
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
旧大津陸軍墓地Fブロックについて ― 2007/11/16
明治8(1875)年7月から明治10(1877)年までに亡くなった下士官・兵卒の墓碑があるのが、旧大津陸軍墓地のFブロック。明治11(1878)年に新設なった「大津営所附埋葬地」の”飛び地”として、その脇のガケに存在していたというのが私の推察。
明治30(1897)年以降では、埋葬地そのものの拡張によって、同化したと思われる。
いずれにしても、彦根の大洞陸軍埋葬地から移設した南保義一大尉以下5名の兵の墓碑を除くと、もっとも古い墓碑がここにある。
まずは、亡くなった人には失礼かもしれないが、ID番号をつけてみた。
●旧大津陸軍墓地FブロックのID表
BIN★作成。1976年に大津市がつけた番号とは異なっている。
Fブロックの下士官・兵の氏名と没年・享年
*以下作業中であり、データは随時補足します
明治30(1897)年以降では、埋葬地そのものの拡張によって、同化したと思われる。
いずれにしても、彦根の大洞陸軍埋葬地から移設した南保義一大尉以下5名の兵の墓碑を除くと、もっとも古い墓碑がここにある。
まずは、亡くなった人には失礼かもしれないが、ID番号をつけてみた。
●旧大津陸軍墓地FブロックのID表
BIN★作成。1976年に大津市がつけた番号とは異なっている。
Ⅰ | Ⅱ | Ⅲ | Ⅳ | Ⅴ | Ⅵ | Ⅶ | Ⅷ | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
⑤ | F30 | F31 | F32 | F33 | F34 | F35 | F36 | F37 |
④ | F22 | F23 | F24 | F25 | F26 | F27 | F28 | F29 |
③ | F14 | F15 | F16 | F17 | F18 | F19 | F20 | F21 |
② | F06 | F07 | F08 | F09 | F10 | F11 | F12 | F13 |
① | - | - | - | F01 | F02 | F03 | F04 | F05 |
Fブロックの下士官・兵の氏名と没年・享年
*以下作業中であり、データは随時補足します
ID | 階級名 | 氏名 | 没年月日 | 享年 |
---|---|---|---|---|
F01 | - | 柴田 久次郎 | 明治10年8月27日 | 25歳 |
F02 | 陸軍兵卒 | 藤井 六蔵 | 明治10年?月12日 | - |
F03 | - | 矢田 権助 | 明治10年1月9日 | 23歳 |
F04 | - | 伊藤 定次郎 | 明治9年11月12日 | - |
F05 | 川端 音次郎 | 明治9年11月2日 | - | |
F06 | - | 門田 清助 | 明治10年11月9日 | - |
F07 | - | 乾 福松 | 明治9年9月10日? | - |
F08 | 歩兵伍長 | 小林 利助 | ? | - |
F09 | - | 土屋 留太郎 | 明治9年9月13日 | - |
F10 | - | 細川 彌次郎 | 明治9年10月15日 | 23歳 |
F11 | (生兵) | 村田 良助 | 明治9年10月18日 | 21歳 |
F12 | - | 河合 與惣七 | 明治9年10月20日 | - |
F13 | - | 松井 佐七 | 明治9年11月1日 | - |
F14 | - | 藤本 仙太郎 | ? | - |
F15 | - | 松井 新次郎 | 明治8年12月 | - |
F16 | - | 松井 新次郎 | 明治10年4月15日 | - |
F17 | - | 野呂 金次郎 | 明治9年9月11日 | - |
F18 | - | 宮田 虎吉 | 明治9年8月16日 | - |
F19 | - | 瀧井 寅吉 | 明治9年8月16日 | - |
F20 | - | 寺村 新八 | 明治9年8月2日 | - |
F21 | - | 大谷 甚太郎 | 明治9年7月20日 | - |
F22 | - | 稲森 金太郎 | 明治9年6月? | - |
F23 | - | 永田 吉蔵 | 明治9年7月 | - |
F24 | - | 森口 四郎吉 | 明治9年6月25日 | - |
F25 | - | 森本 元次郎 | 明治9年7月7日 | - |
F26 | - | 西河 亀吉 | 明治9年6月6日 | - |
F27 | - | 植池 春松 | 明治9年5月11日 | - |
F28 | - | 松井 善一郎 | 明治9年5月30日 | - |
F29 | - | 八? 要助 | 明治9年1月 | - |
F30 | 陸軍兵卒 | 奥田 彌次郎 | 明治9年2月4日 | - |
F31 | 陸軍伍長 | 田中 米次郎 | 明治8年12月29日 | - |
F32 | - | 三浦 末吉 | 明治8年12月16日 | - |
F33 | - | 堀田 音吉 | 明治8年12月7日 | - |
F34 | 陸軍伍長 | 生田 高基 | 明治8年10月20日 | 19歳 |
