お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
陸軍墓地の上段のほぼ真ん中には祭壇がありました ― 2007/09/04
陸軍墓地の供養塔 ― 2007/09/04
陸軍墓地の祭壇には、真新しい木の卒塔婆が並んでいます ― 2007/09/04
陸軍墓地には、どういう戦死者が眠るのか ― 2007/09/04
陸軍墓地を見に行くと決めたとき、ただ眺めることを目的にしたわけではありません。軍隊を持ち、基地があり、そして戦争が行われたとき、起こる悲劇を、しっかり受け止めたかったからです。
一つ一つのお墓の碑文を読みながら、歩きました。
明治の最初のころと思われるお墓は、刻まれた文字を読むことができません。正面のお名前はかろうじて読めても、没年や亡くなった事情、戦場などが書かれている面は、風雪によって崩れてしまっています。
永遠にと願って石に刻んだことも、150年とはもたなかったのです。
どのエリアに、どの戦争の、どの戦場で、亡くなられた兵士が葬られているのか、またお年はいくつで亡くなられたのか、などを見てゆきました。
一つ一つのお墓の碑文を読みながら、歩きました。
明治の最初のころと思われるお墓は、刻まれた文字を読むことができません。正面のお名前はかろうじて読めても、没年や亡くなった事情、戦場などが書かれている面は、風雪によって崩れてしまっています。
永遠にと願って石に刻んだことも、150年とはもたなかったのです。
どのエリアに、どの戦争の、どの戦場で、亡くなられた兵士が葬られているのか、またお年はいくつで亡くなられたのか、などを見てゆきました。
陸軍墓地 死んでなお階級制度に縛られるのは不条理です ― 2007/09/04
「明治三十七八年戦没下士戦病死者合葬碑」(日露戦争の碑Ⅲ) ― 2007/09/04
あらためて、下段の上って左側の二つの墓碑に注目しました。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769168
左の小さめの墓碑がこれです。
「明治三十七八年戦没下士戦病死者合葬碑」
と書かれています。
陸軍墓地にある日露戦争の碑の一つです。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769168
左の小さめの墓碑がこれです。
「明治三十七八年戦没下士戦病死者合葬碑」
と書かれています。
陸軍墓地にある日露戦争の碑の一つです。
「明治三十七八年戦没准士官戦病死者合葬碑」(日露戦争の碑Ⅱ) ― 2007/09/04
「明治三十七八年戦没将校同相当官戦病死者合葬碑」(日露戦争の碑Ⅰ) ― 2007/09/04
段々畑構造の陸軍墓地。
同じ日露戦争の戦没者の墓碑でも、
下段には、「下士」と「准士官」
それらを見下ろす上段には、この墓碑があります。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769203
墓碑に書かれているのは、つぎの文言。
「明治三十七八年戦没将校同相当官戦病死者合葬碑」
(若干見間違いがあるかも知れません)
****************************
「お国のために」死んでいった若者(上級将校はもう少し年配か?)たちは、生前と同じく、死んでもなお階級制度にしばられ、別々に葬られています。
私は、この墓地の三つの碑の写真を見ながら、とても不快になりました。
戦争を肯定する人が建てられた碑であっても、死んでいった人たちへの思いが込められていると思えばこそ、私はここに来たのです。
死んだあとも、階級制度を誇示するような碑は、死者に対して、(今だからこそそう思うのかも知れませんが)、侮辱であるようにも思えるのです。
上官の命令を絶対とする軍隊組織の「常識」がここに形をなしています。
私は、その「常識」を受け入れる気にはなりません。
同じ日露戦争の戦没者の墓碑でも、
下段には、「下士」と「准士官」
それらを見下ろす上段には、この墓碑があります。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769203
墓碑に書かれているのは、つぎの文言。
「明治三十七八年戦没将校同相当官戦病死者合葬碑」
(若干見間違いがあるかも知れません)
****************************
「お国のために」死んでいった若者(上級将校はもう少し年配か?)たちは、生前と同じく、死んでもなお階級制度にしばられ、別々に葬られています。
私は、この墓地の三つの碑の写真を見ながら、とても不快になりました。
戦争を肯定する人が建てられた碑であっても、死んでいった人たちへの思いが込められていると思えばこそ、私はここに来たのです。
死んだあとも、階級制度を誇示するような碑は、死者に対して、(今だからこそそう思うのかも知れませんが)、侮辱であるようにも思えるのです。
上官の命令を絶対とする軍隊組織の「常識」がここに形をなしています。
私は、その「常識」を受け入れる気にはなりません。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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