お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
戦争犠牲者の墓をたずねて ― 2007/09/20
8月10日に、一般墓地で、戦没者のお墓を偶然見て回りました。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/10/1715972
そのときから、自分のなかでなにかが変わりはじめました。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/10/1716136
思いが決定的になったのは、陸軍墓地にいくことを決めて、実際に見て回ったときでした。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769121
そのときにも書きましたが、それら戦争犠牲者のお墓は、戦争は教科書や学校できくような知識や教養の類ではなく、まぎれもない痛みと悲しみをいまも引きずる現実だと教えてくれるのです。
他の方のブログで、戦争肯定ややむをえないなどの議論を目にするたびに違和感を感じます。たとえは変ですが、外野席からの評論に思えるのです。野球は選手だけでたたかわれて、ファールボールに当たる危険はあったにしても、観客席は安全そのもの。なにをどう言おうが、言っている人に直接かかわるものではありません。しかし、戦争とは、それを評論家のつもりで語る人も含んで、だれもがいやおうなしに巻きこまれる事件なのです。本人が死に直面することもあるだろうし、自分の親しい人が亡くなる場合もあるでしょう。血肉が飛び散ったり、腐臭がただよう現実を他人事のように、しかたがないというのは、自分は外野席にいると錯覚しているか、自分の感性を凍結した議論だと思います。
人として起こしてはならないもの、それが戦争だとう出発点が、すわらないのでしょう。航空機事故の無残な姿と遺族のやり場のない悲しみを前にして、飛行機はたくさん飛んでいるからそういうこともあるさと平気でいえるでしょうか。
戦争犠牲者、兵士のお墓は形に特徴があります。
背が高いし、☆のマークがついています。どんなに広い墓地でも、すぐに見つけることができます。
これまでに、4つの墓地を訪ねました。
まったく無人のところも2つありました。しかし、大きい墓地では、墓守さんがいらっしゃいます。最初、そのことに気がつきませんでしたが、それ以降は、最初に挨拶をして、許しをいただいてから、回っています。
●日清戦争のお墓は、一般墓地ではまだ見ることができません。
大津陸軍墓地では日清戦争の犠牲者がほとんどだと
思われるほど立ち並んでいます。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769188
●日露戦争のお墓は、どの墓地でも少ないですが、見ることができます。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/10/1716059
しかし、もはや文字の判読ができないお墓があります。
「昔はよい石材がなくて、粗い御影石を使うとすぐに、文字が
うすれてしまう」と遺族会館の方もおっしゃっていました。
●シベリア出兵の犠牲者のお墓は見つけました。
年代とロシアの地名から、
それがまぎれもない事実だと確認できたのです。
墓守さんは、「海外での戦士された方のお骨が帰ってきません。
お墓には、骨がないのです」とおっしゃていました。
●大半は、第二次世界大戦(太平洋戦争・15年戦争)の
犠牲者のお墓です。
●かならずといっていいほど、戦死の日付、場所が刻まれています。
しかし、漠然とした地名、地名ともいえない地名が刻まれているお墓も
あります。当然、お骨は帰っていないはず。
●ときに年齢が刻まれていますが、ほとんどが20代前半なのです。
それを刻んだ遺族の無念の気持ちが伝わってきます。
●もっとも心が痛むのは、「母○○が建立」とある碑です。
母が建立する戦死した20代の息子のお墓・・・人として
気持ちを察することができる人なら、だれしも絶句するはずのお墓です。
上の写真は、大津市でも一番もしくは二番ぐらいに旧い墓地、高山寺墓地から琵琶湖方面を写したものです。ここには、明治よりはるか昔のお墓もあります。しかも、それがいまもなお墓参され、維持されているのです。
死んだ人の記憶は、生きている人のなかにいつまでも生きるのです。生きているかぎりですが。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/10/1715972
そのときから、自分のなかでなにかが変わりはじめました。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/10/1716136
思いが決定的になったのは、陸軍墓地にいくことを決めて、実際に見て回ったときでした。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769121
そのときにも書きましたが、それら戦争犠牲者のお墓は、戦争は教科書や学校できくような知識や教養の類ではなく、まぎれもない痛みと悲しみをいまも引きずる現実だと教えてくれるのです。
