お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
旧大津陸軍墓地で明治五年没の墓石を探す方法を考えました ― 2007/10/02
9月27日に申請した情報公開が認められれば、古い位置との対照表で旧大津陸軍墓地で最古のお墓を探すことは可能でしょう。
●自力で探してみる
しかし、それを待たなくても、自力で探すことはできると思いました。
これまでの手がかりと頭を使って、探すことにしました。
●ブロックの特徴から除外するものを決める
除外してよいブロックは、A、B、C、D、E、Gです。
AからDまでは、将校・准士官・下士官の墓地。
あったとしても、明治10年代以降のものです。
Gはロシア人捕虜の墓。
兵の墓は、E、F、K、Lの4つのブロック。
このうち、Eは、すべて日清戦争の戦没者・戦病没者の墓石。
古い位置から移設された237柱は、KとLにあります。
このなかに、地図によれば、
明治5年から始まる兵の墓があるのです。
そこに行く前に、Fブロックに注目しました。
●Fブロックの特徴
Fは、まだ、どういうブロックかわかりません。
そこは、私が陸軍墓地に来て最初に注目したところです。
なぜなら、数が少ないのに、ふぞろいな場所だったからです。
つまり、多様な墓碑があったからです。
階級名がなく、氏名だけの墓石が多くあります。
そういう墓石には、没年月日だけではなく、経歴などが刻まれていました。
まちがいなく、ここは日清以前の古い墓石があるのだと思いました。
階級名がないこと自体が階級重視の軍隊の体質が
墓石まで浸透していなかった年代の証だと考えました。
●日清戦争戦没者のブロックは画一的
日清戦争の墓碑は、もっとも数の多いEブロックに整然と
並んでいます。
しかし、きわめて画一的で、没個性的です。
形もそうですが、階級と氏名、没年月日と場所しか刻まれていません。
Fブロックを見たあとでは、それが際立ちます。
●KとLブロック
KブロックとLブロックは、いろんな種類の墓碑がならんでいます。
以前は上り坂の細長い道にそって、
不規則に建立されていた墓石を、
バイパス工事のために移転を余儀なくされたために、
新設し、そのときに、整然と並べ変えた場所です。
その並べ方に基準があれば、いいのですが。
形だけを見ても、日清戦争のEブロックのような画一的なものから、
名前が大書されたFブロックのようなものまであります。
資料でも、また自分の目で見ても、
明治から大正時代のものまであります。
●探し方を考えてみる
ひとつひとつ探す方法もありますが、それは謎解きとはいえません。
それはいずれするつもりですが。
①階級名のないもの
②形が他とはちがうもの
③各ブロックでお墓の後ろにあるもの
(B、C、Dの経験から、後ろの列が一番古い)
この基準で探してみました。
*上の写真の手前がFブロック。その左手の奥がEブロック。
右手の奥に、Kブロック。
●自力で探してみる
しかし、それを待たなくても、自力で探すことはできると思いました。
これまでの手がかりと頭を使って、探すことにしました。
●ブロックの特徴から除外するものを決める
除外してよいブロックは、A、B、C、D、E、Gです。
AからDまでは、将校・准士官・下士官の墓地。
あったとしても、明治10年代以降のものです。
Gはロシア人捕虜の墓。
兵の墓は、E、F、K、Lの4つのブロック。
このうち、Eは、すべて日清戦争の戦没者・戦病没者の墓石。
古い位置から移設された237柱は、KとLにあります。
このなかに、地図によれば、
明治5年から始まる兵の墓があるのです。
そこに行く前に、Fブロックに注目しました。
●Fブロックの特徴
Fは、まだ、どういうブロックかわかりません。
そこは、私が陸軍墓地に来て最初に注目したところです。
なぜなら、数が少ないのに、ふぞろいな場所だったからです。
つまり、多様な墓碑があったからです。
階級名がなく、氏名だけの墓石が多くあります。
そういう墓石には、没年月日だけではなく、経歴などが刻まれていました。
まちがいなく、ここは日清以前の古い墓石があるのだと思いました。
階級名がないこと自体が階級重視の軍隊の体質が
墓石まで浸透していなかった年代の証だと考えました。
●日清戦争戦没者のブロックは画一的
日清戦争の墓碑は、もっとも数の多いEブロックに整然と
並んでいます。
しかし、きわめて画一的で、没個性的です。
形もそうですが、階級と氏名、没年月日と場所しか刻まれていません。
Fブロックを見たあとでは、それが際立ちます。
●KとLブロック
KブロックとLブロックは、いろんな種類の墓碑がならんでいます。
以前は上り坂の細長い道にそって、
不規則に建立されていた墓石を、
バイパス工事のために移転を余儀なくされたために、
新設し、そのときに、整然と並べ変えた場所です。
その並べ方に基準があれば、いいのですが。
形だけを見ても、日清戦争のEブロックのような画一的なものから、
名前が大書されたFブロックのようなものまであります。
資料でも、また自分の目で見ても、
明治から大正時代のものまであります。
●探し方を考えてみる
ひとつひとつ探す方法もありますが、それは謎解きとはいえません。
それはいずれするつもりですが。
①階級名のないもの
②形が他とはちがうもの
③各ブロックでお墓の後ろにあるもの
(B、C、Dの経験から、後ろの列が一番古い)
この基準で探してみました。
*上の写真の手前がFブロック。その左手の奥がEブロック。
右手の奥に、Kブロック。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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