お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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旧大津陸軍墓地でバイパス工事で失われた下段を再現する作業2007/10/27

めんどうでも手をつけなくてはならないのは、
失われた下段の再現。

●バイパス工事によって失われた原状

 1976年以前は、旧大津陸軍墓地は、上段、中段、下段となっていた。下段が、バイパス工事のために、中段に西の谷を埋めて、拡張して、そこに237基の墓碑を移設した。全体で559基だから、かなりの部分である。

●原状を記録した資料の存在

 移設前の墓石の配置図と階級・名前を記した資料は見つけた。
問題は、それぞれの墓石が、いま、新しい墓地のどこにあるのかが、わからないことなのだ。
 下段は、一定のオーダーによって、配置されていた。
 中段との境目の上手から、坂の下手にむかって、順番に墓石が置かれていった様子がわかる。しかも、右から左へのオーダーも見受けられる。
 現状のままだったら、年代ごとにたどろうとすれば、坂の上から下へ見てゆけば、いいのだが、もはやその姿は失われている。
 いまは、KブロックとLブロックと名づけた二つのブロックに整然と並べられている。

●再現とは、対照表をつくる作業のこと

 つまり、再現するためには、対照表が必要なのだ。

 仕事を持ちながらのボランティア作業なので、段取りを決めなくてはうまくいかない。そこで、方法を考える。

①移設作業のためにつくられた資料のナンバーをそのまま採用する

 このナンバーは年代順とかいうオーダーにしたがっていない。とにかく、便宜的につけられてる。墓碑の配置図と一体になっている便利さがあるので、そのまま使うことにする。

 移設前
 下段は、真ん中の道をはさんで、東と西に分かれている。
 「下段西」とか、「下段東」と呼ばれている。
 この配置図さえ手にしておれば、
 「下段西120」とかいうように特定できるのだ。

 移設後
 移設後の配置図もある。
 番号もふられている。
 両者の対照表もあるはずだと思うのだが、
 作業しかけたまま、中途半端に終わっている。

②Kブロックから手をつける

 移設後のKブロックの番号順に、墓石名を読み、それを移設前と見比べて、対照表をたんねんにつくる。
 退屈な作業なので、一日、すこしづつでよい。無理をしない。
 したがって、11月24日の見学会に間に合わなくてもよい。

③ひとつひとつの墓石をブログでアップしながらの作業

 ブログを読む人には迷惑だろうが、一柱づつアップしながら、記録をつける。観察記録にもなるだろう。
 バイパス工事による移設用の資料には、墓碑銘の誤りもある。これを正すには、あせらず、ひとつづつ見ていく方法がいいだろう。

④結果の表記

 Kブロックは、1から139まで。Lブロックは140から237まで。
 特定するには、Kとか、Lとかつける必要はないが、どっちにあるかわかりやすいので、K25とか、L154というように(墓碑には失礼だが)呼ぶようにする。そして、その結果は、以下のようにメモしておく。

 K1 = 下段西1

バイパス工事後の移設箇所にふられた連番(KとLブロック)2007/10/27

バイパス工事によって新設された墓地の墓石連番表(大津市作成)
旧大津陸軍墓地で、バイパス工事のために
谷を埋め立て、中段を西方向に拡張して、
新設された墓地。
上が山手、下が琵琶湖側である。
左が東、右が西。

図を見たとおり、
ふたつのブロックに分かれている。

私は、左のものを、Kブロック
右のものを、Lブロックと呼ぶことにした。

Kブロックの写真は、この前の記事にある。

この表の連番を、移設前と対照表をつくるために、
そのまま利用することにした。

連番は、ふたつのブロックにまたがって
ふられているが、どっちにあるかわかりやすいので、
K120とか、L221とかいうように呼ぶようにしたい。

旧大津陸軍墓地で新設されたKブロックとLブロック2007/10/27

旧大津陸軍墓地に1976年に新設された
のが、KとLブロック。

大津市が作成した図とは
向きが逆だけれど、
左がL、右がM。

形状がちがうので、わかると思います。

旧大津陸軍墓地Kブロックの形状と連番2007/10/27

旧大津陸軍墓地Kブロックの形状と連番
上の写真がKブロック。
右手が正面。
番号は、最前列の左から右に振られている。

つまり、写真で見て一番近い墓石が、1番。

最前列は、1~17
二列目は、18~34
三列目は、35~51
四列目は、52~68
五列目は、69~85
六列目は、86~102
七列目は、103~116
八列目は、117~130
最後列は、131~139