他の方のブログで、戦争肯定ややむをえないなどの議論を目にするたびに違和感を感じます。たとえは変ですが、外野席からの評論に思えるのです。野球は選手だけでたたかわれて、ファールボールに当たる危険はあったにしても、観客席は安全そのもの。なにをどう言おうが、言っている人に直接かかわるものではありません。しかし、戦争とは、それを評論家のつもりで語る人も含んで、だれもがいやおうなしに巻きこまれる事件なのです。本人が死に直面することもあるだろうし、自分の親しい人が亡くなる場合もあるでしょう。血肉が飛び散ったり、腐臭がただよう現実を他人事のように、しかたがないというのは、自分は外野席にいると錯覚しているか、自分の感性を凍結した議論だと思います。
人として起こしてはならないもの、それが戦争だとう出発点が、すわらないのでしょう。航空機事故の無残な姿と遺族のやり場のない悲しみを前にして、飛行機はたくさん飛んでいるからそういうこともあるさと平気でいえるでしょうか。
戦争犠牲者、兵士のお墓は形に特徴があります。
背が高いし、☆のマークがついています。どんなに広い墓地でも、すぐに見つけることができます。
これまでに、4つの墓地を訪ねました。
まったく無人のところも2つありました。しかし、大きい墓地では、墓守さんがいらっしゃいます。最初、そのことに気がつきませんでしたが、それ以降は、最初に挨拶をして、許しをいただいてから、回っています。
●日清戦争のお墓は、一般墓地ではまだ見ることができません。
大津陸軍墓地では日清戦争の犠牲者がほとんどだと
思われるほど立ち並んでいます。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769188
●日露戦争のお墓は、どの墓地でも少ないですが、見ることができます。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/10/1716059
しかし、もはや文字の判読ができないお墓があります。
「昔はよい石材がなくて、粗い御影石を使うとすぐに、文字が
うすれてしまう」と遺族会館の方もおっしゃっていました。
●シベリア出兵の犠牲者のお墓は見つけました。
年代とロシアの地名から、
それがまぎれもない事実だと確認できたのです。
墓守さんは、「海外での戦士された方のお骨が帰ってきません。
お墓には、骨がないのです」とおっしゃていました。
●大半は、第二次世界大戦(太平洋戦争・15年戦争)の
犠牲者のお墓です。
●かならずといっていいほど、戦死の日付、場所が刻まれています。
しかし、漠然とした地名、地名ともいえない地名が刻まれているお墓も
あります。当然、お骨は帰っていないはず。
●ときに年齢が刻まれていますが、ほとんどが20代前半なのです。
それを刻んだ遺族の無念の気持ちが伝わってきます。
●もっとも心が痛むのは、「母○○が建立」とある碑です。
母が建立する戦死した20代の息子のお墓・・・人として
気持ちを察することができる人なら、だれしも絶句するはずのお墓です。
上の写真は、大津市でも一番もしくは二番ぐらいに旧い墓地、高山寺墓地から琵琶湖方面を写したものです。ここには、明治よりはるか昔のお墓もあります。しかも、それがいまもなお墓参され、維持されているのです。
死んだ人の記憶は、生きている人のなかにいつまでも生きるのです。生きているかぎりですが。
バイパス工事で、元あった559柱が237柱となった陸軍墓地。残りはどこへ? ― 2007/09/20
ネットで調べて見ると、全国でいくつか陸軍墓地があります。
最初につくられたのは、真田山陸軍墓地。
その保存会ができています。
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bacas400/sanaboti/
2002年5月の「旧真田山陸軍墓地と本会設立の趣意」を読むと、共感するとともに、同様の保存と活動が、大津市の旧陸軍墓地にも必要だと思うのです。
大津市の場合、バイパスを通すために、敷地を大幅に削った経過があります。それが、保存上、とても気がかりなのです。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769200
この碑↑によると、559柱あった墓石のうち、237柱しか、現在の
改修された陸軍墓地にはないということになります。
残りの、322柱(半数以上をしめます!!)は、どこへ行ったのでしょうか?
この碑は誤解を招く文章なのかもしれません。
それとも、私が誤解しているのかも。
つまり、いままで陸軍墓地ではなかった土地(この碑が立っている部分)へ、559柱のうち237柱を移したといっているのでしょうか。
もとの322柱はそのままですよと。
実際に、お墓を数えてみれば、わかることですね。
墓地全体を一枚の写真に収めることは不可能です。
グーグルアースでも見えません。
上の写真だけでも、200柱は超えていると思うのですが。
バイパス通過前の状態がどうだったのか、とても知りたいと思いました。
最初につくられたのは、真田山陸軍墓地。
その保存会ができています。
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bacas400/sanaboti/
2002年5月の「旧真田山陸軍墓地と本会設立の趣意」を読むと、共感するとともに、同様の保存と活動が、大津市の旧陸軍墓地にも必要だと思うのです。
大津市の場合、バイパスを通すために、敷地を大幅に削った経過があります。それが、保存上、とても気がかりなのです。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769200
この碑↑によると、559柱あった墓石のうち、237柱しか、現在の
改修された陸軍墓地にはないということになります。
残りの、322柱(半数以上をしめます!!)は、どこへ行ったのでしょうか?
