お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「朝鮮国漁隠洞兵站司令部機関手」の墓石(日清戦争):真田山陸軍墓地から ― 2007/10/05
コメント
_ 忘暮楼 ― 2017年04月17日 12時34分39秒
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
http://db.history.go.kr/item/level.do?sort=levelId&dir=ASC&start=1&limit=20&page=1&setId=-1&prevPage=0&prevLimit=&itemId=jh&types=&synonym=off&chinessChar=on&levelId=jh_003_0070_1340&position=-1
駐韓日本公使館記録3巻 七. 和文電報往復拱 (134) [旅順戦鬪報告]
文書題目 (134) [旅順戦鬪報告]
文書番号
発信日 漁隱洞午前十一時四十分 発 ( 1894年 11月 24日 )
発信者 大将 大山
受信日 同二十四日 正午十二時 接
受信者 公使 井上
(134) [旅順戦鬪報告]
同二十四日 正午十二時 接
漁隱洞 午前十一時四十分 発
井上 公使
大山 大将
第二軍は二十一日の拂曉より旅順の後方陸正面の諸壘を攻撃せり卽ち第一師団は右翼に混成第十二旅団は左翼に轉回し攻城砲は其中間に位置せり敵は終末に至る迄頗る頑剛の抵抗をなせしも竟に第一師団は午前八時半きほうゑいれんぺい城の西方にある保壘だんを占領し午後二時旅順に進入し四時黄金山砲臺を佔領せり混成旅団は午前十一時半八里庄東南の堡壘だんを佔領せり二十二日の午前に於て軍は全く爾余の海岸諸砲臺を佔領せり我死傷は将校以下二百余名敵の死傷捕擄は未た詳かならす戦利品殊に大口徑の火砲彈藥等は甚た多し敵の兵力は二万を下らざりし如し
十一月二十二日午前八時旅順口に於て 大山大将