バイパス工事のための資料が出てくる前に、
私がつけようとして連番は廃棄することにする。

旧大津陸軍墓地 Lブロックの形状と連番2007/10/27

旧大津陸軍墓地 Lブロックの形状と連番
これがLブロックの写真。
正面は右手。

一番手前が、140番である。

あとは、大津市が作った図を
みていただければわかります。

K1墓石@旧大津陸軍墓地⇔下段西側12007/10/27

「故陸軍歩兵一等卒青山喜代治之墓」
旧大津陸軍墓地・下段の原状再現プロジェクト

http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/27/1873519

試行錯誤をするほかないので、まずは、K1から。
Kブロックも、Lブロックも正面には、参拝台が設けられている。
そこから見ると、一番前の列の一番左ということになる。

墓石から読み取れるのは、
「故陸軍歩兵一等卒青山喜代治之墓」

大津市作成の名簿から見ると、
移設前は、
下段西側の1にあたる。

下段西側の図はこれ↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/07/1840480
この図↑は、上が下手(琵琶湖側)、下が上手(山手側)。
つまり、一番坂の下手である。
墓石は、旧い順に、山手から下に向かって
順番に葬られていったと思われる。
(墓地の成り立ちを基準に図をつくればいいものを!!)

大津市の名簿には、一般的に、
階級名と氏名が記されている。
だが、この墓石については、階級名の記載がない。
おまけに、「治」という字が○で囲んである。
なぜに?
○は読み取れなかったという意味。
文字が入っているのは、推測か?
しかし、写真で見るように、まだ容易に読み取れる。
墓石が新しくなった?
そのようには、見えないのだが。

没年は、名簿では、「大正10年11月」とある。

全237柱なので、あと236。

K2墓石@旧大津陸軍墓地⇔下段西側22007/10/27

「陸軍歩兵一等兵青山○之助之墓」
旧大津陸軍墓地・下段の原状再現プロジェクト。

http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/27/1873519

K2は、前列左から2番目。

「故陸軍歩兵一等兵青山○之助之墓」
○の中身は、「鉄」ではないかと
大津市の名簿作成者は推察している。
私の目には、すこし違うように見える。

これは、下段西側の2。

没年は、名簿では「大正11年1月」。

●一等兵と一等卒

昭和6年11月10日、陸軍は兵科で使われていた「卒」を「兵」とした。

http://www003.upp.so-net.ne.jp/kataritsugu/army.htm

ところで、これは大正11年1月の没年となっている。
となると、「一等卒」ではないのか?

再現すべきは全237柱、あと235柱。

K3墓石@旧大津陸軍墓地⇔下段西側32007/10/27

「故陸軍上等兵青山捨吉之墓」
旧大津陸軍墓地・下段の原状再現プロジェクト。

http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/27/1873519

K3の墓碑。
「故陸軍上等兵青山捨吉之墓」

大津市が作成した名簿には、
陸軍歩兵二等卒となっている。
墓碑銘とは、ずいぶんちがう。
墓碑が変わっていないかぎり、誤記。

これも、下段西にある。

大正11年2月歿。

再現すべきは237柱。残りは234柱。

K4墓石@旧大津陸軍墓地⇔下段西側42007/10/27

「故陸軍歩兵二等卒 瀬戸喜蔵之墓」
旧大津陸軍墓地・下段237柱の原状再現プロジェクト。

http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/27/1873519

Kブロックの4番目の柱をチェックする。
墓碑銘は、
「故陸軍歩兵二等卒 瀬戸喜蔵之墓」

これも、下段西側にあった墓石である。
K1からK4まで順番に下段西側1から4に対応。

没年は、「大正13年4月」と名簿にある。
名簿を見る限り、もっとも新しい墓石ということになる。

位置の確認は、あと233柱。

最前列K1からK17までは下段西側1から17に照応@旧大津陸軍墓地2007/10/27

正面から見た旧大津陸軍墓地 Kブロック
旧大津陸軍墓地の
下段再現プロジェクト(と勝手に名づけて)を作業中。

●照応関係は単純?

K1から4まで検証してきて、
照応関係が単純かも知れないと思った。
そこで、一気に最前列をチェックしてみたら、
K1からK17まですべて
西側1から17に照応していることがわかった。

もちろん、なかには名前などで誤記と思われるもの、
階級がちがうと思われるものなどがある。
それはそれとして、いま問題は配列。
これに特化してチェックすると効果的かも知れない。

●列ごとのチェックにかえる

そこで、1から17のつぎは、
18から34まで一気にチェックして
その結果をブログにアップするという
ことで、メモをつくることに切り替えよう。

上の写真は、正面から、Kブロックを見たところ。
手前左から、K1、K2、K3と名づけている。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)