この碑は誤解を招く文章なのかもしれません。
それとも、私が誤解しているのかも。
つまり、いままで陸軍墓地ではなかった土地(この碑が立っている部分)へ、559柱のうち237柱を移したといっているのでしょうか。
もとの322柱はそのままですよと。
実際に、お墓を数えてみれば、わかることですね。
墓地全体を一枚の写真に収めることは不可能です。
グーグルアースでも見えません。
上の写真だけでも、200柱は超えていると思うのですが。
バイパス通過前の状態がどうだったのか、とても知りたいと思いました。
元気ですが、それがなにか?とムー♂ネコくん ― 2007/09/20
月曜日には、ぐったりしていたムー♂ネコ。
今朝起きると、かなり元気になっていました。
私の顔を見ると、カツオブシのおねだり。
おお、食欲がでてきなんだなぁと、あげると、食べ始めます。
でも、ガツガツとはいきません。
カツオブシの匂いに、もう一匹のモー♂ネコが登場。
いつもは、ムー♂ネコに押されて縮こまっているのになんか態度がでかい。
モー♂にあげたものまで食べてしまいました。
H君が学校にいくために、3階から降りてきました。
H君に促されて、ムー♂ネコの様子を見てびっくり。
カーテンを前足で捕まえて、後ろ足でけりをいれています。
あ、元気なんだ!
カメラを取り出して写そうと思うと、
こちらを見て、なんかご不満の様子。
ああ、これもムー♂ネコらしさが戻ったようですね。
熱はまだありそうですけれど。
今朝起きると、かなり元気になっていました。
私の顔を見ると、カツオブシのおねだり。
おお、食欲がでてきなんだなぁと、あげると、食べ始めます。
でも、ガツガツとはいきません。
カツオブシの匂いに、もう一匹のモー♂ネコが登場。
いつもは、ムー♂ネコに押されて縮こまっているのになんか態度がでかい。
モー♂にあげたものまで食べてしまいました。
H君が学校にいくために、3階から降りてきました。
H君に促されて、ムー♂ネコの様子を見てびっくり。
カーテンを前足で捕まえて、後ろ足でけりをいれています。
あ、元気なんだ!
カメラを取り出して写そうと思うと、
こちらを見て、なんかご不満の様子。
ああ、これもムー♂ネコらしさが戻ったようですね。
熱はまだありそうですけれど。
陸軍墓地のお世話は市の「健康福祉政策課」でしたが・・ ― 2007/09/20
今日は、平日ですが、私は休日。
いくつか調べものをするには、絶好の機会です。天気も最高。
手始めに、陸軍墓地の管轄がだれなのかを確認することにしました。
以前、大津市の文化財保護課で「陸軍墓地の管轄は?」ときいて、「?」ということでした。昨日、滋賀県遺族会館では、「大津市の福祉なんとかいう課だったと思う」の答え。
ですから、大津市役所に電話で問い合わせることにしました。
まず窓口で「陸軍墓地の関係の課をお願いします」
「・・・」となって、「お調べしますので、お電話番号を」となりました。
しばらくすると電話がかかってきました。
「遅くなりました、それは、健康福祉政策課です。おつなぎしますので
どうそ」
そこで、健康福祉政策課の方をお話しすることに。
「陸軍墓地の管轄はそちらですか?」
「はい、清掃などをさせていただいています」
という答え。
「バイパスによって、陸軍墓地は改修されましたが、以前の状態は
どうだったのかが知りたいのです。お墓は、文字が見えない方も
いらっしゃるので、どなたが葬られているのかの名簿もありますか」
と聞きました。
「旧い記録を見ないとわかりません。それらは公文書ですので、
申請していただかなければ見ることができません」
という答え。
「では、情報公開を求めなければならないってことですか?」
「はい、そうです」
「それはどこで、どういう手続きで、どういうものを持っていく必要がありますか?」と聞き返しました。
答えは「あ、調べてお知らせしますので、電話番号を」
それで、また、しばらく電話口で待つことになりました。
上の写真は、大津市役所。
以前もアップした写真ですが、情報公開制度も簡略になったので、確認するまでもなく、さっさと市役所の市政情報課へ行ったほうが早い気がします。
・・・・10分たってもかかってきません。
いくつか調べものをするには、絶好の機会です。天気も最高。
手始めに、陸軍墓地の管轄がだれなのかを確認することにしました。
以前、大津市の文化財保護課で「陸軍墓地の管轄は?」ときいて、「?」ということでした。昨日、滋賀県遺族会館では、「大津市の福祉なんとかいう課だったと思う」の答え。
ですから、大津市役所に電話で問い合わせることにしました。
まず窓口で「陸軍墓地の関係の課をお願いします」
「・・・」となって、「お調べしますので、お電話番号を」となりました。
しばらくすると電話がかかってきました。
