お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「大切にしましょう 水準点 建設省国土地理院」の立て札に2007/09/13

http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/12/1792386
へのコメントで、マハさんが、水準点ハイキングなどもあるというので、そういう趣味の方のために、ご案内を。
 大津市藤尾学区、京阪京津線の大谷駅下車1分(もかからない)ところに、「第一等水準点」があります。
 それがこれ。
 「大切にしましょう 水準点 建設省国土地理院」の立て札があります。
 国土交通省になっても、税金のムダ使いしないようにそのままになっているのかも知れません。
 大津市は、観光振興や地元の要望のために、JR雄琴駅などの名称の変更をするらしい。そのために、5億円かかるそうです。
 わりきれない気持ちです。

「一等水準点」・・旧字体ということは戦前のもの?2007/09/13

水準点の現在の管理者は、国土交通省国土地理院。

Wikipediaには、つぎのように書いてある。

●水準点の設置・管理は、太平洋戦争以前は主に陸軍参謀本部陸地測量部が、現在では国土交通省国土地理院が行っている。
●一定の期間毎に水準網の再測量が行われ、精度が維持されている。
●柱石には小豆島産の花崗岩を使用。石の頂部には半球状の突起があり、その上に標尺を乗せて測量を行う。
●柱石の破壊など機能を損ねる行為をする者は、測量法の規定により2年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられる。

 この記述が正しいとすれば、

 蝉丸神社の水準点の石に刻まれた「点」の文字が
 点の旧字体なので、戦前に設置された水準点であり、
 管理者は、陸軍参謀本部陸地測量部ということになります。

 日清戦争の碑(「明治廾七八年没忠勇戦死者紀念碑」)http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/12/1792347
 を探す中で、同じ敷地に、この水準点がありました。
この地に、日清戦争の碑が建立されたのは、この地が旧陸軍の管理地だったからなのかも知れません。

「西南戦争の碑」さがしに出発2007/09/13

 大津市の文化財保護課で、西南戦争の碑についてたずねたとき、「この種の碑としては、(日本で)最初のもの」という話をききました。
 こういう碑を建てる習慣がそれまで日本になかったということを意味しているし、では、なぜ、新しい習慣がこの地で生まれたのかという別の疑問も生まれます。

 さらに興味を掻き立てられました。
 
 実は、西南戦争の碑を探そうと出かけていったのは、今回がはじめてではありません。8月にも、一度出かけています。
 それは、8月6日のことです。
 この日、毎年のことですが、原爆慰霊祭が(大津市の)三井寺で行われました。↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/06/1707383
 そのときに、西南戦争の碑を見てこようと、「大津そろばんの碑」などが並んでいる高台へいって探しましたが、見当たりません。

 「私の記憶ちがいかな?」と思ったのです。
 少年時代に、この碑をなんども見ています。
 当時は、拝観料はタダでした。そういう制度がなかったのです。
 ですから、手ごろな遊び場にして、境内のあちこちを走りまわって遊んでいました。そして、山を登ったときに、なんどか、その碑を見ているのです。
 もちろん、それが、西南戦争の碑とは知りません。
 最近写真を見て、あ、あれだと思い当たったのです。
 もしかしたら、私の記憶違いで、長等公園の上だったのかとも思い、文化財保護課でたずねたのです。
 「まちがいなく、三井寺観音堂の裏手の御幸山にある」といいます。

 では、拝観料500円を覚悟して、行くしかありません。

 見つけたあとのことですが、三井寺境内の案内板には、しっかり掲載されていました(上の写真)。
 この写真に左上あたりに、西南戦争の碑がありますね。おまけに、いろんな碑の名前も書いてあります。これを見てから行けばよかったですね。

 ともかく、私は、高台から御幸山を目指しました。

西南戦争の碑をさがして三井寺観音堂の高台へ2007/09/13

500円の拝観料を払って、三井寺境内に入りました。
長等神社の隣の入り口から、すぐ階段です。
普段の運動不足がたたって、最初の階段ですら、
足が重くなります。
ともかく、階段を登りきると、そこは観音堂。
写真の正面に、木が茂る丘がみえています。
実は丘ではなく、石垣なのです。
左に階段が見えていますが、それを登ると、
見晴らしのよい展望台(石垣の上)があります。

このブログでも、この高台からの景色を、くりかえし紹介していますね。
湖都大津の姿がよくわかるからです。
昔からの代表的な景観であって、記録も多いので、まちがどう変わっていったかなどの比較に使えます。

 問題の西南戦争の碑は、さらに山手らしいので、
へとへとになっている足をはげましながら、
登りはじめました。

山道を300メートルぐらい歩いて急斜面にでます(西南戦争の碑)2007/09/13

三井寺観音堂の高台から
さらに上に登る道があります。
下は赤土で、すべりやすい土壌です。
一段のぼれば、小山があります。
それを左手に巻くように山道ができています。
人っ子一人いない夕暮れ時。日
が沈むまでにはまだ少し時間があります。
しかし、淋しいことには変わりありません。

