お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
そんなサイドワークを? ― 2007/10/18
●そんなサイドワークを?
サイドワークというのは、副業、片手間仕事、サイドビジネスなどという意味。
私が、平和委員会のYさんに「陸軍墓地の見学会をするので協力を」と言ったとき、「そんなサイドワークをされているんですか?」と驚かれた。
私の仕事の内容からして、とてもできる余裕はないはずなのにという意味なのか、それとも別の意味なのかわからない。やってはいけないという否定的な評価ではなかったので、まぁいいかと思っている。
●片手間仕事でなくなってきて
問題は、片手間仕事でなくなってきていること。
期間を限定され、集中して仕事をするのは、慣れている。少し無理なペースでも、「これくらいやれば、先が見えるかな」と思っていたのだけれど、陸軍墓地の問題は、思ったよりも、奥が深かった。人とのつながりも広がり、私自身の興味も深まり、視野も広がってきたので、深夜に及ぶ突貫工事的な作業では、体がもたないように思えてきた。
●ブログにふさわしい?
ブログで書きなぐっているけれど、「これってブログにふさわしいのかなぁ」という疑問もわく。
本人が他人に見せるつもりもなく勝手にかいている限りは、問題ないけれど、ブログは情報発信・・・まあ、これも、深く考えることはないのかも知れない。
●長く続けるために
奥が深い問題ならば、突貫工事のように無理をせずに、気長に続けていけるほうがいいだろう。写真撮影やデータづくりなどの作業時間は必要だけれど、それは方向さえ決まれば、ぼちぼち進めることができる。
だから、問題意識は、生き物のように思えるので、これは、ブログで書いていきたい。
たった一人でやるのではなく、集団をつくることが肝心になっていると感じている。いずれ保全のための運動がしたいので、集団づくりを目指している。だが、参加者を広げるためにも、陸軍墓地の大切さをわかってもらうためにも、”一定のところ”まで現状を明らかにしたいと考えていた。
ところが、その”一定のところ”という基準が問題なのだ。
奥がふかいために、自分が書き上げようとした内容がどんどん膨らんでくる。
時間をかければできることはある。しかし、カミさんも健康を心配するようになってきた。実際、睡眠時間は減ってきたのだ。
これは、サイドワーク・・・だから、仕事と同様の精度を追求するのは、無理かもしれない。
ここまでは自分の力でできると思っても、時間が許さなければ、ブレーキを踏むしかない。
●休みをほんとうの休みに
・・・と思っても、そうはできないような気がする。
ところで、明日(もう今日になったけれど)は休みです。
どうするかなぁ。
仕事でも、サイドワークでも、したいことはたくさんあるのだ。
サイドワークというのは、副業、片手間仕事、サイドビジネスなどという意味。
私が、平和委員会のYさんに「陸軍墓地の見学会をするので協力を」と言ったとき、「そんなサイドワークをされているんですか?」と驚かれた。
私の仕事の内容からして、とてもできる余裕はないはずなのにという意味なのか、それとも別の意味なのかわからない。やってはいけないという否定的な評価ではなかったので、まぁいいかと思っている。
●片手間仕事でなくなってきて
問題は、片手間仕事でなくなってきていること。
期間を限定され、集中して仕事をするのは、慣れている。少し無理なペースでも、「これくらいやれば、先が見えるかな」と思っていたのだけれど、陸軍墓地の問題は、思ったよりも、奥が深かった。人とのつながりも広がり、私自身の興味も深まり、視野も広がってきたので、深夜に及ぶ突貫工事的な作業では、体がもたないように思えてきた。
●ブログにふさわしい?
