
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
資料の間違いか、実際に移動させたのか? ― 2007/10/14
旧大津陸軍墓地がバイパス工事で改造される前に
大津市が作成した資料は、元の状態を知る唯一の
客観的な資料となっている。
そういう値打ちがあってほしいと思っている。
だが、不具合もある。
たとえば、墓碑銘。
明らかな読み違いがある。
しかし、それはありえるミスであり、訂正は簡単に
できること。
しかし、看過できない問題がある。
それは、私がFブロックと名づけた墓地。
上の地図では、中段西側のAとなっている。
(旧大津陸軍墓地は斜面に建てられ、
3段構造=段々畑みたいに)
そのAの墓碑の配列図と墓碑名簿がある。
これが現在とずいぶん違うのだ。
誤記なのか、それとも、以前はこうだったのか?
バイパス工事にともなう移設は、「中段に地側」
とは無縁のはずだ。
移設が起こったのは、下段のみ。
だとすると、誤記なのか?
ここまで丁寧に仕上げながら、
そんなことがありえるのか?
具体的にいうと、
名簿 現在ある墓碑
1 藤井 六蔵 館 源左衛門
20 館 源左衛門 藤井 六蔵
逆転している。
もちろん、まだある。
大津市が作成した資料は、元の状態を知る唯一の
客観的な資料となっている。
そういう値打ちがあってほしいと思っている。
だが、不具合もある。
たとえば、墓碑銘。
明らかな読み違いがある。
しかし、それはありえるミスであり、訂正は簡単に
できること。
しかし、看過できない問題がある。
それは、私がFブロックと名づけた墓地。
上の地図では、中段西側のAとなっている。
(旧大津陸軍墓地は斜面に建てられ、
3段構造=段々畑みたいに)
そのAの墓碑の配列図と墓碑名簿がある。
これが現在とずいぶん違うのだ。
誤記なのか、それとも、以前はこうだったのか?
バイパス工事にともなう移設は、「中段に地側」
とは無縁のはずだ。
移設が起こったのは、下段のみ。
だとすると、誤記なのか?
ここまで丁寧に仕上げながら、
そんなことがありえるのか?
具体的にいうと、
名簿 現在ある墓碑
1 藤井 六蔵 館 源左衛門
20 館 源左衛門 藤井 六蔵
逆転している。
もちろん、まだある。
大江循環バス ― 2007/10/14
大津市の大江。
学区で言えば、瀬田学区。
そこに、近江鉄道バスが「大江循環バス」を運行しています。
これが、大江学区(大江財産区)がお金を出して、
運行させているバス。
こういう方法(お金がある地域では)で、
足を確保している場合もあるのです。
ちなみに、近江鉄道バスのサイト
ここに入って、時刻表をクリックし、大津を選ぶ。
http://www.ohmitetudo.co.jp/bus/
学区で言えば、瀬田学区。
そこに、近江鉄道バスが「大江循環バス」を運行しています。
これが、大江学区(大江財産区)がお金を出して、
運行させているバス。
こういう方法(お金がある地域では)で、
足を確保している場合もあるのです。
ちなみに、近江鉄道バスのサイト
ここに入って、時刻表をクリックし、大津を選ぶ。
http://www.ohmitetudo.co.jp/bus/
比良トピアバス廃止でバス路線への願いが切実に ― 2007/10/14
いろんな人にバスへの期待を聞いてみた。
大津市と合併するまえに、志賀町には
比良トピアという温泉(たしか町立)のために
循環バスが出ていた。
町民へのサービスという形なのだろう。
そのバスは、南北に長大な志賀町を
上手にカバーしていた。
比良トピア自身が北部にあったので、
人口密集地の南部から通えるようにと
いうわけで。
その路線は、国道161号線上に
バス停があり、アクセスにも便利。
本来の目的とは別に、
町民の買い物(和邇平和堂)や
通院(国立比良病院→日赤分院に変更など)
に使えた。
ところが合併で廃止。
町民の足がなくなった。
そもそも旧志賀町北部には、スーパーなどのお店がない。
病院もない。
高齢化してくると、車が使えない。
タクシーはカネがかかるし、息子・娘に頼むのも
気苦労が多い。
だから、公共交通への期待は大きいのだ。
期待というより、切実な要求といえる。
大津市と合併するまえに、志賀町には
比良トピアという温泉(たしか町立)のために
循環バスが出ていた。
町民へのサービスという形なのだろう。
そのバスは、南北に長大な志賀町を
上手にカバーしていた。
比良トピア自身が北部にあったので、
人口密集地の南部から通えるようにと
いうわけで。
その路線は、国道161号線上に
バス停があり、アクセスにも便利。
本来の目的とは別に、
町民の買い物(和邇平和堂)や
通院(国立比良病院→日赤分院に変更など)
に使えた。
ところが合併で廃止。
町民の足がなくなった。
そもそも旧志賀町北部には、スーパーなどのお店がない。
病院もない。
高齢化してくると、車が使えない。
タクシーはカネがかかるし、息子・娘に頼むのも
気苦労が多い。
だから、公共交通への期待は大きいのだ。
期待というより、切実な要求といえる。
将校の墓地にある”かまぼこ形”の墓石 ― 2007/10/14
幕末長州の奇兵隊出身者の墓碑でした ― 2007/10/14
トビのシルエット ― 2007/10/14
トビのシルエットⅡ ― 2007/10/14
この草花の名前教えてください ― 2007/10/14
つゆ草って梅雨のときだけと思っていました ― 2007/10/14
恐竜バッタ(ですよね)発見!*実はまちがいでした ― 2007/10/14

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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