お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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琵琶湖南湖にも青空が写っています2007/10/05

穏やかな湖面にも、青空が写っています。
大津のなぎさ公園からの風景。
右手から草津市と守山市。
水平線の一番左に、琵琶湖大橋が見える・・・はずです。

今日は晴れ2007/10/05

10月5日。今朝は晴れ。
琵琶湖のなぎさ公園。
右手に見える高層ビルは、大津プリンスホテル。

主役は、青空。

琵琶湖南湖に数隻の小船が見えます。2007/10/05

目を西に向けました。
雲は東に少なく、西に多いようです。
夏もそうでした。

空気も曇っている様子。
それでも、比叡山が見えますね。

手前に数隻の小船が出ています。
この風景は、私にははじめてのものでした。

なにをしているのか、気になって
近づいて見ることにしました。

数隻で藻の回収でした(琵琶湖南湖)2007/10/05

琵琶湖南湖で藻を回収する数隻の小船
琵琶湖南湖の湖岸に近い湖面を
おなじところを数隻で回りながら、
藻を回収しているところでした。

琵琶湖南湖には、オレンジ色の耕運機のような形の
藻の回収船があります。

それだけでは、間に合わない状態なのです。

なぎさ公園から浜大津港へ2007/10/05

浜大津港
カメラをずっと西に向けました。
比叡山、浜大津港が見えます。

曇っているのが残念ですね。

琵琶湖北湖の酸素濃度が観測史上最悪2007/10/05

 滋賀県の琵琶湖環境科学研究センターと京都大学生態学研究センター、滋賀県立大学の三者が、9月28日に合同調査を行いました。
 その結果、琵琶湖の北湖の湖底(平均水深は40メートル、最深は100メートル)付近の溶存酸素の濃度が、この夏、最低レベルにある可能性が高いとわかったそうです。

 溶存酸素というのは、水に溶けている酸素の量。
 これが低いということは、生物にとっては、息ができないということであり、湖底に沈む重金属などを覆っている酸化膜が溶けて、悪い物質が水に溶け出す可能性が生まれるということです。

 いずれにしても、いいことではありません。

 琵琶湖の溶存酸素は、これから冬にかけて、さらに数値が下がります。
 どこまで下がるかが心配です。

●深呼吸と地球温暖化

 琵琶湖は冬に酸素がいっぱい溶けた雪解け水が湖底まで沈み、そこで酸素をまんべんなく供給することで、水質を保ってきました。
 これが琵琶湖の「深呼吸」といわれているものです。

 しかし、地球温暖化で暖冬になるとどうなるか。

 冷たい水が湖底までもぐりこむ作用が働かなくなるということです。
 現に、この春に、もぐりこむ動き(還流)が起きない重大事態が明らかになっていました。
 そこで、今回の観測になったんだと思います。
 そして、悪い結果として裏付けられたのです。

●溶存酸素1リットルあたり2ミリグラムが生命維持の危険水域

 この間の最悪の数値は、2002年。
 継続的に2ミリグラム/lを切れば、多くの生物が生きていくことができなくなります。

琵琶湖の酸素不足を解消する対症療法2007/10/05

 琵琶湖の酸素不足は、地球温暖化の影響を受けていることが、わかってきました。それが、今年は観測史上初という重大な現象を生んでいます。
 ひとつは、酸素をふくんだ冷たい水がもぐりこむときに生まれる還流がこの冬に起きなかったということ、もうひとつは、酸素濃度が最悪ということです。
 ともに、観測史上初のことです。
 3月に、琵琶湖研究所を訪れたときは、どうするのかということについて、それぞれが温暖化を止めるために、なんらかのことをするしかない。たとえば、すべての車をハイブリッドにすれば、二酸化炭素の排出量は半減する・・・という話がでるほどでした。
 7月に行われた実験があります。
 それを報道する記事が、日経にありました。
 以下、紹介します。

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(7/18)深層の酸素不足を解消――琵琶湖、水を電気分解

琵琶湖の水を電気分解する実験装置=18日、滋賀県草津市沖〔共同〕


 琵琶湖の深い場所の水が酸素不足の状態であるのを解決しようと、水を電気分解して酸素を作り水に溶け込ませる実験を、滋賀県琵琶湖環境科学研究センターと信州大などが18日、琵琶湖南部で始めた。

