お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「パー」の答えは、これでした ― 2007/11/14
アメーバのようなガクの花です ― 2007/11/14
アメーバのようなガクをもつ花にしては・・・清楚? ― 2007/11/14
全体は、このようにタテナガです。 ― 2007/11/14
全体を写したほうが、どんな花か、
わかりやすいと思います。
相当高いですよ、これ。
わかりやすいと思います。
相当高いですよ、これ。
ユリカモメ(?)が、一点めがけて降りてきました ― 2007/11/14
ハトに似ていますが、赤い水かきがありますね。 ― 2007/11/14
ユリカゴメらしいトリの飛ぶ姿です。 ― 2007/11/14
東京府より夫卒等戦場等に於て非常の死を遂たる節埋葬並妻子養料等の問合(明治5年2月) ― 2007/11/14
本病へ村治軍医履歴書云々達(西郷大輔 明治8年3月14日) ― 2007/11/14
書目之内朱点相加候五品之分ニ照無之書類無之決算上差支候条至急参謀局ヘ可差出候此旨相達候事
三月十四日 西郷大輔
山田少将殿
第五百二十四号
追而改暦書差出候軍医村治重厚様六年十二月十二日京都府病院詰申付候事トノミ有之何より被申付候
C04026377900
アジア歴史資料センターのサイトで
調査中に、偶然見つけた書類。
旧大津陸軍墓地に墓碑がある
村治重厚軍医の
名前が出てきている。
そういう文書があるのは
当然かも知れないが、
見つかるとうれしいものだ。
三月十四日 西郷大輔
山田少将殿
第五百二十四号
追而改暦書差出候軍医村治重厚様六年十二月十二日京都府病院詰申付候事トノミ有之何より被申付候
C04026377900
アジア歴史資料センターのサイトで
調査中に、偶然見つけた書類。
旧大津陸軍墓地に墓碑がある
村治重厚軍医の
名前が出てきている。
そういう文書があるのは
当然かも知れないが、
見つかるとうれしいものだ。
西南戦争の最中の附属埋葬地建設ゴーサイン? ― 2007/11/14
●西南戦争への動員
明治10(1877)年2月14日に鹿児島士族が乱を起こし、同19日に鹿児島賊徒征伐の詔が明治天皇から下ります。大津営所の第九連隊は、第二次召集されて戦地に向かいます。第一連隊と第二連隊が博多に到着したのは、3月1日でした。
第九連隊・第一大隊 →第二旅団
第九連隊・第二大隊 →第一旅団
第九連隊・第三大隊・第一中隊→第四旅団
第九連隊・第三大隊・第二中隊→大津営所で留守番
第九連隊・第三大隊・第三中隊→第三旅団
第九連隊・第三大隊・第四中隊→第三旅団
動員された兵数でいくと、
第一大隊が686人
第二大隊が639人
第三大隊が625人
西南戦争そのものは、9月24日に終わります。
●西南戦争での第九連隊の戦死者数
政府軍の戦死者は、6,843人。このうち、第九連隊は、441人です。このうち、滋賀県出身は、220人。
しかし、戦死をまぬがれ、凱旋して戻ってきた兵士は、全員無事で大津営所に戻ったわけではありません。コレラなどの病気による死が待っていたのです。
もとの営所へ帰着することなく、大阪陸軍臨時病院で亡くなった兵士の墓碑が、旧真田山陸軍墓地に923柱あります。
このうち、第九連隊の兵士の墓碑は、以下のとおりです。
第一大隊13柱
第二大隊15柱
第三大隊10柱。
以上合計38柱。
●凱旋
凱旋は、明治10(1877)年10月1日だったそうです。
●内務省のゴーサイン
どういう手続きで建設ゴーサインがでるのか、わかりません。最終的には、内務省が決定することだと思います。
この点でいけば、、「内務より大津営所埋葬地に付回答」(明治10年6月18日)や同年7月の文書がそれに相当するのではないでしょうか?
となると、明治8年12月あたりから建設準備がはじまりますから、ずいぶん長引いている気がします。いよいよ買収の段階に入るのが、10年3月22日付けの滋賀県の文書。そして、「大津営所附属埋葬地」をめぐるもっとも頻繁なやりとりは、10年5月のように見えます。これは、まさに西南戦争の最中ということになりますね。
●西南戦争の戦死者の埋葬について
明治8年以降の「大津営所附埋葬所」が念頭においていたのは、訓練中に、大津営所で死亡(病死)した兵・下士官の埋葬地だと思います。西南戦争は、上記のように、第九連隊だけで441人の戦死者を出しました。さらに、大阪陸軍臨時病院でコレラで亡くなった兵もいます。それらの兵のなきがらを、大津まで困難です。こういう事情は、第九連隊だけではないのです。そこで、問い合わせがあり、指針がでます。それが、「内務省へ戦死者埋葬地所買入協議」(明治10年11月9日) なんでしょうね。
明治10(1877)年2月14日に鹿児島士族が乱を起こし、同19日に鹿児島賊徒征伐の詔が明治天皇から下ります。大津営所の第九連隊は、第二次召集されて戦地に向かいます。第一連隊と第二連隊が博多に到着したのは、3月1日でした。
第九連隊・第一大隊 →第二旅団
第九連隊・第二大隊 →第一旅団
第九連隊・第三大隊・第一中隊→第四旅団
第九連隊・第三大隊・第二中隊→大津営所で留守番
第九連隊・第三大隊・第三中隊→第三旅団
第九連隊・第三大隊・第四中隊→第三旅団
動員された兵数でいくと、
第一大隊が686人
第二大隊が639人
第三大隊が625人
西南戦争そのものは、9月24日に終わります。
●西南戦争での第九連隊の戦死者数
政府軍の戦死者は、6,843人。このうち、第九連隊は、441人です。このうち、滋賀県出身は、220人。
しかし、戦死をまぬがれ、凱旋して戻ってきた兵士は、全員無事で大津営所に戻ったわけではありません。コレラなどの病気による死が待っていたのです。
もとの営所へ帰着することなく、大阪陸軍臨時病院で亡くなった兵士の墓碑が、旧真田山陸軍墓地に923柱あります。
このうち、第九連隊の兵士の墓碑は、以下のとおりです。
第一大隊13柱
第二大隊15柱
第三大隊10柱。
以上合計38柱。
●凱旋
凱旋は、明治10(1877)年10月1日だったそうです。
●内務省のゴーサイン
どういう手続きで建設ゴーサインがでるのか、わかりません。最終的には、内務省が決定することだと思います。
この点でいけば、、「内務より大津営所埋葬地に付回答」(明治10年6月18日)や同年7月の文書がそれに相当するのではないでしょうか?
となると、明治8年12月あたりから建設準備がはじまりますから、ずいぶん長引いている気がします。いよいよ買収の段階に入るのが、10年3月22日付けの滋賀県の文書。そして、「大津営所附属埋葬地」をめぐるもっとも頻繁なやりとりは、10年5月のように見えます。これは、まさに西南戦争の最中ということになりますね。
●西南戦争の戦死者の埋葬について
明治8年以降の「大津営所附埋葬所」が念頭においていたのは、訓練中に、大津営所で死亡(病死)した兵・下士官の埋葬地だと思います。西南戦争は、上記のように、第九連隊だけで441人の戦死者を出しました。さらに、大阪陸軍臨時病院でコレラで亡くなった兵もいます。それらの兵のなきがらを、大津まで困難です。こういう事情は、第九連隊だけではないのです。そこで、問い合わせがあり、指針がでます。それが、「内務省へ戦死者埋葬地所買入協議」(明治10年11月9日) なんでしょうね。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント