お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

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『日露戦争下の日本 ハーグ条約の命ずるままにロシア軍人捕虜の妻の日記』(エリザ・Я・シドモア)2007/10/29

『日露戦争下の日本』
 インターネット上で、松山市に日露戦争のロシア人捕虜たちが多数収容されていたことを知りました。それほど、私は、この戦争に無知だったといえます。ロシア語科出身でもあり、近所に、「露国皇太子遭難の碑」が建っているわけですから、もう少し詳しくてもいいはずなんですが。
 それはともかく、ロシア人捕虜の妻の立場から書かれたものは、それだけでも読んでみたいと思いました。

 この本を偶然本屋で見つけて、買いました。

『日露戦争下の日本』(新人物往来社2005年)
副題が、
「ハーグ条約の命ずるままに
 ロシア軍人捕虜の妻の日記」

 本の帯には、訳者のまえがきからの引用があります。
それは、この本への導入としては、いいんじゃないかと思います。

『日露戦争のさなか、出征したひとりのロシア人外交官が、中国東北地方で重傷を負い捕虜となって四国・松山へ送られた。その通知を受けた夫人が、夫の看病のためにヨーロッパ経由で交戦中の日本に渡った。夫婦は終戦後の1905年12月に松山を去るが、彼女がロシアを出発して以来の約一年半の出来事を日記風にまとめたのが、この物語である。』

なにか、19世紀のデカブリストの妻を思い出します。
ロシア最初の革命運動といわれたデカブリストの反乱。それを行った将校の妻は、シベリア流刑となった夫のもとへ旅をするのです。

流し読みをしましたが、とても、興味深いです。

コメント

_ sadakun_d ― 2007年12月30日 08時06分28秒

ロシア語に堪能だとは尊敬します。外大が阪大に吸収合併とは知らなかった。「非常階段」も阪大なんだ。

松山収容所のエピソードは有名ですね。なんとなく精力ある夫人(英国人だけど)

他にもあった捕虜収容所は異国文化華やかなりとなって様々に紹介されています。

ドイツ人からはサッカーとバームクーヘン。交響楽団が伝わるとか。

_ sadakun_d2 ― 2007年12月31日 01時20分38秒

ちょっと訂正。

ソフィア・フォン・タイル著「ロシア軍人捕虜の妻の日記」と間違ってしまいました。

日露戦争の捕虜は日本各地で様々なエピソードを残しています。九州対馬沖ではバルチック艦から漂着したロシア兵をもてなしたとかもある。

大日本帝国は強く対外的に余裕があった証拠。

_ BIN★ ― 2008年01月04日 10時25分26秒

コメントありがとうございます。
ロシア人捕虜について史実は、知られないままになっていますね。先日、大阪大正区のドイツ人捕虜の実態についての報告を聞く機会がありましたが、埋もれた史実が多数あることにあらためて気がつきます。
ステレオタイプ的に歴史をみず、新鮮な目で見直すところはいたるところにあると感じました。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)