お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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ロシア人捕虜の墓石を考える2007/10/16

ロシア人捕虜の墓石
旧大津陸軍墓地にある
ただひとつのロシア人兵士の墓。
これについて
考えてみることにした。

●位置

この墓石の位置だけれど、かつての中段で、
目の前が崖となる端に、ひっそり建っていたという。

位置そのものは、地図から見ると変わっていないと思う。

イワン・オシホフ・ドラトフスキーという名前2007/10/16

露国第第四狙撃手連隊第三中隊列兵イワン・オシホフ・ドラトフスキーの墓石
午後の光のなかでは、墓碑名も鮮やかに
読み取ることができる。

●墓碑名

露国第第四狙撃手連隊第三中隊列兵
イワン・オシホフ・ドラトフスキー

●十字架

宗教を考慮し、十字架が鮮やかに
つけられている。

●上のくぼみ

だが、十字架の上のくぼみはなんだろう?
四角いくぼみは、なにかが
はめ込まれていたのではないか。

少し気になるところだ。

千八百七十五年六月十五日生まれ2007/10/16

三つに破損した跡があるロシア人兵士の墓碑
大津陸軍墓地に眠るロシア人兵士の墓について
考える。

●生まれ

1875年6月15日生まれ。
つまり、ロシアが敗戦し、日本に送還されてきたときは、
29歳だったことになる。

●破損

墓石は、少なくとも三つの部分に
折れた形跡がある。

墓地の近くにずっと住んでいたKさんの記憶に
よれば、15年戦争の最後の3年間
墓地の清掃を小学生も行っていたが、
ロシアへの敵愾心から、おしっこをかけたり、
けったり、折ったりしたという。

その話がこの墓石の破損状況を見れば、
リアルさをもって迫ってくる。

異土にて「明治三十八年五月二十日病死」2007/10/16

明治38年5月20日病死の文字
大津陸軍墓地にたった一つある
ロシア人兵士の墓石について、
いろいろ考えてみたい。

●病死の日付

墓石には、「明治三十八年五月二十日病死」
と刻まれている。
この「五月」の「五」の部分が破損箇所になっていて、
もしかしたら、「三」かとも読める。

●大津市へのロシア人捕虜の輸送について

明治44年発行の「大津市志」下巻の
「第三編歴史紀事」の付録に
「一、俘虜収容所の設置」という文章があり、
ロシア人捕虜のことについて、
触れられている。

簡単にいうと、
明治38(1905)年2月10日に、
大津市参事会が陸軍大臣に対して、
俘虜収容所を大津市に設置するよう
決議し、具申ししている。
2月16日に、軍の方から、大津市役所に
訪問があり、協議されている。
2月17日に市参事会が開催され、この件を
議論し、第四連隊経理部まで出張することに
決まった。
2月18日、その決定にしたがって、
大津市の助役が第四師団に出張。
それから、約一ヶ月後の、
3月13日に、第四師団から担当官が
大津に来て、寺院などを臨検した。
その後、緊急連絡の電報がきて、
1500名の収容となったので、
「雨中徹夜」で収容先を確保する。
捕虜は予定の人数が3月23日と24日に
到着している。
4月1日には、将校20名、従卒20名が
追加で到着。しかし、これらは、16日には
鯖江市へ移動している。
5月25日と26日には、1500名の捕虜の
半数が習志野市へ移動している。
7月15日、非戦闘員107名を帰還させている。
8月25日、樺太の捕虜108名が大津に到着。
10月に平和条約が締結され、
12月23日をもって、すべての捕虜が
大津市からいなくなった。

●「習志野市から運んだ」(?)

奉賛会の会長さんは、死んだ兵士を
習志野市からここに運んで埋めたと
言っていた。
しかし、その情報は、まちがいではないか。
なぜなら、習志野市へ移送されるまえに、
死亡しているからである。
ここで死亡したのなら、大津陸軍墓地に
埋葬されることになんの不思議もないのだ。

●30歳の誕生日をまえにして

6月15日生まれだから、あと半月もすれば、
30歳を迎えることができたはず。
それを待たずに、イワン・ドラトフスキーという
若者は、異土で亡くなったのである。

ロシア人兵士の墓石が語るもの2007/10/16

旧大津陸軍墓地でたったひとつ離れたところにあるロシア人兵士の墓碑
もし、このロシア人兵士の墓碑が
旧大津陸軍墓地になければ、
捕虜が大津市に送還されてきたという
歴史的事実に私が気づくことが
なかっただろう。

またそれを知った後で、
この墓碑を見ることで、
よりリアルに感じることもなかっただろう。

墓碑は、死んだ兵士に代わって、
歴史の生きた証人として目の前に
建っているのを私は感じる。

街を歩けば、ネコと(たまに)出会う2007/10/16

まちを歩けばネコに出会う・・・。
昨日のこと。
狭い路地を通り抜けて、駐車場を横切ろうとすると、
ネコがいた。
ゆっくり壁ぞいに移動中。

街中でのネコとの出会いは
ひさしぶりなので、声をかけることにした。

声をかければ、ネコは近づいてくる!2007/10/16

声をかけると近づいてきました、そのネコは。
駐車場をゆうゆう横断していたネコは、
人間の言葉がわかるらしい。
「おーい」と声をかけると
近づいてきた。

不機嫌そう。
しかも、目つきが怖い・・・。

そのネコは、なでさせてくれた!2007/10/16

他人様のネコですが、なでさせてくれました
外見は、怖そうなネコだったけれど、
言葉はわかるし、
なでさせてもくれた。

おいおい。
ノミはついてないか?
すこし毛並みが整っていないぞ!
などと会話を楽しむ。

お別れにポーズをきめてもらった2007/10/16

最後にポーズを決めてもらった
仕事中だから、ゆっくりそのネコと
会話しているわけにはゆかない。

お別れのときだ!
ポーズを決めて欲しいと頼んだら、
このポーズ。

その姿を眺めていて、
ネコのデザインは一定の制約があるとわかった。
シロネコとクロトラの子どもらしいネコだけど、
尻尾はかならず、トラ。
顔も、口よりしたを除くとトラ。
肩もトラ。
あとはシロという規則が見える。
これらは、
うちのムー♂ネコと比べてみての話だけど。

こんなデザインのことを、ネコ自身に聞いても、
「わかるわけない!」といわれるだろうから、
なにもきかず、
お礼をいって、分かれた。

シジュウカラ2007/10/16

高い電線で仲間と鳴き交わすシジュウカラ。空飛ぶペンギンに見える。
お昼休みの161号線沿いの
オフィス街。

鋭い鳴き声が聞こえる。
チュチュチューン。
しかも真上とすこし離れた場所から。

昼食にいく途中だけど、カメラを
取り出して、探す。

声のわりにとても小さい。
スズメ・・・ぐらいか。

200㎜望遠で撮って、さらに拡大。
え?!ぶれてないようだ。

何枚か撮ってみた。
図鑑を見れば、シジュウカラとすぐわかる。
模様はペンギン風。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)