お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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ムクドリだと思われ・・・2007/11/06

電柱ちかくの電線に、数えたら10羽以上いました。この写真の左にも4羽います。

まだつぼみ2007/11/06

あいにくの曇天。花もどこか淋しい。

これが満開・・・かな2007/11/06

「花(華)がある」とかいうように、満開になると、曇天も気にならない。

黄色い花・・・・ふさのようなめしべ(おしべ)?2007/11/06

相変わらず、名前がわからない。それでも、気にせずにいろいろ撮影。これは、花の真ん中がまるい房のよう。

ほとんど名前がわからないけれど、花の多様性が興味深い2007/11/06

たいていのブログは、情報を発信する側。
私のブログは発信するどころか、教えてもらうことの方が多い。
情報受け取りブログ・・・かな。
そういうブログもありかも(と私は勝手に)思っている。
ところで
今日これまでにアップした花の名前わかりますか?
わかる方コメントよろしく。

「愛」が刻まれた墓石は3基あります@旧大津陸軍墓地2007/11/06

 陸軍墓地に、十字架と「愛」の文字が刻まれた墓石が三つあるのに、気がつきました。一気に撮影した写真でチェックしているのとちがい、その都度、気になる墓石に、行きつ戻りつしていることが、こういう発見につながるのだと思います。
やはり、現場にいくのは大切ですね。
 順番にアップしてみますが、これは、前にも紹介した方の墓碑です。

●「愛(一文字読めません)衆徳乃帯也」

この文字がはっきり読めます。
一字だけ私には、読めません。

●情報求む!

このような墓碑が他の陸軍墓地にはないと聞きました。
なにか情報を盛ってらっしゃる方、連絡をお願いします。
ちなみにこの方の階級は、「故陸軍砲兵曹長」
「大正7年11月7日歿」
以前アップしたのは下の日記。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/01/1832088

「愛」が刻まれた墓石その2@旧大津陸軍墓地2007/11/06

さっきの墓石とおなじエリアに、しかも隣にある墓石。
 そこにも、「愛」の文字が見えます。(上の写真)
「愛知県」とか、「愛知郡」とかいう可能性もあります。

いかがですか?

「愛」の下の文字が読める方、コメントください。

「愛」の文字が刻まれた墓石その3@旧大津陸軍墓地2007/11/06

「愛」が刻まれた墓石の三つ目は、これです。
「愛」って読めますよね
一般(民間)墓地なら、
問題はないと思うのですが、
大日本帝国の陸軍墓地に、
「愛」(キリスト教的なことば)が刻まれた
墓碑があるのが驚きなのです。

旧陸軍墓地に見る親子の絆 : 村治重厚・昭父子@旧大津陸軍墓地2007/11/06

旧大津陸軍墓地の将校の墓地(上段)には、家族の絆を感じさせる墓碑が数組あります。以前、第代連隊長の草場彦輔少将の妻と子の墓碑が同じ段にあることは紹介しました。

●村治父子

膳所藩主の本多家の墓碑があるお寺を訪問したときに、「村治」という苗字があったことが気になっていました。旧大津陸軍墓地に眠る二人の方と関係があると思われたからです。

父は、「村治重厚」=陸軍二等軍医正。
没年は大正5年12月21日。
享年72歳でした。

子は、「村治昭」=陸軍歩兵少尉。重厚の二子。
明治38年8月31日、日露戦争で戦死。
享年31歳。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/18/1858729

●二人の墓石

ともに同じ上段にあります。

写真では、一番左が父重厚の墓碑。
その隣の大きな墓石が井戸順行陸軍歩兵中佐。
灯篭に隠れかけているのが、第二子昭の墓碑。

陸軍墓地に見る家族の絆 : 伏木徳太郎・敏子・胤子・孤敏子 その1 @旧大津陸軍墓地2007/11/06

陸軍歩兵大尉の伏木徳太郎の墓碑:伏木敏子建立の文字がある
旧大津陸軍墓地には、乃木大将の第三軍に配属され、旅順要塞攻撃で戦死した将校の墓碑がいくつか並んでいます。その一つが、伏木徳太郎陸軍歩兵大尉の墓碑。↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/18/1859216

●伏木徳太郎とめぐる女性の名前が3つ刻まれています

旧大津陸軍墓地には、伏木徳太郎に縁がある3名の女性の名前が、墓碑に刻まれています。
その一つは、徳太郎の墓碑。
横には、「敏子」という名前が見えます。
母・・・でしょうか?
戦死したときには、すでに父がいなかったということなのでしょうか?
妻でも、娘でもないことは、まもなくわかりました。
それをつぎにお目にかけます。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)