山道は螺旋のように回っていて、斜面は急になるばかり。
周囲の音は、私がたてる息と足音、そしてセミの声だけ。

道が尽きるころに、この細い斜面(写真)が待っていました。

細いし、すべりそうです。
歩くうちに、記憶がよみがえり、
「この上に求める碑がある」という確信が沸いてきました。
なんか、どきどきしています。

手をつかいながら登りました。

いきなり広場に出ました。そして、そこに西南戦争の碑がありました。2007/09/13

三井寺観音堂の高台から、300メートルぐらい山道を行けば、
がけのような小道にでました。
そこを登りきると、そこは広場でした。

そうそう、思い出しました。

でも、記憶の広場は、もっと土っぽかったように思います。
広場は、40メートル四方ぐらい大きさ。
山のうえですから、よけい大きく感じたのかもしれません。


その広場のなかに、石垣に囲まれた高台があり、そのさらに上に、
西南戦争の碑がそびえています。
高台は、10メートル四方ぐらいの広さです。

第一印象は、異常に「でかい!」でした。
石垣の高台は3メートルの高さがあります。
そのさらに上に、6.6メートルの碑。
碑だけでも、日清戦争の碑(3.8メートル)のほぼ2倍の高さです。

そばに人間を立てて、写真を撮れば大きさがわかるでしょうけれど、
ここにいるのは、私ひとり。

だれもいない山奥で、この巨大な建造物を見ながら
宮崎監督の「ラピュタ」を連想しました。
私の記憶では、木が石碑のまわりになかったように思うのです。

さて遠くでぼんやり見るためにきたわけではありません。
20段ある階段を向かいました。

西南戦争の碑の階段へ接近2007/09/13

 大津市に、陸軍歩兵第九連隊が移転してきたのは、明治8(1875)年3月8日のことです。それから、わずか2年後の明治10(1877)年、西南戦争に実戦投入されたのです。
 相手は、生まれたときから戦を生業とする不平武士団、しかも維新のための戦争にも参加し、百戦錬磨。
 多大の犠牲者を第九連隊は出すことになったのです。
 政府軍の戦死者は、6,843人。うち戦地で即死が4,653人。鎮台別に見れば、第九連隊が所属した大阪鎮台軍(第4師団)は、もっとも多い戦死者を出しました。そのなかでも、第九連隊は441名と一番多かった(連隊単位では2番目)のです(以上は、前にも書きました)。

 明治10(1877)9月に第九連隊は大津に帰還。
 翌明治11(1878)年に、第九連隊の有志によって、戦死者の追悼のために、この碑が建てられたと伝えられています。

 広場にそのまま立てられず、さらに石垣を積んで高台にして、巨大な碑をつくる・・・しかも、山の頂上に。恐るべきエネルギーと思いが消費されたことが伝わってきます。
 階段に近づくと、威圧感が漂っています。

墓碑全体に幾何学的な設計がされています2007/09/13

階段を登って、碑の門の前に立ちました。
 日清戦争の碑、日露戦争の碑、そして大東亜戦争の碑と見てきましたが、西南戦争の碑は、それらとまるでちがっています。

 碑そのものの巨大さは言うまでもありません。
 階段や門をつくるなど、設計そのものが大掛かりで、しかも、台座は幾何学的としかいいようのない構造をしています。

 造った人の精神構造がちがうのです。
もっとも旧いはずの碑に近代性を感じました。

 「これはやっぱりラピュタの世界だ」と思いました。
そうでなければ、UFOの世界。

 たったひとりで向かい合っていますが、私は怖さというよりも
謎めいた姿にただただ興味をひかれるばかりでした。

 何枚かの写真をアップしていきます。
 関心のない方には、迷惑かもしれませんけれど。

台座をとりまく稲妻状の石の囲い2007/09/13

碑そのものに目をやる前に、地面に目を落とすと、
石の囲いがあります。
門と一体となって、台座を囲んでいます。
円状となって、台座を囲んでいるのではありません。

のこぎりの歯のように、ジグザグになって、
囲んでいます。
その石には穴があいています。
鉄のパイプかなんかを通して、
鉄の柵を構成していたのではないでしょうか。

写真は、門をくぐり、振り返って、門の方向を写した写真です。
階段は、門のむこうです。

西南戦争の碑 正面から台座を見る2007/09/13

碑そのものは、見上げるばかりの巨大さです。
しかし、形はシンプルです。
異様さは、ジグザグ模様の囲いと、不思議な形をした台座にあります。

正面からの写真は、平面的でよくわからないと思いますが、
それぞれのパーツの位置関係を知ってもらうには必要な図です。

それにしても、草が石の構造物に侵入していて、
台座の形がくずれるのではないかと心配になります。

そういう意味でも、ラピュタ・・・(ひつこい!)

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)