お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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『戦争で死ぬ、ということ』島本慈子著2007/10/30

島本慈子『戦争で死ぬ、ということ』(岩波新書)
もう一冊は、この本。
つい数時間前に買ったばかりですが。
島本慈子『戦争で死ぬ、ということ』(岩波新書)

よく知られた本だと思います。

「はじめに」を読んだとき、こころにストレートに響くものがありました。

『これはかつての戦争を総括しようとした本ではない。またかつての戦争について、未公開の新資料をさがそうとした本でもない。
 私は戦後生まれの自分の感性だけを羅針盤として文献と証言の海を泳ぎ、自分自身が「これは戦争のエキスだ」と感じたことを読者にも提示しようと、思った。私は戦後生まれの目で、戦後生まれにも通じる言葉で、戦争のエキスを語りなおしたかった。
 何のために?それは日本のこれからを考えるときの判断材料として。過去の事実のなかに、未来を開く鍵があると思うから。
 誰のために?それは私と同じく、戦争を知らない人々のために。』

それぞれの章に刻まれた消しがたい戦争のエキスに圧倒される思いです。

 戦争に向かいあうとは、国家から強制された無残な死に向かい合うことであるのです。

どう生きたかではなく、どう死んだかが刻まれる戦死者の墓碑2007/10/30

手榴弾の破片で戦死した陸軍歩兵上等兵の墓石
 戦死者は、同じ家族でありながら、英霊であるために、ひとつの墓石に入ることができません。このため、階級名をつけて別の墓石として葬られていることを知りました。
 その墓碑を読むと、兵士として、どう死んだのかが記されています。
 この人の消息を伝える唯一の伝聞。それを墓石に刻んだのだと思います。

「昭和十三年九月二十日中支那安徽省東流県宗佛山ノ戦闘ニ於テ手榴弾被片創ニ依リ同月二十九日陣没ス」
 
手榴弾ですから、至近距離の白兵戦なのでしょうか。爆発する近くにいて、破片で負傷して、9日間苦しみながら異土で亡くなったのです。

短い墓碑から、生々しさが伝わってきます。

りっぱな墓石は、家族の無念を表しているようです。

(小関越の墓地にて)

戦死場所さえ特定できない二十歳の兵士の墓碑2007/10/30

二十歳で「南方方面」で戦死した兵士の墓碑
自分の息子の生きた証が墓石というのは、悲しい現実です。
その証も、戦死した場所さえ不明なのです。
その横に刻まれた「行年二十才」の文字が強くなにかを訴えているように感じました。

「昭和二十年一月二十八日南方方面に於て戦死
 行年二十才」

(岡山墓地にて)

これが、セキヤノアキチョウジ2007/10/30

やりなおします。
これが、セキノアキチョウジ。

トリさん専用のウリ2007/10/30

高い木につるが巻いていて、
そこに、ウリ(名前知りません)が、
なっています。
熟したものもありますね。
とても、人が届く高さにはありません。

きっと、トリさんのランチになるんでしょうね。

どの花びらも上で、どの花びらも下2007/10/30

だまし絵ってありますね。
階段があり、上っていくと、
いつのまにか降りている・・・。
目の錯覚。

この見事な花を眺めていると、
どの花びらも、左の花びらよりも
上にあります。
でも、どの花びらも、右の花びらの
下にある。

そこから、だまし絵を連想したのです。

バイパス工事による改葬の結果、どうなったか(中間まとめ)@旧大津陸軍墓地2007/10/30

 1976年に改葬された237柱の墓石が、かつてはどこに位置していたのかという問題は、解決した。
 サイトで、ヴァーチャル再現はできそうだ。

おおまかに言えば、

① 下段西側は、Kブロック(5柱が東側から)
② 下段東側は、Lブロック(1柱が西側から)
③ 下段に振った連番の順番に前列から後列へ
   移動した
④ その結果、だいたいにおいて、
  前列が新しく、後列が旧いという並びに
  なった。

といえるだろう。

最初は、グー2007/10/30

パルコの近くのお店の前に、
丸くて大きな葉をつけた植物が
花壇に植わっています。

茎の先に、この緑の塊。

最初はグー・・・。

そして・・・チョキ2007/10/30

三日後に行ったら、この形でした。

チョキですね、きっと。

つぎが楽しみ。

どうやら、花が咲くようです。

さあ、夜の会議に行ってきます!

Fブロックの墓石に連番をふる@旧大津陸軍墓地2007/10/30

 大津市が1970年代につけた連番は、一貫性がないので、自分でつくることにした。墓碑が正面を向いているところを基準にします。

30 31 32 33 34 35 36 37
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これでいくことにします。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)