようと思いました。
ヒロシマの日に、法要がありましたので、その機会に試してみました。
それが次の写真です。
三井寺観音堂から見た大津②2007年 ― 2007/08/11
2007年8月6日の原爆慰霊祭のときに、撮影した写真です。
位置的には立つ位置が少し右手すぎたかも知れません。
お寺の特徴ある建物で位置を確かめてください。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/11/1716934
一世紀を隔てて見ると違いがはっきりします。
疏水は、周りに桜が植えられ、緑の帯になっています。
お堂の上の緑がそうですが、拡大表示で見ると疏水の石張りが見えます。
全体として、高層建築が増えたことがよくわかります。
次回は、できるだけ近い位置を探して見ます。
位置的には立つ位置が少し右手すぎたかも知れません。
お寺の特徴ある建物で位置を確かめてください。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/11/1716934
一世紀を隔てて見ると違いがはっきりします。
疏水は、周りに桜が植えられ、緑の帯になっています。
お堂の上の緑がそうですが、拡大表示で見ると疏水の石張りが見えます。
全体として、高層建築が増えたことがよくわかります。
次回は、できるだけ近い位置を探して見ます。
そんな枕でいいんだろうか、ムー♂ネコくん ― 2007/08/11
ネコも枕がいるみたいですね。
でも、これでいいのか?イスの足ですが。
でも、これでいいのか?イスの足ですが。
きりりとしたムー♂ネコくん ― 2007/08/11
ムー♂は、さっぱりした性格。とくに甘えるわけでもなく、マイペース。
モー♂ネコのほうが巨大なのに、平気でパンチをしかけます。
モー♂ネコのほうが巨大なのに、平気でパンチをしかけます。
うざい!というムー♂の顔 ― 2007/08/11
あまり気にしないムー♂ネコですが、カメラのフラッシュがまぶしいのでしょうね。こんな変な顔になってしましました。眠いのかな?
モー♂ネコも、ひつこくカメラをむけると怒る? ― 2007/08/11
人のよい(ネコのよい)モー♂ネコ。すぐ逃げ回る臆病モノです。
しかし、カメラで追いかけまわすと、さすがに不機嫌さを露骨にしめします。
もういいかげんにしてくれ!という顔かな?
しかし、カメラで追いかけまわすと、さすがに不機嫌さを露骨にしめします。
もういいかげんにしてくれ!という顔かな?
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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