お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


Google
WWW を検索 このブログ内を検索

内務省へ戦死者埋葬地所買入協議(陸軍省 明治10年11月9日)2007/11/13

十一月九日 土二千十九号 別紙二第千九百壱五号書面之通リ鹿児島県ヨリ伺出候処右ハ独リ同県下耳ナラス未タ調査ハ不相整候得共無論九県各県内同一轍之地種有之夫々当省ニテ買収需用候時ハ後年却テ錯雑不少加之御省警視局被官戦死者等之埋填地入混シ居候所も有之哉ニ被考候付旁去ル壬辰癸巳之際従軍戦死者埋葬所ノ如ク各地方官ニテ管理猶民有地買上之義御省之御手数ニ帰シ候義ニ者無之哉何分

第278号(陸軍省 明治9年1月から10年3月)2007/11/13

工第二百七十八号
陸第百号
昨八年七月三十一日第三十一号陸軍埋葬地取設旁御達ニ基キ大津営所附埋葬地別紙図面朱線内者御加入定相成度尤滋賀県照会別冊之通国郡村及該地之番号地主地価等其他植物引払料共取調実測四葉相添此段相伺候也
工兵第四方面提理代理
陸軍少佐西田明則代理 陸軍大尉 門田正寿
明治九年一月八日 陸軍卿山県有朋
追テ本文之儀大阪鎮台協議相済候間此段申進候也 伺之趣内務省へ及照会置候条追而何分之時可相達候事
十年三月二十二日
近江国滋賀郡山上村畑山地反別其外取調帳
滋賀県 茅壱番 字部屋ケ谷

●これが起源か?

 これが、旧大津陸軍墓地の起源を示す文書かも知れない。C04027387600

資料の漢文がまともに読めない・・・・2007/11/13

愚痴

 アジア歴史資料センターがネット上で公開している資料は、とてもありがたいものです。
検索のコツもわかりだすと、やめられません。

しかし、ここに問題あり。

第一に、旧い文書は漢文調。たとえ、テキストとなっていても、詰めの部分で意味がよくわからないのです。

第二に、原資料。写真になっていて、感動モノなのですが、草書体は、私には歯が立ちません。

 なんとか、旧大津陸軍墓地の起源に迫ることができたと思っていますが、最後のツメが・・・こういう問題があって、できない気がします。

残念です。すこし悔しい・・・。

内務省へ近江滋賀郡山上村民有地の内受領致度照会(陸軍省 明治10年3月)2007/11/13

明治十年三月十三日 @@一等出仕中村助三@ 提理陸軍中佐品川@@@代理 十三等出仕上@雄吉 土第四百三十七号 @千六百九十九坪当省ニテ@埋葬地トシテ受領@ニ於テ@@地図相添此段及御照会候也

内務へ大津に而埋葬地として買収云々(陸軍省 明治10年5月17日)2007/11/13

別封一通熊本軍台本営ヨリ長崎県ヲ経京都府エ継送之処既ニ出発相成候旨ヲ以テ届方同府ヨリ申出候条即チ御廻シ申候付御領収有之度候也
十年五月十七日 陸軍少佐児島益謙
開拓書記官 御中
土八百〇五号
滋賀県下大津山上村民有地買収同営所附属埋葬地トシテ受領致度ニ付過般及御照会候処総積之内三十七坪五合之ヶ所官民之区分不判然云々ニ付去ル三月二十九日附御照会之趣致承知候右者民有之山地ニ而従前之侭ニ差置取塵メ通行不差支旨滋賀県ヲ経テ地主示談行届居候段申出候付右之買上ニ可致面積者千六百六十一坪五合ニ有之候間右様御了承

旧大津陸軍墓地の形成についてのメモ2007/11/13

これまでわかったこと、考えられることをメモする
 いくつかの旧陸軍省の文書を読むと、旧大津陸軍墓地が、領域を広げながら、形成されていったことをうかがわせる。

●創設の事情について

 旧大津陸軍墓地の出発点は、大阪鎮台第九管第九連隊のために、大津営所ができたことにある。
 第九連隊は、明治7(1874)年5月、大阪鎮台第5大隊を第一大隊に改組し、徴兵をもって第二大隊にして、成立した。だが、この時点で、大津営所の工事は完成していなかった。
大津営所に、第九連隊が移動してきたのは、明治8(1875)年3月8日である。
 そこから、練兵が始まる。激しい訓練の結果、兵士がなくなる。そこで、埋葬所が必要となる。
 ちなみに、現在の旧大津陸軍墓地で見ると、明治8(1875)年7月15日に亡くなっている兵(舘源左衛門)の墓碑がある。同月22日に、喜多圭三郎。
  そういうことを背景にして、明治8(1875)年7月31日第三十一号陸軍埋葬地取設旁御達」が出されて建設プロジェクトが開始される。

●当初の名称について

 旧大津陸軍墓地の当初の名称は、「大津営所附埋葬地」。
 明治9年1月8日付けの文書を見れば、すでに図面が出来ていて、買収作業に入っていることがわかる。
 滋賀県当局からは、明治8(1875)年12月28日付けで詳しい所有者と地価が掲載されている文書が提出されている。そこには、「部屋が谷」という地名が入っている。これこそ、旧陸軍墓地のあるところの名称である。

●買収作業など

現在の旧大津陸軍墓地は、民有地と官有地が交じり合っていた土地であったらしい。土地関係について、内務省に陸軍省が報告している文書が存在する。日付は、明治10年5月17日
 ところで、民間地は買収し、官有地は内務省に願い出ることになるのだろう。この買収作業は、いつ終わるのか。明治10(1877)年の夏ごろまでの文書はあるが、それ以降はない。ということは、秋には買収は終わったのだと思われる。

●建設について

 建設作業の開始とか完成などについての文書はさしあたり見当たらない。

●西南戦争の時期

 この埋葬地の建設計画が進んでいたのは、明治政府が軍事的に最大の危機に直面している頃である。つまり、新神連の乱、萩の乱、そして西南戦争。
 これとの関係はどうなのだろうか。
 ちなみに、西南戦争が始まる明治10(1877)年2月までに死亡した第九連隊の下士官と兵士で、旧大津陸軍墓地に葬られているのは、36柱だと思われる。

●西南戦争の戦死者441名はどこに葬られいるか?

 旧大津陸軍墓地には、西南戦争で戦死した下士官と兵の墓碑はない。それらは、戦場にちかい九州の官営墓地に眠っているはずである。また、鹿児島から引き上げ後、コレラなどで大阪臨時陸軍病院で亡くなった病死者は、真田山墓地に眠っている。
 大津市の三井寺観音堂の御幸山には、合葬碑である「紀念碑」が明治11(1878)年に建設された。

●増設とその事情について

 墓地の増設は、明治30(1896)年に行われている。明治30年6月の文書あり。そこでは、単に「大津埋葬地」と呼ばれている。増設は、日清戦争と台湾征服戦争にかかわりがあるのかも知れない。ところで、明治15年の文書もあるが、これは、内容を確認することにしよう。

******以上まだ書きかけである******

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)