「遅くなりました、それは、健康福祉政策課です。おつなぎしますので
どうそ」
そこで、健康福祉政策課の方をお話しすることに。
「陸軍墓地の管轄はそちらですか?」
「はい、清掃などをさせていただいています」
という答え。
「バイパスによって、陸軍墓地は改修されましたが、以前の状態は
どうだったのかが知りたいのです。お墓は、文字が見えない方も
いらっしゃるので、どなたが葬られているのかの名簿もありますか」
と聞きました。
「旧い記録を見ないとわかりません。それらは公文書ですので、
申請していただかなければ見ることができません」
という答え。
「では、情報公開を求めなければならないってことですか?」
「はい、そうです」
「それはどこで、どういう手続きで、どういうものを持っていく必要がありますか?」と聞き返しました。
答えは「あ、調べてお知らせしますので、電話番号を」
それで、また、しばらく電話口で待つことになりました。
上の写真は、大津市役所。
以前もアップした写真ですが、情報公開制度も簡略になったので、確認するまでもなく、さっさと市役所の市政情報課へ行ったほうが早い気がします。
・・・・10分たってもかかってきません。
陸軍墓地の資料は「市の情報公開課へ行ってください」というので行きました ― 2007/09/20
私が陸軍墓地について、知りたいのは、つぎの三つです。
①バイパス開通のために、陸軍墓地はどう形をかえたか
その前後の図面はあるのか、
②現在の陸軍墓地の墓碑の配置図はどうなっているのか
③埋葬者の名簿はあるのか
このために、朝、市役所に電話してわかったことは、陸軍墓地の清掃などはボランティアの方々の力も借りて健康福祉政策課が担当していること、しかし、墓地の成り立ちや図面などは、情報公開課に請求くださいとのことでした。
情報公開制度を使う必要があるのかと思いましたが、あまりつっこまないことにして、情報公開課に向かいました。
わが家から市役所までは、ごく短い距離。
しかし、その道筋には、ロシア皇太子遭難の碑や、西南戦争の碑や、第九連隊の碑などがあります。いままで関心を持たなかったことが不思議なくらいの環境です。
市役所に着いて思い出しました。たしかに今日が、大津市議会の最終日のはず。傍聴しようかどうか、迷いました。今日をのがすとなかなか休日がとれないので傍聴はあきらめ、私用に徹することにしました。
情報公開課の対応は丁寧でしたが、趣旨を話すと困惑ぎみ。そもそも陸軍墓地については知っている人が少数で、私が知っている本などを見せてもらっても仕方がありません。私の求める資料がそもそもあるのかどうか、市がその管理をしているのか、どこが管理をしているのか、など自問されています。
結局、らちがあきません。
それが見えたので、私は、もう一度、管理をしている健康福祉政策課へと向かいました。
健康福祉政策課の窓口にいくと、ちょうど電話で話をした女性の職員さんが対応してくれました。気になってすこし調べていただいていた様子。
わかったことは、大津市の健康福祉政策課が清掃などをしているけれど、土地そのものは大津市のものではなく、国の土地だということです。
「バイパス開通時のお墓の改装の設計図などはありますか」
「すぐにはわかりません」
「バイパス前の状態がわかる資料はありますか」
「土地の所有は国ですから、国が知っているのではないでしょうか」
「国といっても、具体的にはどこに聞けばいいのですか」
「すぐ隣にある大津財務事務所です」
そんな近くにあるのを私は知りませんでした。
お礼を行って、市役所から歩いて向かいました。
①バイパス開通のために、陸軍墓地はどう形をかえたか
その前後の図面はあるのか、
②現在の陸軍墓地の墓碑の配置図はどうなっているのか
③埋葬者の名簿はあるのか
このために、朝、市役所に電話してわかったことは、陸軍墓地の清掃などはボランティアの方々の力も借りて健康福祉政策課が担当していること、しかし、墓地の成り立ちや図面などは、情報公開課に請求くださいとのことでした。
情報公開制度を使う必要があるのかと思いましたが、あまりつっこまないことにして、情報公開課に向かいました。
わが家から市役所までは、ごく短い距離。
しかし、その道筋には、ロシア皇太子遭難の碑や、西南戦争の碑や、第九連隊の碑などがあります。いままで関心を持たなかったことが不思議なくらいの環境です。
市役所に着いて思い出しました。たしかに今日が、大津市議会の最終日のはず。傍聴しようかどうか、迷いました。今日をのがすとなかなか休日がとれないので傍聴はあきらめ、私用に徹することにしました。
情報公開課の対応は丁寧でしたが、趣旨を話すと困惑ぎみ。そもそも陸軍墓地については知っている人が少数で、私が知っている本などを見せてもらっても仕方がありません。私の求める資料がそもそもあるのかどうか、市がその管理をしているのか、どこが管理をしているのか、など自問されています。
