お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
大津陸軍墓地の「大東亜戦戦没者の碑」 ― 2007/09/12
日本が明治維新後行った幾多の戦争の碑を求めて、大津を歩いています。
陸軍墓地で、日露戦争の碑が4柱建っていることを紹介しました。
日露戦争のことを「明治三十七八年戦」と書かれています。
この墓地にないのは、「西南戦争の碑」と「日清戦争の碑」です。
陸軍墓地では、1930から45年にかけて行われた戦争のことを、「大東亜戦」と呼び、その碑が建てられています。
上の写真です。
この名称には、建立した人の思いがあるのでしょうけれど、現在、それは太平洋戦争とか、むしろ15年戦争とよぶのが妥当だと私は思います。
さすがに、4階級に分けて、碑をつくるということにはなっていません。
日清戦争の場合はどうでしょうか?
これから見に行ってきます。
陸軍墓地で、日露戦争の碑が4柱建っていることを紹介しました。
日露戦争のことを「明治三十七八年戦」と書かれています。
この墓地にないのは、「西南戦争の碑」と「日清戦争の碑」です。
陸軍墓地では、1930から45年にかけて行われた戦争のことを、「大東亜戦」と呼び、その碑が建てられています。
上の写真です。
この名称には、建立した人の思いがあるのでしょうけれど、現在、それは太平洋戦争とか、むしろ15年戦争とよぶのが妥当だと私は思います。
さすがに、4階級に分けて、碑をつくるということにはなっていません。
日清戦争の場合はどうでしょうか?
これから見に行ってきます。
日清戦争の碑を求めて蝉丸神社へ ― 2007/09/12
9月はじめに陸軍墓地に行ったとき、西南戦争の碑と日清戦争の碑がないことに気がつきました。
「西南戦争の碑」は、私の記憶にあります。
しかし、「日清戦争の碑」はどこにあるのでしょうか?
ネットで検索しているときに、偶然見つけました。
大津市の碑は、このサイトで222登録されていますが、その8番目にあったのです。↓
http://www5.city.otsu.shiga.jp/kankyou/public/view.asp?piid=02030200040000&view=1
そして、地図を開いて驚きました。
今年の春まで、毎週かならず一回は目の前を通っていた・・・そういう場所にあったからです。
逢坂の関を大津の方から京都へ越えて、すぐに右に大谷団地があります。その途中にある「うなぎのかねよ」というお店には、たまに行きます。その隣に「日清戦争の碑」があったのです。
場所は、蝉丸神社」
慣れた場所ですが、その境内のどこにあるのでしょうか?
国道から、信号を右に曲がって、大谷駅に通じる狭い道路に出ます。すぐそこに、「うなぎのかねよ」のお店が道の両側にあります。その駐車場の隣が、たしか蝉丸神社。
車で向かいましたが、神社には駐車場がなく、仕方がないので、名神高速道路をまたいで、大谷団地にはいって車をとめました。そして、そこから歩きました。
車をとめてすぐ目にとまったのは、「逢坂トンネルの跡」という石碑。ああ、ここだったんだとまた苦笑。その先から山手に上がれば、蝉丸神社に通じます。雨ですべりやすくなってる山道をすこし登れば、神社の本殿がありました。
「西南戦争の碑」は、私の記憶にあります。
しかし、「日清戦争の碑」はどこにあるのでしょうか?
ネットで検索しているときに、偶然見つけました。
大津市の碑は、このサイトで222登録されていますが、その8番目にあったのです。↓
http://www5.city.otsu.shiga.jp/kankyou/public/view.asp?piid=02030200040000&view=1
そして、地図を開いて驚きました。
今年の春まで、毎週かならず一回は目の前を通っていた・・・そういう場所にあったからです。
逢坂の関を大津の方から京都へ越えて、すぐに右に大谷団地があります。その途中にある「うなぎのかねよ」というお店には、たまに行きます。その隣に「日清戦争の碑」があったのです。
場所は、蝉丸神社」
慣れた場所ですが、その境内のどこにあるのでしょうか?
国道から、信号を右に曲がって、大谷駅に通じる狭い道路に出ます。すぐそこに、「うなぎのかねよ」のお店が道の両側にあります。その駐車場の隣が、たしか蝉丸神社。
車で向かいましたが、神社には駐車場がなく、仕方がないので、名神高速道路をまたいで、大谷団地にはいって車をとめました。そして、そこから歩きました。
車をとめてすぐ目にとまったのは、「逢坂トンネルの跡」という石碑。ああ、ここだったんだとまた苦笑。その先から山手に上がれば、蝉丸神社に通じます。雨ですべりやすくなってる山道をすこし登れば、神社の本殿がありました。
蝉丸神社の本殿から見渡しましたがありません ― 2007/09/12
蝉丸本殿から急な階段で下におりて出直します ― 2007/09/12
見つけました「明治廾七八年没忠勇戦死者紀念碑」(日清戦争の戦没者の碑) ― 2007/09/12
「明治廾七八年没忠勇戦死者紀念碑」の横に刻まれた文字 ― 2007/09/12
この日清戦争戦没者の碑がなぜ、ここ蝉丸神社に? ― 2007/09/12
上から見た日清戦争の碑 ― 2007/09/12
蝉丸神社にある「一等水準点」 ― 2007/09/12
車石が保存されています、蝉丸神社に ― 2007/09/12
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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