F35 | - | 荒木 彌兵衛 | 明治8年8月29日 | - |
F36 | - | 喜多 圭三郎 | 明治8年7月12日 | - |
F37 | - | 舘 源左衛門 | 明治8年7月15日 | - |
旧大津陸軍墓地Eブロックのデータ(1~32/207) ― 2007/11/16
●旧大津陸軍墓地Eブロックの墓碑から、没年月日、場所
大津市がバイパス工事による移設の際、大津財務局に提出した資料の連番を、さしあたり、そのまま採用する。
ちなみに、墓石の正面に立って、手前から奥へ、右から左へ番号がふられている。
最前列は14柱、二番目から18柱が基本。
没年はほとんどが明治28(1895)年。まれに明治29(1896)年のものがある。
大津市がバイパス工事による移設の際、大津財務局に提出した資料の連番を、さしあたり、そのまま採用する。
ちなみに、墓石の正面に立って、手前から奥へ、右から左へ番号がふられている。
最前列は14柱、二番目から18柱が基本。
没年はほとんどが明治28(1895)年。まれに明治29(1896)年のものがある。
連番 | 死亡年月日 | 死亡場所 |
---|---|---|
1 | 明治28年 9月13日 | 柳樹屯 |
2 | 明治28年 9月12日 | 豼子窩 |
3 | 明治28年 9月 8日 | 折木城 |
4 | 明治28年 7月26日 | 海城 |
5 | 明治28年 7月 6日 | 小河沿 |
6 | 明治28年 4月25日 | 劉家店 |
7 | 明治28年11月 7日 | 営口 |
8 | 明治28年 8月21日 | 営口 |
9 | 明治28年 9月28日 | - |
10 | 明治28年 9月16日 | 折木城 |
11 | 明治28年 4月28日 | 劉家店 |
12 | 明治28年 7月 9日 | 大弧山 |
13 | 明治28年 6月27日 | 海城 |
14 | 明治28年 9月 2日 | 柳樹屯 |
15 | 明治28年 4月27日 | 柳樹屯 |
16 | 明治28年 5月 1日 | 沙家屯 |
17 | 明治28年 8月17日 | 海城 |
18 | 明治28年 8月 7日 | 海城 |
19 | 明治28年 5月 1日 | 沙家屯 |
20 | 明治28年 5月12日 | 沙家屯 |
21 | 明治28年 9月 6日 | 豼子窩 |
22 | 明治28年11月 6日 | 営口 |
23 | 明治28年 4月29日 | 沙家屯 |
24 | 明治29年 2月14日 | 台湾 |
25 | 明治28年 4月11日 | - |
26 | 明治28年11月 1日 | 営口 |
27 | 明治28年 4月29日 | 沙家屯 |
28 | 明治28年 9月 1日 | 金州 |
29 | 明治28年 9月18日 | 折木城 |
30 | 明治28年 8月 9日 | 海城 |
31 | 明治28年 4月28日 | 沙家屯 |
32 | 明治28年 9月11日 | 金州 |
旧大津陸軍墓地Eブロックのデータ(33~68/207) ― 2007/11/16
●旧大津陸軍墓地Eブロックの墓碑から、没年月日、場所
大津市がバイパス工事による移設の際、大津財務局に提出した資料の連番を、さしあたり、そのまま採用する。
大津市がバイパス工事による移設の際、大津財務局に提出した資料の連番を、さしあたり、そのまま採用する。
連番 死亡年月日 死亡場所 33 明治28年 4月28日 沙家屯 34 明治28年 3月 8日 沙家屯 35 明治28年 5月 3日 沙家屯 36 明治28年 4月29日 ??? 37 明治28年 7月24日 大孤山 38 明治28年 7月24日 海城 39 明治28年 5月 1日 沙家屯 40 明治28年10月13日 豼子窩 41 明治28年 4月29日 沙家屯 42 明治28年 9月16日 蔡家店 43 明治28年 4月26日 柳樹屯 44 明治28年 4月21日 大連湾 45 明治28年 4月20日 柳樹屯 46 明治28年 9月 6日 大孤山 47 明治28年 8月 4日 豼子窩 48 明治28年 7月26日 海城 49 明治28年12月11日 金州 50 明治28年 7月 6日 豼子窩 51 明治28年 8月18日 柳樹屯 52 明治28年 5月 2日 沙家屯 53 明治28年 4月25日 劉家店 54 明治28年 7月30日 豼子窩 55 明治28年 4月29日 沙家屯 56 明治28年 4月28日 劉家店 57 明治28年 5月 3日 沙家屯 58 明治28年 7月 6日 小河沿 59 明治29年 3月25日 台湾台北 60 明治28年 4月25日 劉家店 61 明治28年 8月11日 海城 62 明治28年 4月23日 柳樹屯 63 明治28年 9月 1日 折木城 64 明治28年 9月25日 - 65 明治28年 4月29日 沙家屯 66 明治28年12月 6日 - 67 明治28年 4月29日 劉家店 68 明治28年 4月29日 豼子窩
自衛隊の演習(あいば野演習場)から脱走兵(隊員)が出たこと ― 2007/11/16

一人の自衛隊員が、演習中に、銃器をもったまま逃亡というニュースには驚きました。迷彩服と銃器は残していったそうです。服を着替えて、近くのJR駅から逃走。いまだに行方はしれないとか。