結局、らちがあきません。
それが見えたので、私は、もう一度、管理をしている健康福祉政策課へと向かいました。
健康福祉政策課の窓口にいくと、ちょうど電話で話をした女性の職員さんが対応してくれました。気になってすこし調べていただいていた様子。
わかったことは、大津市の健康福祉政策課が清掃などをしているけれど、土地そのものは大津市のものではなく、国の土地だということです。
「バイパス開通時のお墓の改装の設計図などはありますか」
「すぐにはわかりません」
「バイパス前の状態がわかる資料はありますか」
「土地の所有は国ですから、国が知っているのではないでしょうか」
「国といっても、具体的にはどこに聞けばいいのですか」
「すぐ隣にある大津財務事務所です」
そんな近くにあるのを私は知りませんでした。
お礼を行って、市役所から歩いて向かいました。
市の健康福祉政策課を出て、近畿財務局大津財務事務所に陸軍墓地の情報を求めにいきました ― 2007/09/20
市役所の窓口に電話してから、健康福祉政策課→情報公開課→健康福祉政策課とめぐって、これから、200メートルぐらい離れたところにある「近畿財務局大津財務事務所」に陸軍墓地の情報を求めて行くことになりました。
なかなか手間がかかります。
事務所は建物の二階にありました。
訪問趣旨をいい、担当者が電話を終えるのを待ちました。
今年7月にこの地へ赴任してきたばかりの若い方が担当でした。
資料のファイルをもってきて言うには、
①陸軍墓地は、国が大津市に無料で貸与している土地であること。
②国は土地を所有しているだけで、墓などの管理責任はもっていないこと
なんか味気のない回答でした。
持参された資料に目をやると、バイパス開通時に、大津市から財務局に提出された改装計画図などを含む文書でした。
あまり見せたがらない様子でしたが、「これですね」と確認を求めた地図が私にとっては、大変興味深いものでした。
図のタイトルは、「旧大津陸軍墓地地形図 1/300」
墓碑ひとつひとつが「 L 」の形になっていて、全体がよくわかる図です。
「この図の黄色のラインマーカーで囲ったのが国の土地です」
見ると、陸軍墓地の東半分でした。
「こちらはどこの土地ですか?」
「国の土地ではありません。ここは(バイパス道路にするために)返還を受けました。(バイパス道路のために消えた墓地用地を)ここに移したんでしょうね。」
「この地図のコピーをいただけますか?」
「さしあげられません」
「どうしたらいただけますか?」
「情報公開を市に求めてください。市が国に提出した資料ですから」
「・・・」
ひとこと反撃しようと思いましたが、最初の出会いですから、争うのはやめることにしました。
この地図が、私の知りたいことの答えのひとつを示したくれたからです。
「わかりました。ありがとうございます。今日はこれまでにします。」
と、長々しい名前の事務所から外へ出ることにしました。
なかなか手間がかかります。
事務所は建物の二階にありました。
訪問趣旨をいい、担当者が電話を終えるのを待ちました。
今年7月にこの地へ赴任してきたばかりの若い方が担当でした。
資料のファイルをもってきて言うには、
①陸軍墓地は、国が大津市に無料で貸与している土地であること。
②国は土地を所有しているだけで、墓などの管理責任はもっていないこと
なんか味気のない回答でした。
持参された資料に目をやると、バイパス開通時に、大津市から財務局に提出された改装計画図などを含む文書でした。
あまり見せたがらない様子でしたが、「これですね」と確認を求めた地図が私にとっては、大変興味深いものでした。
図のタイトルは、「旧大津陸軍墓地地形図 1/300」
墓碑ひとつひとつが「 L 」の形になっていて、全体がよくわかる図です。
「この図の黄色のラインマーカーで囲ったのが国の土地です」
見ると、陸軍墓地の東半分でした。
「こちらはどこの土地ですか?」
「国の土地ではありません。ここは(バイパス道路にするために)返還を受けました。(バイパス道路のために消えた墓地用地を)ここに移したんでしょうね。」
「この地図のコピーをいただけますか?」
「さしあげられません」
「どうしたらいただけますか?」
「情報公開を市に求めてください。市が国に提出した資料ですから」
「・・・」
ひとこと反撃しようと思いましたが、最初の出会いですから、争うのはやめることにしました。
この地図が、私の知りたいことの答えのひとつを示したくれたからです。
「わかりました。ありがとうございます。今日はこれまでにします。」
と、長々しい名前の事務所から外へ出ることにしました。
陸軍墓地 : 堂々めぐりの果てに文化財保護課へ ― 2007/09/20
簡単にいくとは思いませんでしたが、まだまだ先が見えません。