ブログで書きなぐっているけれど、「これってブログにふさわしいのかなぁ」という疑問もわく。
本人が他人に見せるつもりもなく勝手にかいている限りは、問題ないけれど、ブログは情報発信・・・まあ、これも、深く考えることはないのかも知れない。
●長く続けるために
奥が深い問題ならば、突貫工事のように無理をせずに、気長に続けていけるほうがいいだろう。写真撮影やデータづくりなどの作業時間は必要だけれど、それは方向さえ決まれば、ぼちぼち進めることができる。
だから、問題意識は、生き物のように思えるので、これは、ブログで書いていきたい。
たった一人でやるのではなく、集団をつくることが肝心になっていると感じている。いずれ保全のための運動がしたいので、集団づくりを目指している。だが、参加者を広げるためにも、陸軍墓地の大切さをわかってもらうためにも、”一定のところ”まで現状を明らかにしたいと考えていた。
ところが、その”一定のところ”という基準が問題なのだ。
奥がふかいために、自分が書き上げようとした内容がどんどん膨らんでくる。
時間をかければできることはある。しかし、カミさんも健康を心配するようになってきた。実際、睡眠時間は減ってきたのだ。
これは、サイドワーク・・・だから、仕事と同様の精度を追求するのは、無理かもしれない。
ここまでは自分の力でできると思っても、時間が許さなければ、ブレーキを踏むしかない。
●休みをほんとうの休みに
・・・と思っても、そうはできないような気がする。
ところで、明日(もう今日になったけれど)は休みです。
どうするかなぁ。
仕事でも、サイドワークでも、したいことはたくさんあるのだ。
奉天の戦いで戦死した上等兵の墓石 ― 2007/10/18
奉天の戦いで戦死した27歳「陸軍歩兵軍曹中井市松」の墓石 ― 2007/10/18
大津から京都へ向かう間道のひとつ。
そこの山手に墓地があります。
気になって、歩いてきました。
そこに、りっぱな墓石がありました。
単純な四角柱ではなく、うえにむかって
わずかに細くなっていく形。
そして、途中から鋭く四角錘の形へ。
戦争で亡くなった方の墓石であることは
人目でわかります。
しかも、保存状態はとてもよい。
いい墓石を使われているんでしょうね。
右面は「享年27歳」の文字。
表面には、「故陸軍歩兵軍曹勲七等功七等」
そして、「中井市松」というお名前。
墓碑の左面には、
「明治三十八年三月九日
於清国奉天戦死」
の文字。
●大津市志から
私は、このお名前を別の箇所で見つけています。
それは、明治44年版の『大津市志』の中です。
大津市別所六十一番屋敷
陸軍歩兵軍曹勲七等功七等 中井市松
明治十二年八月二十二日生
明治三十三年徴兵出身。予備役として歩兵第九連隊に属し、三十七八戦役従軍。各地戦闘。明治三十八年三月二日清国北台子戦闘に於て左前頭上部断裂骨銃創を受け、同月九日遼陽兵站病院に於て負傷に因り死亡。同日叙勲七等青色桐葉章及び功七級金鶏勲章 に従軍記章を授け賜ひ、同三十九年五月靖国神社に合祀される。
そういえば、日露戦争で戦死した下士官の墓碑を
見るのは、これがはじめてかも知れません。
そこの山手に墓地があります。
気になって、歩いてきました。
そこに、りっぱな墓石がありました。
単純な四角柱ではなく、うえにむかって
わずかに細くなっていく形。
そして、途中から鋭く四角錘の形へ。
戦争で亡くなった方の墓石であることは
人目でわかります。
しかも、保存状態はとてもよい。
いい墓石を使われているんでしょうね。
右面は「享年27歳」の文字。
表面には、「故陸軍歩兵軍曹勲七等功七等」
そして、「中井市松」というお名前。
墓碑の左面には、
「明治三十八年三月九日
於清国奉天戦死」
の文字。
●大津市志から
私は、このお名前を別の箇所で見つけています。
それは、明治44年版の『大津市志』の中です。
大津市別所六十一番屋敷
陸軍歩兵軍曹勲七等功七等 中井市松
明治十二年八月二十二日生
明治三十三年徴兵出身。予備役として歩兵第九連隊に属し、三十七八戦役従軍。各地戦闘。明治三十八年三月二日清国北台子戦闘に於て左前頭上部断裂骨銃創を受け、同月九日遼陽兵站病院に於て負傷に因り死亡。同日叙勲七等青色桐葉章及び功七級金鶏勲章 に従軍記章を授け賜ひ、同三十九年五月靖国神社に合祀される。
そういえば、日露戦争で戦死した下士官の墓碑を