当初は、銃器をもったままということで緊張が走りました。
森村誠一原作の映画が頭に浮かびました。
上の写真は逃亡とは関係がありません。自衛隊今津駐屯地55周年記念行事でのものです。
当初は、銃器をもったままということで緊張が走りました。
森村誠一原作の映画が頭に浮かびました。
上の写真は逃亡とは関係がありません。自衛隊今津駐屯地55周年記念行事でのものです。
紫のランタナ ― 2007/11/16
花の内部までみんなオレンジ ― 2007/11/16
勝利したという事実だけが伝わり、悲惨な現実が伝わらない ― 2007/11/16
ネット上にある「福井県史」の近代史の部分を読みました。
『福井県文書館データベース デジタル歴史情報』というサイトです。
明治初期は、県の境目が流動しながら、決まってくる時期なので、福井県の情報を頭に入れておこうと思ったのです。そういう目的でしたが、近代の部分を読み下しながら、衝撃を受けました。
それは、「苦渋にみちた二つの行軍」という部分です。
●混成旅団
日清戦争で兵站をになった混成旅団は、朝鮮民衆の敵意と非協力で、極度の困難に陥り、調達することも、運搬することもできなくなります。この責任をとって大隊長が自殺するという事態にいたった行軍。
●金沢第七連隊
部隊の移動ひとつとっても、現在の私たちには想像もつかない事態がおこっていたことがわかったのです。福井県の出身者を含む金沢第七連隊は、金沢を出発するのですが、朝鮮半島に到達するまえに、国内を縦断する必要があります。この当時は、北陸線は敦賀まで。つまり、金沢と敦賀の間は、徒歩での行軍です。その距離140キロメートル。8月29日に営所を勇んで出発。しかし、炎天下の行軍によって、30日には日射病にかかるものが続出。30日には1名が死亡。つづく9月1日にも死亡者がでます。郷土の誇りとなる出征の姿を見ようと集まった福井市民は、驚愕して、200名を超える日射病にくるしむ落伍兵の悲惨な行軍を見ることになるのです。市は急ごしらえの看護施設や運搬をすることになりますが、あまりの多さに対応ができないのです。さらに事態を深刻にしたのは、靴擦れ。靴をはく習慣のなかった当時には、一歩もあるけない兵が続出する原因の一つでした。
国内ですら、この状態。風土のちがう異土で、しかも食糧難と非衛生状態のもとでの病気の蔓延、脚気など、あらゆる辛酸を兵はなめることになるのです。
わたしは、これらの現実をほとんど知りませんでした。
教科書に日清戦争や日露戦争が載ったとしても、勝利の結果だけが知らされ、このような戦争そのものにともなう悲惨さは洗い流されてしまいます。そんなもとでは、戦争を美化する流れに押し流される若者が生まれてるのではないかと不安を覚えるのです。「集団自決」での軍の関与や「従軍慰安婦」などの記述を削除しようという動きには、私は反対です。
『福井県文書館データベース デジタル歴史情報』というサイトです。
明治初期は、県の境目が流動しながら、決まってくる時期なので、福井県の情報を頭に入れておこうと思ったのです。そういう目的でしたが、近代の部分を読み下しながら、衝撃を受けました。
それは、「苦渋にみちた二つの行軍」という部分です。
●混成旅団
日清戦争で兵站をになった混成旅団は、朝鮮民衆の敵意と非協力で、極度の困難に陥り、調達することも、運搬することもできなくなります。この責任をとって大隊長が自殺するという事態にいたった行軍。
●金沢第七連隊
部隊の移動ひとつとっても、現在の私たちには想像もつかない事態がおこっていたことがわかったのです。福井県の出身者を含む金沢第七連隊は、金沢を出発するのですが、朝鮮半島に到達するまえに、国内を縦断する必要があります。この当時は、北陸線は敦賀まで。つまり、金沢と敦賀の間は、徒歩での行軍です。その距離140キロメートル。8月29日に営所を勇んで出発。しかし、炎天下の行軍によって、30日には日射病にかかるものが続出。30日には1名が死亡。つづく9月1日にも死亡者がでます。郷土の誇りとなる出征の姿を見ようと集まった福井市民は、驚愕して、200名を超える日射病にくるしむ落伍兵の悲惨な行軍を見ることになるのです。市は急ごしらえの看護施設や運搬をすることになりますが、あまりの多さに対応ができないのです。さらに事態を深刻にしたのは、靴擦れ。靴をはく習慣のなかった当時には、一歩もあるけない兵が続出する原因の一つでした。
国内ですら、この状態。風土のちがう異土で、しかも食糧難と非衛生状態のもとでの病気の蔓延、脚気など、あらゆる辛酸を兵はなめることになるのです。
わたしは、これらの現実をほとんど知りませんでした。
教科書に日清戦争や日露戦争が載ったとしても、勝利の結果だけが知らされ、このような戦争そのものにともなう悲惨さは洗い流されてしまいます。そんなもとでは、戦争を美化する流れに押し流される若者が生まれてるのではないかと不安を覚えるのです。「集団自決」での軍の関与や「従軍慰安婦」などの記述を削除しようという動きには、私は反対です。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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