私は、陸軍墓地に眠る人たちが、市民に知られることもなく、歴史に名前を刻まれることなく失われていくのは許されないと思うのです。
しっかり墓碑とお墓が保全され、名前が記録されているならば、いいのです。そのうえで、市民の歴史的財産として生かされればいいのです。
でも、その二つとも、覚束ないと思えるのです。
はじめたことを放り出したくはない・・・。
頭を整理するためには、人と話をしたほうがいいですね。
「思いを共有することができるとしたら・・・文化財保護課だ」と勝手に決めて、訪問してきました。(上の写真)
先日、西南戦争の碑の場所と陸軍墓地の情報をいただいたお礼をいいながら、経過報告ですね。
なかなか陸軍墓地の管理主体が見えないこと、もしかしたら、どの組織も墓そのものを調査しておらず、墓地に眠る人たちの名簿をもなたいのではないか、などを話しました。
そして、いくつかのヒントをもらいました。
役所の限界はあるでしょうが、ボランティアとしてなんとかしたいという話を真摯に、きいてくれるのは、ありがたいことですね。
なにごとも、思いがなくては成らないことです。
それにしても、『軍都・大津』の著者・中島峰夫氏を出発点に、歴史博物館のH氏、文化財保護課、遺族会、健康福祉政策課、情報公開課、大津財務事務所、そして再び文化財保護課へとまわってきて、まだまだ得たものは、わずかしかありません。
お昼まであと少し時間があります。
ここまで調べたので、現地(陸軍墓地)を見てから帰ることにします。
市役所からは、わずかな距離ですから。
私は、陸軍墓地に眠る人たちが、市民に知られることもなく、歴史に名前を刻まれることなく失われていくのは許されないと思うのです。
しっかり墓碑とお墓が保全され、名前が記録されているならば、いいのです。そのうえで、市民の歴史的財産として生かされればいいのです。
でも、その二つとも、覚束ないと思えるのです。
はじめたことを放り出したくはない・・・。
頭を整理するためには、人と話をしたほうがいいですね。
「思いを共有することができるとしたら・・・文化財保護課だ」と勝手に決めて、訪問してきました。(上の写真)
先日、西南戦争の碑の場所と陸軍墓地の情報をいただいたお礼をいいながら、経過報告ですね。
なかなか陸軍墓地の管理主体が見えないこと、もしかしたら、どの組織も墓そのものを調査しておらず、墓地に眠る人たちの名簿をもなたいのではないか、などを話しました。
そして、いくつかのヒントをもらいました。
役所の限界はあるでしょうが、ボランティアとしてなんとかしたいという話を真摯に、きいてくれるのは、ありがたいことですね。
なにごとも、思いがなくては成らないことです。
それにしても、『軍都・大津』の著者・中島峰夫氏を出発点に、歴史博物館のH氏、文化財保護課、遺族会、健康福祉政策課、情報公開課、大津財務事務所、そして再び文化財保護課へとまわってきて、まだまだ得たものは、わずかしかありません。
お昼まであと少し時間があります。
ここまで調べたので、現地(陸軍墓地)を見てから帰ることにします。
市役所からは、わずかな距離ですから。
国有地との境界を確かめに陸軍墓地を5度目に訪問 ― 2007/09/20
5度目の訪問です。
最初の2回は一人で、つぎは二人の息子をつれて、前回はカミさんを連れて。今回は、私一人です。
今回は、ついさっき近畿財務局大津財務事務所で見せてもらった地図を忘れないうちに、国有地とそうでない土地の区分を目で確認したかったのです。
ともかく、コピーを拒否されたのです。
「とっくに終わっているバイパス工事の計画地図のコピーを渡してどういう不都合があるんだ」と苦笑いしながら見て回りました。
(財務事務所とのやりとりはこれ↓)
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/20/1809772
おとなしく引き下がった理由の一つは、私の疑問が、この地図によって解けたからです。
(疑問はこれ↓)
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/20/1809319
(疑問の出発点はこれ↓)
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769200
陸軍墓地にある黒い石に刻まれた碑には、次のように書かれています。
記念碑
この地は今般建設省起業一般国道
一六一号線西大津バイパス工事改築工事
のため五五九柱のうち二三七柱の
英霊を安置祭紀する旧大津陸軍墓
地であります。
(中略)
今回墓地の一部を改葬するに当たり、
この碑を建立してその遺勲を永代に
讃えるものであります。
まちがいの元は、「この地」の理解にありました。