見るのは、これがはじめてかも知れません。
日露戦争で戦死した陸軍歩兵少尉の墓石 ― 2007/10/18
旅順要塞攻撃の四日間で壊滅した後備歩兵第九連隊 ― 2007/10/18
日露戦争が開始されたとき、後備歩兵第九連隊は、明治37(1904)年3月に召集をうけ、後備歩兵第3旅団のもとに配備。4月27日に、軍旗を拝受。6月27日に出征。連隊長は高城義孝中佐、第一大隊長は加藤経高少佐、第二大隊長は上山正友少佐。
ちなみに、陸軍歩兵第九連隊の方は、4月18日に出征。奥大将の第二軍に配属された。
●乃木大将の第3軍に配属
7月10日に遼東半島に上陸。乃木大将の第三軍に属して、旅順要塞攻撃第一線部隊となる。
●8月21日に攻撃開始
8月21日に盤龍山東砲台及び東鶏冠山砲台の中間堡塁に向かって、突撃を開始。激烈な砲火のもとで、連隊長・高城義孝中佐、第一大隊長・加藤経高少佐、第二大隊長・上山正友少佐以下、半数以上の兵が戦死。連隊副官我妻鎬太郎が新たに三中隊を編成して、戦闘継続。
24日に、再度、一中隊と一小隊で、望台西北方高地及び盤龍山東西砲台西南砲台にむかって突撃。ほとんどの将兵が死亡。
●8月24日に全滅
この四日間の戦闘で、後備第九連隊はほぼ全滅した。
総員1587人中生存者がわずか390名。
3大隊から成立していた連隊を2中隊に編成しなおして、後備部隊となった。
戦死した将校は、
●後備第九連隊長 高城義孝中佐
●第一大隊長 加藤経高少佐
●第二大隊長 上山正友少佐
●陸軍歩兵大尉 奈良銊次郎 →大津陸軍墓地Aブロック
●陸軍歩兵大尉 清閑寺愛房
●陸軍歩兵大尉 伏木徳太郎 →大津陸軍墓地Aブロック
●陸軍歩兵大尉 徳大寺亀一 →大津陸軍墓地Aブロック
●陸軍歩兵中尉 安原徳蔵
●陸軍歩兵中尉 館野冬吉
●陸軍歩兵中尉 江口銀三郎
●陸軍歩兵少尉 吉田耕一
●陸軍歩兵少尉 佐多政治郎
●陸軍歩兵少尉 大橋又次郎
●陸軍歩兵少尉 富田正弘
●陸軍歩兵少尉 寺西直
●陸軍歩兵少尉 高橋竹治
●陸軍歩兵少尉 石橋喜太郎
●陸軍歩兵特任曹長 加藤松次郎
●陸軍歩兵特任曹長 藤本元吉
●陸軍歩兵特任曹長 富永東一
下士卒の戦死は、386名。
負傷者は、708名。
ちなみに、陸軍歩兵第九連隊の方は、4月18日に出征。奥大将の第二軍に配属された。
●乃木大将の第3軍に配属
7月10日に遼東半島に上陸。乃木大将の第三軍に属して、旅順要塞攻撃第一線部隊となる。
●8月21日に攻撃開始
8月21日に盤龍山東砲台及び東鶏冠山砲台の中間堡塁に向かって、突撃を開始。激烈な砲火のもとで、連隊長・高城義孝中佐、第一大隊長・加藤経高少佐、第二大隊長・上山正友少佐以下、半数以上の兵が戦死。連隊副官我妻鎬太郎が新たに三中隊を編成して、戦闘継続。
24日に、再度、一中隊と一小隊で、望台西北方高地及び盤龍山東西砲台西南砲台にむかって突撃。ほとんどの将兵が死亡。
●8月24日に全滅
この四日間の戦闘で、後備第九連隊はほぼ全滅した。
総員1587人中生存者がわずか390名。
3大隊から成立していた連隊を2中隊に編成しなおして、後備部隊となった。
戦死した将校は、
●後備第九連隊長 高城義孝中佐
●第一大隊長 加藤経高少佐
●第二大隊長 上山正友少佐
●陸軍歩兵大尉 奈良銊次郎 →大津陸軍墓地Aブロック
●陸軍歩兵大尉 清閑寺愛房
●陸軍歩兵大尉 伏木徳太郎 →大津陸軍墓地Aブロック
●陸軍歩兵大尉 徳大寺亀一 →大津陸軍墓地Aブロック
●陸軍歩兵中尉 安原徳蔵
●陸軍歩兵中尉 館野冬吉
●陸軍歩兵中尉 江口銀三郎
●陸軍歩兵少尉 吉田耕一
●陸軍歩兵少尉 佐多政治郎
●陸軍歩兵少尉 大橋又次郎
●陸軍歩兵少尉 富田正弘
●陸軍歩兵少尉 寺西直
●陸軍歩兵少尉 高橋竹治
●陸軍歩兵少尉 石橋喜太郎
●陸軍歩兵特任曹長 加藤松次郎
●陸軍歩兵特任曹長 藤本元吉
●陸軍歩兵特任曹長 富永東一
下士卒の戦死は、386名。
負傷者は、708名。
旅順攻撃で戦死した陸軍少佐奈良銊次郎の墓碑 ― 2007/10/18
旅順攻撃で戦死した陸軍大尉徳大寺亀一の墓碑 ― 2007/10/18
旅順攻撃で戦死した陸軍大尉伏木徳太郎の墓 ― 2007/10/18
墓碑が語る日露戦争の姿 ― 2007/10/18
日露戦争の戦場は、中国本土にあります。その地を日常的に見ることも、触れることもできない私にとって、生で感じられる記録が個人の墓碑なのです。
