お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「陸軍墓地」と「民間墓地」を歩いてみて(今後どうするかというメモ) ― 2007/10/25
気が向くままに調べている将兵の墓石の調査。
調査といえるほどのものでもないけれど。
●墓石が存在することの意味
将兵の墓石は、存在そのものによって、時を止め、過去を動かぬ現実としてわれわれの目の前に突きつける。だが、風雪は、石をも砕き、墓石が伝えたい記憶を、書かれた文字とともに、消し去ろうとしている。墓碑とつながる人々も、死に絶えようとしている。日露戦争ともなると、生きた記憶は、限界に達しようとしている。墓石は、自らが担ってきた役割を、これから引き継ぐ人間を求めている。
●墓石が語るもの
それは、不条理な死という事実である。将兵は、ほとんでが20代前半の若者である。死の状況を調べれば調べるほど、胸に迫る。もっとも人生が輝かしく思えるその時期に、命を絶っていった。それを繰り返すことは、許されないという思いである。
●失われる記録
陸軍墓地は、大津市と高齢化していくボランティアのみなさんの力で、保持はされている。だが、その声を代弁する役割を、われわれはまだ果たしていない。毎年行われる慰霊祭では、参加する人々は十数人になっている。
民間墓地の墓石は、すでにいくつかが無縁塚に移され、記憶を読むことが困難になっている。実際上、その存在が見捨てられようとしている。
それらは、個人のものであるが、国の過ちによって、失われた大切な命の記録であることには、変わりはないのだ。
●私の目標
体系的でなくても、過去の戦争の記録・記憶を見つけたら、共有できるものとして、残していきたい。それらは、私が個人で所有するものではない。そのつもりで、ブログでアップしているのだ。
①民間墓地で見つけたものは、遺族に配慮しながら、記録しつづける
②陸軍墓地は、その成り立ちなどを明らかにして、市民的財産にできるようにする。保存にも配慮する。
●当面の作業
①民間墓地で私が見つけたもののすべてをまだアップしていない。解読しながら、放置すれば、忘れてしまうものまである。だから、これは、はやく共有できるようにしたい。
②陸軍墓地については、
その1 BとEブロックについては、歿年月日と場所、階級などの一覧表をつくる。死亡原因については、病死でほぼまちがいないだろう。
その2 Fブロックは、11月中ごろまでに解読を終えたい。
その3 KとLブロック。移設前と後の照合リストをつくる。かなり手間なので、これは、11月24日以降になってもやむをえない。墓碑の解読は一番時間がかかるところ。ましてや、その意味などは、その先のこと。
その4 A、C、Dについては、階級と没年の一覧表をつくるまでは作業をする。
その5 Mについては、11月24日以降。
調査といえるほどのものでもないけれど。
●墓石が存在することの意味
将兵の墓石は、存在そのものによって、時を止め、過去を動かぬ現実としてわれわれの目の前に突きつける。だが、風雪は、石をも砕き、墓石が伝えたい記憶を、書かれた文字とともに、消し去ろうとしている。墓碑とつながる人々も、死に絶えようとしている。日露戦争ともなると、生きた記憶は、限界に達しようとしている。墓石は、自らが担ってきた役割を、これから引き継ぐ人間を求めている。
●墓石が語るもの
それは、不条理な死という事実である。将兵は、ほとんでが20代前半の若者である。死の状況を調べれば調べるほど、胸に迫る。もっとも人生が輝かしく思えるその時期に、命を絶っていった。それを繰り返すことは、許されないという思いである。
●失われる記録
陸軍墓地は、大津市と高齢化していくボランティアのみなさんの力で、保持はされている。だが、その声を代弁する役割を、われわれはまだ果たしていない。毎年行われる慰霊祭では、参加する人々は十数人になっている。
民間墓地の墓石は、すでにいくつかが無縁塚に移され、記憶を読むことが困難になっている。実際上、その存在が見捨てられようとしている。
それらは、個人のものであるが、国の過ちによって、失われた大切な命の記録であることには、変わりはないのだ。
●私の目標
体系的でなくても、過去の戦争の記録・記憶を見つけたら、共有できるものとして、残していきたい。それらは、私が個人で所有するものではない。そのつもりで、ブログでアップしているのだ。
①民間墓地で見つけたものは、遺族に配慮しながら、記録しつづける
②陸軍墓地は、その成り立ちなどを明らかにして、市民的財産にできるようにする。保存にも配慮する。
●当面の作業
①民間墓地で私が見つけたもののすべてをまだアップしていない。解読しながら、放置すれば、忘れてしまうものまである。だから、これは、はやく共有できるようにしたい。
②陸軍墓地については、
その1 BとEブロックについては、歿年月日と場所、階級などの一覧表をつくる。死亡原因については、病死でほぼまちがいないだろう。
その2 Fブロックは、11月中ごろまでに解読を終えたい。
その3 KとLブロック。移設前と後の照合リストをつくる。かなり手間なので、これは、11月24日以降になってもやむをえない。墓碑の解読は一番時間がかかるところ。ましてや、その意味などは、その先のこと。
その4 A、C、Dについては、階級と没年の一覧表をつくるまでは作業をする。
その5 Mについては、11月24日以降。
コメント
_ JINBA ― 2007年10月25日 17時21分07秒
_ BIN★ ― 2007年10月25日 22時40分08秒
そうです。立場うんぬんではないのです。基本は、事実をはっきりさせることです。それを、どう考えるかは、受け止める人の問題です。私は、事実が闇に消えていくことはいけないことだと思うのです。
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/25/1870934/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
立場はどうあれ、基本は調査と記録が大前提、ですよね。