私は、陸軍墓地全体を指すと思っていましたが、この碑は、新たに墓地に作り変えた土地だけを指していたのです。
「全部で五五九柱あるのに、二三七柱しか移していないなら、残りの三三二柱はどうした?」と思ったのです。
陸軍墓地に行っても、どこにも、これまでの墓地と新しく購入し建設された墓地の境界が見当たりませんから、誤解するのは当たり前。
財務事務所で見せてもらった黄色のラインマーカー入りの地図ではじめて新旧の境目が存在することがわかったのです。
もっとも、地図には新しく作った土地と書かれていたわけではありません。
ここまでが国有地となっていただけですが、非国有地に黒の記念碑があることとあわせて考えれば事は明白です。
三三二柱は今までどおりの場所に。バイパス用地にひっかかった二三七柱だけを移動させただけなのです。
上の写真は山手から陸軍墓地の一階部分を撮影したもの。
ちょうど真ん中の黒く写る溝が新(左)旧(右)を分ける境界です。
右の奥にあった墓地がバイパスの土地にとられて、左に改葬されたのです。
322柱の墓石(五五九柱のうちの)はどこへ行ったというのは、もともと成り立たない疑問でしたね。
でも怪我功名。消えたと思っていた墓を探して、偶然、日露戦争の牛馬の碑を見つけましたから。↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/17/1802616
最初の2回は一人で、つぎは二人の息子をつれて、前回はカミさんを連れて。今回は、私一人です。
今回は、ついさっき近畿財務局大津財務事務所で見せてもらった地図を忘れないうちに、国有地とそうでない土地の区分を目で確認したかったのです。
ともかく、コピーを拒否されたのです。
「とっくに終わっているバイパス工事の計画地図のコピーを渡してどういう不都合があるんだ」と苦笑いしながら見て回りました。
(財務事務所とのやりとりはこれ↓)
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/20/1809772
おとなしく引き下がった理由の一つは、私の疑問が、この地図によって解けたからです。
(疑問はこれ↓)
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/20/1809319
(疑問の出発点はこれ↓)
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769200
陸軍墓地にある黒い石に刻まれた碑には、次のように書かれています。
記念碑
この地は今般建設省起業一般国道
一六一号線西大津バイパス工事改築工事
のため五五九柱のうち二三七柱の
英霊を安置祭紀する旧大津陸軍墓
地であります。
(中略)
今回墓地の一部を改葬するに当たり、
この碑を建立してその遺勲を永代に
讃えるものであります。
まちがいの元は、「この地」の理解にありました。
私は、陸軍墓地全体を指すと思っていましたが、この碑は、新たに墓地に作り変えた土地だけを指していたのです。
「全部で五五九柱あるのに、二三七柱しか移していないなら、残りの三三二柱はどうした?」と思ったのです。
陸軍墓地に行っても、どこにも、これまでの墓地と新しく購入し建設された墓地の境界が見当たりませんから、誤解するのは当たり前。
財務事務所で見せてもらった黄色のラインマーカー入りの地図ではじめて新旧の境目が存在することがわかったのです。
もっとも、地図には新しく作った土地と書かれていたわけではありません。
ここまでが国有地となっていただけですが、非国有地に黒の記念碑があることとあわせて考えれば事は明白です。
三三二柱は今までどおりの場所に。バイパス用地にひっかかった二三七柱だけを移動させただけなのです。
上の写真は山手から陸軍墓地の一階部分を撮影したもの。
ちょうど真ん中の黒く写る溝が新(左)旧(右)を分ける境界です。
右の奥にあった墓地がバイパスの土地にとられて、左に改葬されたのです。
322柱の墓石(五五九柱のうちの)はどこへ行ったというのは、もともと成り立たない疑問でしたね。
でも怪我功名。消えたと思っていた墓を探して、偶然、日露戦争の牛馬の碑を見つけましたから。↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/17/1802616
私は素人にすぎませんが、陸軍墓地の調査の計画を立てました ― 2007/09/20
●一つの事実がわかるのに半日!
せっかくの休日。
陸軍墓地の件をさっさと片付けようと思っていたのですが、単純な事実ひとつわかるのに、半日かかる始末です。
そういうプロセスのなかでこそ、わかることもある・・・のも事実です。
しかし、買い物や整理の予定が飛んでいきそうです。
●だれかがやらなくてはならないんじゃないだろうか?