上の写真は、真田山陸軍墓地にある四つの階級(将校、准仕官、下士、兵卒)ごとの合葬碑です。
大津陸軍墓地でもまったく同じセットがありますから、規格の品ということです。
これらからは、かつて戦争があったということは実感できても、戦場や軍隊の生々しさは伝わってきません。
大津陸軍墓地には、日露戦争の関係では、この四つの合葬碑と日露戦争で戦死した将校の墓碑以外には、墓碑は存在しません。
ですから、私は、陸軍墓地を離れて、一般の墓地のなかに、日露戦争の記録(記憶)を求めて、歩くようにしているのです。
墓碑を探し、その氏名と碑文、そして『大津市志』や戦史の記述をたよりに、失われた記憶をよみがえらせようとしているのです。
文字でしか知られていない事実が、墓碑として目の前に直立していることを知って、幾度か驚かされるのです。
その最たるものが、奉天の戦いであり、旅順要塞攻撃です。
しかし、それだけに限られているわけではありません。
上の写真は、真田山陸軍墓地にある四つの階級(将校、准仕官、下士、兵卒)ごとの合葬碑です。
大津陸軍墓地でもまったく同じセットがありますから、規格の品ということです。
これらからは、かつて戦争があったということは実感できても、戦場や軍隊の生々しさは伝わってきません。
大津陸軍墓地には、日露戦争の関係では、この四つの合葬碑と日露戦争で戦死した将校の墓碑以外には、墓碑は存在しません。
ですから、私は、陸軍墓地を離れて、一般の墓地のなかに、日露戦争の記録(記憶)を求めて、歩くようにしているのです。
墓碑を探し、その氏名と碑文、そして『大津市志』や戦史の記述をたよりに、失われた記憶をよみがえらせようとしているのです。
文字でしか知られていない事実が、墓碑として目の前に直立していることを知って、幾度か驚かされるのです。
その最たるものが、奉天の戦いであり、旅順要塞攻撃です。
しかし、それだけに限られているわけではありません。
旅順攻撃で戦死した27歳上等兵の墓碑 ― 2007/10/18
大津市の小関越は、京都市に向かう山の道です。
その途中に旧い墓地があります。
そこには、多くの戦死者の墓石があります。
上の写真は、陸軍歩兵上等兵の墓石。
左面には、
『明治三十七年八月二十四日
盤龍山西砲台於付近戦死』
と刻まれています。
この戦死した地点と日付で
後備歩兵第九連隊に所属した上等兵であることが
わかります。
●大津市志から
この方の記録を明治44年版『大津市志』に見つけました。
大津市観音寺町四十八番屋敷
陸軍歩兵上等兵勲八等功七級 山口三治郎
明治十年十一月二十三日生
明治三十年徴兵出身予備役として後備歩兵第九連隊に属し、三十七八戦役従軍各地戦闘。明治三十七年八月二十二日清国東鶏冠山砲台付近の戦闘に於て死傷不詳戦死。同日叙勲八等白色桐葉章及功七級金鶏勲章 従軍記章を授け賜ひ同三十九年靖国神社に合祀せらる。
27歳での戦死。
●陸軍墓地には日露戦争の兵の個人墓碑はない
陸軍墓地には、一般の兵の日露戦争の記録を
とどめる墓石はありません。
できるだけ、多くの墓石を記録に残したいと
私は思うのです。
その途中に旧い墓地があります。
そこには、多くの戦死者の墓石があります。
上の写真は、陸軍歩兵上等兵の墓石。
左面には、
『明治三十七年八月二十四日
盤龍山西砲台於付近戦死』
と刻まれています。
この戦死した地点と日付で
後備歩兵第九連隊に所属した上等兵であることが
わかります。
●大津市志から
この方の記録を明治44年版『大津市志』に見つけました。
大津市観音寺町四十八番屋敷
陸軍歩兵上等兵勲八等功七級 山口三治郎
明治十年十一月二十三日生
明治三十年徴兵出身予備役として後備歩兵第九連隊に属し、三十七八戦役従軍各地戦闘。明治三十七年八月二十二日清国東鶏冠山砲台付近の戦闘に於て死傷不詳戦死。同日叙勲八等白色桐葉章及功七級金鶏勲章 従軍記章を授け賜ひ同三十九年靖国神社に合祀せらる。
27歳での戦死。
●陸軍墓地には日露戦争の兵の個人墓碑はない
陸軍墓地には、一般の兵の日露戦争の記録を
とどめる墓石はありません。
できるだけ、多くの墓石を記録に残したいと
私は思うのです。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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