お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

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11・24見学会用に、これまで「旧大津陸軍墓地」について、わかったことをメモにしてみた2007/10/25

今日は休日。考え抜く時間がある日。
旧大津陸軍墓地の見学会用の作業メモをつくる。

●どうしても感覚的に誤解しやすいこと

それは、「陸軍墓地」というものの性格。
Eブロックを調べていて、自分でも、ときどきこれを忘れる。
つい陸軍墓地と戦争を直接結びつけ、戦死者の墓地という角度から、物事を組み立てようとすること。
 戦争→戦死→国事に殉じた英霊→靖国神社へ合祀
という流れとは別モノ。
 戦争がなくても、軍隊は維持されている。平時でも病死する兵士も出てくる。そういう人は、英霊とはみなされず、靖国神社に合祀されることもない。ましてや自殺する兵士は、論外となる。
 陸軍墓地は、どのような原因であったにしても、兵役中に亡くなった将兵を埋葬するところなのだ。・・・敵国の兵士すら(靖国神社の立場は、敵国は永久に敵国)。

各ブロックの性格・・わかったこと、不明なこと

●Aブロック
 上段にある。一目で将校の墓地とわかる。しかし、配列がよくわからない。
それに、謎の墓碑がある。これは、小さなかまぼこ型だが、字が読めない。草書体なのだろうか?もともとあった軍とは無縁の墓碑なのか、それともなになのか、不明のままだ。
 これを除外して、墓碑の年代ごとに、成立した姿を思い描くと、あっちにひとつ、こっちにひとつというように、バラバラに建立されたとしか思えない。

●Mブロック
 上段にあり、将校の墓地と隣り合わせ。だが、陸軍地という標識(石)の外にある。だから、陸軍墓地とたまたま隣り合わせの土地かといえば、そうともいえない。軍に関係する女性の墓があるからだ。これは、全体が謎。

●Bブロック
 中段にある日清戦争期に病没した14基の下士官・准士官の墓地。戦死者はないと思われる。だが、2名を除いて死亡原因がわからない。
 これとは別にただ一基、不明の墓碑がある。死亡年月日も離れている。文字がうまく読み取れない。なぜ、ここに?という疑問もある。

●Cブロック
 中段にある病死した下士官の墓地。まだ詳しく調べていない。墓碑がなく、石がおかれたところがある。もともと墓碑があったのじゃないだろうか。
 それとは別に、まったくといっていいほど、読めない墓碑が隅っこにある。これら二つが謎。

●Dブロック
 中段にある病死した下士官の墓地。Cとの違いがよくわからない。大正時代のものもあるので、順序からいくと、あとにできたもの。三列あるが、中の列が奥の列と向かい合うように建っている。つまり、奥と中は一体に建てられた。その外は、別ということになる。
 十字架がついている墓碑がある。これは大きな特徴である。

●Eブロック
 中段にある。日清戦争期に病没した兵士の墓地だろう。207基あるが、出征途中、もしくは遼東半島で亡くなった墓碑が204基、凱旋後ふたたび出征して台湾で亡くなった墓碑が2基ある。
 なぞは、士官候補生の墓碑が1基だけあること。兵の墓碑6柱分のスペースをとっている。一体に配置されたものと考えられる。あとから、わざわざ、6つをどけて、ここに埋葬するだろうか?そんなことをせずともよいと思われる。死亡年月日は日清戦争が終わって一年後。この墓地の成立年代を考えるヒントになるかも。

●Fブロック
 中段にある最古の墓地。明治八年から11年ごろまでの病死者の墓地だと思われる。37基ある。「西南の役」という文言を見つけたのは、ここ。

●Gブロック
 中段にあるロシア人墓地。たった1基。この存在が旧大津陸軍墓地の値打ちを高めているように思える。かつてはがけっぷちにあったという。場所は同じでも、工事のために、平地の中に入り込んでいるように見える。

●KブロックとLブロック
かつては、陸軍墓地は上段・中段・下段と分かれていた。下段がバイパス工事のために、取り壊され、中段の西の谷を埋め立てて、現在の墓地がある。
 基本的に、明治11年から大正十三年までの墓碑。下段にあったときは、真ん中の道をはさんで、東西にならんでいた。しかも、坂の上から順に葬られていった。つまり、年代と配置が明確だった。
 これが、KブロックとLブロックに分割され、整列させられている。
どういうオーダーなのか、調査中。

●Kブロック
 このブロックに、彦根に明治五年に駐屯していた「第十八大隊」の兵士の墓碑が5柱ある。下段のオーダーから推測して、明治40年代前半に彦根から大津に移設されたのではないかと思っている。
 これも調査が必要だ。

見学会のために、奉賛会の奥村会長が、平尾神社の拝殿をかりていただいた。感謝。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)