お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


Google
WWW を検索 このブログ内を検索

『絵解きで野鳥が識別できる本』(叶内拓哉:文一総合出版)買いました2007/09/06

先日、書店で手にとって、
すべて写真でリアルであること、
識別することを主眼に親切につくられていること
などが気に入って購入しました。

 実は、野鳥観察のための本をもう一冊買いました。

 カミさんは、あきれています。

休みを有効につかいたくて・・・2007/09/06

 今日は平日の木曜日です。私は休みをとりました。

●休みを有効につかいたくて、昨晩ある人を訪問

 昨晩は、午後8時までで仕事は終わり。
 今日の休みを有効に使いたかったので、前日の夜に、ある人を訪問するとにしたのです。
 それは、高校教師をしながら、「高校生のための社会科読本」シリーズとして、『軍都・大津』(2000年)、『続軍都・大津』(2002年)、『饗庭野』(2006年)を出版している中島峰夫氏です。
 (上にその表紙の写真を載せておきました。一つ一つについては、また紹介したいと思います。)
 目的は、軍都・大津にかかわること、特に先日見に行ってきた陸軍墓地について聞きたいことがあったからです。

 いきなり夜に電話をかけ、30分後には訪問しているという強引さでした。
 まあ、顔見知りの強みですね。

 戦争の悲惨さを知らない世代、自分たちの身近なところで戦争の悲惨さを伝える遺跡があることを知らない世代を作らないというところに、中島氏の努力があると私は思います。
 これらの著作をその場で追加購入してきました。
 息子たちにも読ませようと思ったからです。
 
 中島氏を訪問した結果わかったことは、陸軍墓地についての詳細な検討や研究は空白になっていることなどです。

●歴史博物館にHさんを訪問するようにとアドヴァイスを

 中島氏は、歴史博物館の学芸員の方を訪問するように、私にアドヴァイスをくれました。
 そこで、今日の休み、午前中の歴史博物館に出向くことにしたのです。
 余裕があれば、再度、陸軍墓地へ。

大津市歴史博物館にH氏を訪問したあとで2007/09/06

 前日に、中島峰夫氏から紹介されたH氏を、歴史博物館に訪問しました。
 フロントで訪問趣旨を述べ、フロアーの長いすで待ちました。
 短い時間でしたが、軍都問題(とくに陸軍墓地関係)と大津事件の資料(ロシア側の)について、自分なりにできることの見当をつけることもできました。
 10月6日から始まる展示が終わるまで時間がとれないということでしたので、観たかった資料の閲覧は後日となりました。

 陸軍墓地関係の研究をはじめとして、大津市として遣り残している分野はかなりありそうに思えました。専門家でなくても、なんらかの貢献ができたらと私は思い始めています。

●大津市に生まれて

 そもそも、米軍が進駐した土地の近くに生まれ育ったこと、近所に米軍兵士との混血児が暮らしていたこと、米軍基地が撤退したあとでしたが米兵とその家でばったり衝撃的な出会いをしたことは、私の原体験。

●ロシア語を学んだものとして

 さらに、大阪外大でロシア語を学んでいて、それをいまの生活のなかではなかなか生かせないという立場にあること、近くにロシア皇太子遭難の地(大津事件)がありながら、それが事実上うもれたままになっていることなどは、私になにかをせよといっているようにも思えます。

●現役時代はつづくけれど

 しかし、まだまだ私の現役時代はつづきます。
 それも相当バイタリティがいるときかも知れません。

 仕事に力を傾けるのは当然のこと!!

 プライベートな時間に、軍都問題だけではなく、琵琶湖の水質問題でも、岡本巌先生がお元気なうちに、もう一仕事お手伝いしたいとも思うのです。
 (家族や子どもたちのことを忘れているわけではありません!
  念のため)

●自分なりのプログラム

 9月から10月にかけて、どうするかなぁとフロアで考えていました。
 つぎの三つはやってみようと決めました。
 ①中島峰夫氏の業績の上に、「軍都大津」問題でなにができるかを考えること
 ②当面、陸軍墓地の調査をすること。
 ③大津事件のロシア語関係資料がどれだけ歴史博物館にあるかを見ること。少ないということだけれど、まずは実物を見たい。

●さて、今日はこれからどうするか?