大津市も、財務事務所も、それぞれ担当者は、墓碑そのものには責任をもっていないことがわかりました。墓碑というか、後世につたえるべき遺産としての墓地に責任をもっていない気がしました。文化財保護課もそういう立場にはありませんでした。
個人の墓がほとんどですが、それらの所有権は、個人なのでしょうか?
たとえば、日清戦争は、1894から95(明治26から27)年ですが、それからすでに100年以上経っています。すべての墓碑に献花されていますが、それは遺族の方の花なんでしょうか?管理をゆだねられているボランティアの方の心づけなんでしょうか?
いわば無縁墓地のような扱いで、大津市が管理しているのではないでしょうか?
このまま調査が行われないまま、資料もないままで放置しておくことはできません(調査結果があるならば、私はその時点で安心して手を引くことができます)。
●悉皆調査をしてみることに
お昼の12時半ごろに、陸軍墓地から帰宅したのですが、もう足がふらふらでした。全部で559あるお墓のうち、150ぐらいは一枚一枚アップで(4面中の1面ですが)写真を撮ったからなのです。
いちいち体を屈めては写真をとり、少し進んで、また写真を。スローなうさぎ跳び状態です。
直接的には、写真さえ撮っておけば、忙しいときでも整理ぐらいはできると思うからです。長期的には、デジタル写真で残しておけば、風雪に削られてもなんとか記録として残るかと。
一日で559柱は、こういう方法では、一日かけても一人では無理です。それでも、数日かければ一面だけは可能な量ではあります。
全部で4面ありますから、その4倍の日数。
●やりはじめたことですから、計画を立てることにしました。
いまの陸軍墓地に559柱すべてがあること(まだ数えていないけれど)が判明しましたから、他の場所を探す必要はありません。
墓地は、お墓がまとまっている領域があります。
①領域ごとに名前をつけること。A地区とか、B地区とか。
②それぞれの地区ごとに、なん列のなん番という形でお墓に番号をふる。
たとえば、A(地区の)-2(前から2列めの)-5(左から5番目)
③すべてができあがったときに、お墓のID番号をふる。
とりあえず、こういう形で一つ一つのお墓を特定する準備をしてみようと思います。
せっかくの休日。
陸軍墓地の件をさっさと片付けようと思っていたのですが、単純な事実ひとつわかるのに、半日かかる始末です。
そういうプロセスのなかでこそ、わかることもある・・・のも事実です。
しかし、買い物や整理の予定が飛んでいきそうです。
●だれかがやらなくてはならないんじゃないだろうか?
大津市も、財務事務所も、それぞれ担当者は、墓碑そのものには責任をもっていないことがわかりました。墓碑というか、後世につたえるべき遺産としての墓地に責任をもっていない気がしました。文化財保護課もそういう立場にはありませんでした。
個人の墓がほとんどですが、それらの所有権は、個人なのでしょうか?
たとえば、日清戦争は、1894から95(明治26から27)年ですが、それからすでに100年以上経っています。すべての墓碑に献花されていますが、それは遺族の方の花なんでしょうか?管理をゆだねられているボランティアの方の心づけなんでしょうか?
いわば無縁墓地のような扱いで、大津市が管理しているのではないでしょうか?
このまま調査が行われないまま、資料もないままで放置しておくことはできません(調査結果があるならば、私はその時点で安心して手を引くことができます)。
●悉皆調査をしてみることに
お昼の12時半ごろに、陸軍墓地から帰宅したのですが、もう足がふらふらでした。全部で559あるお墓のうち、150ぐらいは一枚一枚アップで(4面中の1面ですが)写真を撮ったからなのです。
いちいち体を屈めては写真をとり、少し進んで、また写真を。スローなうさぎ跳び状態です。
直接的には、写真さえ撮っておけば、忙しいときでも整理ぐらいはできると思うからです。長期的には、デジタル写真で残しておけば、風雪に削られてもなんとか記録として残るかと。
一日で559柱は、こういう方法では、一日かけても一人では無理です。それでも、数日かければ一面だけは可能な量ではあります。
全部で4面ありますから、その4倍の日数。
●やりはじめたことですから、計画を立てることにしました。
いまの陸軍墓地に559柱すべてがあること(まだ数えていないけれど)が判明しましたから、他の場所を探す必要はありません。
墓地は、お墓がまとまっている領域があります。
①領域ごとに名前をつけること。A地区とか、B地区とか。
②それぞれの地区ごとに、なん列のなん番という形でお墓に番号をふる。
たとえば、A(地区の)-2(前から2列めの)-5(左から5番目)
③すべてができあがったときに、お墓のID番号をふる。
とりあえず、こういう形で一つ一つのお墓を特定する準備をしてみようと思います。
見てるほうがはずかしいぞ、おマタ広げて眠るモー♂ネコくん ― 2007/09/20
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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