お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


Google
WWW を検索 このブログ内を検索

なぎさ公園の散歩道2007/09/24

湖岸の公園の中にも道はあります。
公園の外周を回る散歩道を通って帰ることにしました。

この並木に、トリさんがいるからです。

でも、今日はトンビやハトしか見ることができません。

・・・・あきらめて、歩いていると。

ムクドリの声がしました2007/09/24

歩く姿がかわいいムクドリ
今日は、トリさんと出会えないとカメラをしまって歩いていると、
スズメより鋭い鳴き声がします。
お、これはムクドリ!
(少しは進歩したのです、鳴き声でわかるんです)

でも姿がない。

いきなり羽音がしました。
2から3メートルの至近距離の枝に止まっていて、
飛び立つところでした。

この距離だと、近眼の私でも、色や感触さえわかるのです。
残念と思って歩いていくと、
数匹のハトが地面でなにかを取っているところへ
舞い降りたのです。

ムクドリはなにかを見つけた?2007/09/24

ムクドリ
色がわかる距離ってあるんですね。

ムクドリって、顔に微妙に線が入っています。

中国の変面みたいな。

9.29沖縄県民大会に2007/09/24

あと数日で、沖縄で95年以来の県民大会が開かれます。
その成功のために、いろんな方が努力されているときいています。

95年にも県民大会が行われました。
その発端は、米兵による少女暴行事件でした。
その大会には、行けませんでしたが、直後に
沖縄の現実を知るために、かけつけることはできました。

今回は、日本政府が沖縄県民を辱めたことに端を発しています。
 
日本で唯一地上戦の舞台となった沖縄。
国民を守るはずの軍隊によって、集団自決に追いやられた
無念の歴史がそこにはあります。

戦後60年をすぎて、この生々しい事実がゆがめられました。
文部科学省が2006年度の検定で、
「軍が命令した証拠はない」として書き換えさせたのです。

沖縄には生き証人が多数生存。
それを承知しながら、この露骨な歴史の書き換えは、
過去の軍隊の犯罪を免罪し、被害者を二度に辱めるものです。

過去の事実をまげて、政府は、なにをしようというのか。
軍の復権と戦争をふたたび始めるためではないでしょうか。

 じゅごんの海を米軍に提供したり、長大な国境線をもつ国を守ることもできず、したがって国民を守るどころではない高額のペトオット3を(米軍基地や皇居、国会、原発などは守れるにしても)導入させたり、米軍との海外での共同行動をすすめたりしているのは、自民党政府です。
 イラクへは名目はともかく海外派兵さえ現実化させました。
 さらに、防衛庁は防衛省への昇格を強行しました。

 軍は、いまや影の存在から、表の主役へ躍り出ようとしています。
国民監視隊の存在は、国民生活をしばる恐ろしい狙いを
わが国の軍隊(自衛隊)が持っていることをはっきり教えています。

その流れのなかでの「集団自決」問題。
軍はやっていないと強弁しようというのです。

私が95年に沖縄を訪ねたとき、
長年にわたる沖縄の現実へ無関心を
とても、恥ずかしく思いました。
現地でそれを口にしましたが、
責める方にはお目にかかりませんでした。

それは私に強い印象を残しました。
同時に、日本のマスコミの沖縄問題の扱いに不信をもちました。

基地は沖縄だけの問題ではないし、軍隊による自国民への
残虐行為は、沖縄だけの問題ではありません。
これは沖縄県民の名誉と真実を守るたたかいであると同時に、
私たちの国の未来を守るたたかいでもあると思うのです。

いろんな思いを込めて、9・29県民大会の成功を祈ります。
今年は行けそうにありませんが、来年は沖縄に行きます。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)