 資料を見る時間がないということですので、雨が心配でしたが、陸軍墓地にふたたび出かけることにしました。
 今度は、車で行くことにしました。
 前回は、場所さがしもあったので、バイクで向かいました。
 ですから、車で行くのははじめてのことです。
 それが終わったら、家のお掃除ですね。
 そうそう、アヤハディオで書棚を買ってくるつもりです。
 ・・・カミさんが帰るまでに片付けないと。
 明日は、「イオンモールとまちづくりを考える会」のために、チラシをつくる予定もあるので、準備もしておきたい・・・。

「ふたたび」大津陸軍墓地へ 今度は車で2007/09/06

前にも書きましたが、中学生の頃、偶然、この陸軍墓地を「発見」しました。
 「発見」というのは、だれからもこの墓地のことを聞いていなかったからです。皇子が丘公園を走り回っていたときに、この場所に出て衝撃を受けました。その衝撃をひとことで言うのは難しいのですが、いきなり厳粛な場所に出たということ、墓標の数の多さ、そして、これだけのものが秘密のように存在していて、それを自分が見てしまったという怖れ・・・そんなものです。
 何度も書くのはくどいですね。
 この陸軍墓地に変化が生まれたのは、湖西バイパス工事によってです。
 墓地を道路が横断することになったからです。
 いままでひそやかに存在していた墓地の真横を車専用道路が横断するのですから、墓地の雰囲気もあったものではありません。
 先日、バイクで行ったときは、地図を見ながら、「え?こんなところに?」と思ったほどです。
 つまり、いつも行きなれているバイパスの降り口付近でした。
 バイクですから、高架となっているバイパスの下をくぐる細い道路も平気でわたることができました。でも、車は???
 墓地の山手にガードレールと家が見えていましたが、それがどこか見当がつきませんでした。
 
 歴史博物館から唐崎へ向かい、そこで用事を済ませたあと、陸軍墓地に向かいました。車にはナビゲーターがついています。そうだ、その地図で見ればいいんだと(なにをいまさら)気がついて、見てみると、ちゃんと出てきます。そこに目的地を決めてスタート。皇子が丘公園に接近すること、階段で登れない道を指示していることに気がつきました。
 「おいおい」といいながら、地図を眺めていると、千石台というバイパスの山手の団地から道がありそうに思えました。
 じゃあ、と車を再発進。
 バイパスを見下ろす位置にある千石台の下手につくと、真下に陸軍墓地が見えました。
 大津(しかも旧大津)に生まれたのに、なさけないといえばそれまでです。
 ・・・でも、なんか”故郷再発見”みたいで面白い。
 こんなわけで、無事到着しました。
 陸軍墓地は、今日も人っ子ひとりいるわけではありません。
 それでも、きれいに掃除されて、新しい花が供えられています。
 上手から墓地に向かうのが正規のルートなのでしょうか?
 上の写真のような案内がありました。

ロシア人捕虜の墓が大津陸軍墓地にあります2007/09/06

 先日、陸軍墓地に行ったときに、ひとつだけ、離れたところにあるお墓に気づきました。下の入り口から入ったので、ロシア兵士の墓があるとは知りませんでした。
 でも、不思議な気がして近づくと、十字架が墓石に刻まれているのが目につきました。
 これはキリスト教徒の墓であり、おなじ日本人兵士でも、区別されているのかと思ったのです。
 しかし、さらに近づくと、露西亜の文字が見え、カタカナの名前が判読できました。
 驚きでした。

 この驚きと発見が、中島峰夫氏への訪問の動機でした。
 そして、H氏を紹介されたのも、この件です。

 午前中に訪問した大津市歴史博物館のH氏は、このお墓について、「それはロシア人兵士で捕虜になった人の墓です。日露戦争のときに、捕虜として日本に連れてこられて、大津だけでなく、各地に預けられていました。たとえば、三井寺にもいたそうです」