 電気分解でできた水素はエネルギーとして利用する“一石二鳥”の計画だ。

 同センターの熊谷道夫研究情報統括員らは、水深3―4メートルの湖底でしゅんせつのために開けられた深さ約10メートルのくぼ地に水槽を沈めて実験。湖上の船に設置した太陽電池で発生した電力を使い、水槽の中に取り付けた電極に電気を流した。

 すると水槽内の水の酸素濃度は、1リットル当たり0.4ミリグラムから1時間半後に約6ミリグラムに上昇した。熊谷さんは「生物が生きるには十分な濃度だ。今回は水素を取り出さないが、今後水素の使い方を検討し、生態系への影響を調査したい」と話している。

 琵琶湖では、冬に表層の水が冷やされて底に沈み、深い場所に酸素が供給されると考えられていたが、最近は深い場所が酸素不足になっており、地球温暖化の影響とみられる。〔共同〕

地球温暖化→琵琶湖の低酸素化→硝酸態リンが8倍化!?2007/10/05

 1960年代から70年代にかけて、琵琶湖の水質は劇的に悪化し、それを受けて、革新県政が生まれ、粉石けん運動が全県的に取り組まれました。
 (私は、亡母が婦人会で懸命に取り組みながら、粉石鹸ではうまく落ちないとぼやいていた記憶しかありませんが)
 いずれにしても、琵琶湖の環境を守る運動が大きな盛り上がりをつくったのが、1970年代前半のことです。
 しかし、水質はなかなか改善されていきません。
 ゆるやかなカーヴを描きながら、悪化していきます。
 その間、劇的に悪くなった湖もありましたが、琵琶湖はその巨大さによって、まだなんとか水質を保っていたように思えます。
 水質の悪化に常に警鐘を鳴らしておられる岡本巌名誉教授は、その一方で、右往左往するのを制止し、「琵琶湖はそんなやわではない」と言っておられます。冷静になれ、冷静にまた科学的に対応せよという意味だと思っています。
 それにしても、新聞報道を読めば、なんとかしなくてはと思わずにいられません。
 9月30日の報道を読み返せば、硝酸態リンの濃度は、1960~70年代の8倍、70~80年代の2倍になっているといいます。
 
 その原因として、地球温暖化が挙げられていることは重大です。
なぜなら、「粉石けんを使いましょう」という自治体ぐるみの運動をした70年代のような滋賀県だけの努力では解決することができないからです。
 地球温暖化がすすみ、酸素を大量に含んだ雪解け水や表層の冷たい水が、湖底にもぐりこむ「深呼吸」作用が弱まったり、なくなる危険があります。そうなると、湖底は一貫して低酸素状態。
 生物が棲めないだけではなく、湖底の泥のなかに閉じ込められているリンが溶け出す危険があります。もちろん、リンだけではないはず。
 硝酸態リンの濃度の上昇がとても気になるのです。

「軍役石工」の墓石(日清戦争):真田山陸軍墓地から2007/10/05

「軍役石工」の墓石(日清戦争):真田山陸軍墓地から
★真田山陸軍墓地だけにある「軍役夫」の墓地
 民間人が軍隊のために、戦争を支える様々な役割を
 担って、中国大陸へ渡ったことを物語っています。

私には、石工の方がどういう役目を果たしたのかわかりません。
軍事には素人の石工が、「軍役」という名前を
つけて戦地に赴いたのです。

真田山陸軍墓地のAブロックを
一つ一つ墓碑を確かめて歩くと、
戦争というものが、どんなに大規模なものか、
どれだけの資源、人材、
エネルギー、そして命を
無駄にするものかが
ひしひしとわかります。

「雇蹄鉄工」の墓石(日清戦争)真田山陸軍墓地から2007/10/05

「雇蹄鉄工」の墓石(日清戦争):真田山墓地から
真田山陸軍墓地だけにある「軍役夫」の墓地
民間人が軍隊のために、戦争を支える様々な役割を
担って、中国大陸へ渡ったことを物語っています。

それを私が見つけただけアップしたいと思います。

これは、「雇蹄鉄工」
軍馬のために不可欠な仕事だったんでしょうけれど、
戦死されたのですね。

(旧真田山陸軍墓地Aブロックから)

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)