大津陸軍墓地で中国人兵士の墓をさがしました2007/09/06

入り口の表示に、中国人兵士の墓もあると書いてありました。
先日来たときは見つけることができませんでした。
ロシア人捕虜の墓は、まったく別のところにぽつんとあったので、気がつくことができました。
中国人の兵士の墓地は、場所的に区別されていませんでした。
一つ一つのお墓の名前を見ていきましたが、見つかりません。
それで、何か区別があるはずだと思い、中央の記念碑の台から三方の墓の集合をじっと見つめました。
そして・・・・たぶん、これだと気がついたのです。

おわかりになりますか?

これらのなかで見つけたのです。

大津陸軍墓地にある中国人兵士のお墓 その12007/09/06

 私が見つけることができた中国人の兵士の方のお墓は二柱でした。
陸軍墓地のどこにも、説明がありませんので、何人の中国の方が葬られているのか、わかりません。
 墓石は古く、読みにくいものとなっていますが、お名前から、中国の方であることがわかると思いました。

大津陸軍墓地にある中国人兵士のお墓 その22007/09/06

私が見つけることができたお墓は、先のものとこの一柱。

「明治三十七八年戦没兵卒戦病死者合葬碑」(日露戦争の碑Ⅳ)2007/09/06

●訂正すべきことがあります。
 明治三十七八年戦死者の碑は4階級・4柱でした

 この大津陸軍墓地は、歩兵第九連隊のものです。
 先日、日露戦争の戦没者の碑に、将校、下士官、兵隊の三つの区別があることに憤っていました。
 建立されたのが、明治39年のことですから、今とは通念がちがいます。ですから、今の出来事のように怒っていたのは、少し違うかなと思い直しました。
 ですが、再び今日行ってみて、もう一柱あることを知りました。
 先日は、この陸軍墓地が丘陵地に建てられているので、段々畑のように下段と上段に分かれているといいました。
 その上段には、上級将校のお墓。
 下段には、下士官と兵隊のお墓。

日露戦争についていえば、
「明治三十七八年戦没○○戦病死者合葬碑」が共通の碑文で、
○○が違うのです。

上段にあったのは、「将校同相当」
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769240
下段にあったのは、「准将校」
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769239
「下士」
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769238

下段の多数立っている墓碑のスペースの一番すみに、あったのは、○○の部分がつぎのようになっている碑でした。
「兵卒」(上の写真)

つまり、四階級にわけられているのです。
その階級区分の厳しさにあらためて認識を新たにしました。

琵琶湖疎水の水辺の美しさを再発見2007/09/06

 浜大津の近くに河口をもち、三井寺の観音堂の下あたりから、トンネルで京都に通じているのが、第一琵琶湖疎水。
 四月のサクラの季節には、京阪三井寺駅から、カメラをもった観光客が北国橋や鹿関橋に集まります。
 しかし、夏の終わりには、橋の上には立ち止まる人もいません。
 もちろん、私もでした。

 近くのマンションまで仕事で来たとき、入り口の木立から、トリが飛び立ちました。セキレイ・・・かな。バイクのヘルメットをかぶったまま、飛び去った方向を見れば、街中を流れているちいさな溝。
 この溝には見覚えがあります。それは、幼稚園時代に見た溝そのもの。
 マンションは、私が通っていた幼稚園の跡地に立てられているのです。
 そんな昔の記憶があるんだと変にうれしくなりました。
 トリは、その溝の水面にいたかと思うとたちまち、木立に戻り、そして、疎水を越えて、そちらの木立のなかに消えました。
 短い時間ですが、追ってみました。
 
 水面すれすれを気持ちよさそうに飛び回る小鳥がいます。
 セキレイでしょうね。
 それを見ていて気がついたのです。
 疎水の水面ってきれいですね。
 これを見ている人はだれもいないのに、トリたちは知っているかのように、気持ちよさそうです。
 何枚かの写真をアップします。
 うまく、セキレイさんを写すことはできませんでしたが。

(上の写真は、北国橋と京阪電車の橋の間から三井寺方向を撮影)

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)