お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「中村節男墓」@旧大津陸軍墓地2007/11/18

旧大津陸軍墓地のMブロック。
そこには、10柱が現存。
7柱が女性の墓碑。
残り3柱が男性の墓碑。
男性の墓碑のうち、一柱は、「草場三千雄」と刻まれていて、第九連隊長草場彦輔の縁戚と思われる人のもの。
残り二つには、ともに「中村」という姓が刻まれています。向かって、左にあるのが、この「中村節男墓」。
没年は、明治35年2月25日。

「中村男墓」@旧大津陸軍墓地2007/11/18

「中村節男墓」の右隣にあるのが、「中村男墓」です。
姓も同じだし、隣あわせですから、関係があるはずです。
 草場、今屋という二人の連隊長が、縁戚の墓碑をこの地(Mブロック)においていることから、中村無一という日露戦争(1904~1905年)に出征した連隊長の縁戚ではないかと、考えられます。

●中村節夫=明治35(1902)年2月25日没

●中村男 =明治38(1905)年1月日没
  (明治28とも読めないわけではないが)

このふたりの没年から考えても、勝手な想像ではない気がします。
ところで、「中村男」というのは、どういう名前でしょうか?
息子という意味でしょうか?

「西田芳子墓」@旧大津陸軍墓地2007/11/18

旧大津陸軍墓地の上段に、将校の墓地とならんで、その縁戚の墓地があります。
将校の墓碑は、20柱。
現存する縁戚の墓碑は10柱です。
縁戚の墓碑の大部分は、女性の墓碑です。
その一つが、この「西田芳子墓」。
明治44年2月17日没と墓碑に見えます。

●西田源吉中佐の縁戚?

じつは、将校の墓地の中には、西田源吉中佐の墓碑があります。まずは、この中佐との関係があると考えて、調べてみることにします。

陸軍歩兵中佐・西田源吉の墓石@旧大津陸軍墓地2007/11/18

旧大津陸軍墓地の将校の墓地の中でもっとも新しい墓碑が、陸軍歩兵中佐・西田源吉の墓碑なのです。それは、陸軍墓地全体のなかでも、もっとも新しいものです。そして、昭和に入って亡くなられた方では唯一の墓碑です。

●Mブロックに背を向けて建つ

 この写真を見ると、西田中佐の墓碑が、Mブロックに背を向けて建っているのがよくわかります。左から、ずっと奥まで並んでいるのが、将校の縁戚の墓石です。

●陸軍地との境界に建つ

 大津財務局で旧陸軍墓地の地図を見せてもらったとき、ラインマーカーで国有地が区切られていました。Aブロックは、国有地。しかし、同じ上段にあるMブロックはそうではありませんでした。その境界に建つのがこの墓碑だったのです。

りっぱな戒名のつく西田源吉中佐の墓碑2007/11/18

旧大津陸軍墓地の将校ブロックの端に建つ西田源吉中佐の墓碑。その左側には、没年が刻まれています。昭和5年8月29日没とあります。右手には、ごらんの戒名が刻まれています。これは、院がつくりっぱな戒名だそうです。

大津連隊区 宮本曹長 考科表名簿回送の件(西田源吉 明治37年6月25日)2007/11/18

偶然、見つけたのがこの文書。「西田源吉」の文字が見えます。
西田源吉は、大津聯隊区副官の地位にいます。

大津聯隊区司令部ヘ 後備陸軍歩兵隊長 宮本久摩治 右ノ者ニ対スル補充召集名簿及返送候也 大本営印刷係御中 右ハ製図科ヨリ直接送付済ノ分(墨書セシハ当部命令番号)御引合セノ上捺印相成度候 大本営陸軍幕僚御中 来ル六月二十九日陸軍幕僚附トシテ応召スベキ者ニ係ル別紙召集名簿及戦時名簿並ニ考科表及御送付候也追而名簿ハ応否御記入ノ上御返送相成度申添候

C06040659800

日露戦争でのロシア人捕虜の資料2007/11/18

 旧大津陸軍墓地には、ロシア人捕虜の墓碑が一柱あります。
 明治44年の『大津市志』には、大津市で収容することになった顛末などが書かれていますが、ここに眠っている捕虜には、触れていません。

●ロシア人捕虜についての資料

 アジア歴史資料センターのサイトには、ロシア人捕虜について「俘虜情報局」が作成した三つの表があることがわかりました。

①露国俘虜収容所及収容人員表
 これは、明治三十八年九月同月現在の各管団別の表です。
C06040142800

②各地俘虜収容以来月末俘虜人員表
 各地俘虜収容所収容以来月末俘虜人員表 明治三十八年十月十五日調
C06040143000

③各地俘虜収容所俘虜死亡人員表
C06040143100

各地俘虜収容以来月末俘虜人員表(明治38年10月15日)2007/11/18

各地俘虜収容所収容以来月末俘虜人員表 明治三十八年十月十五日調 三十七年三月 四月 五月 六月 七月 八月 九月 十月 十一月 十二月 三十八年一月 二月 三月 四月 五月 六月 七月 八月 九月 習志野 佐倉 高崎 仙台 豊橋 名古屋 静岡 浜寺 大津 伏見 大阪 似島 山口 熊本 久留米 弘前 秋田 山形 金沢 敦賀 鯖江 姫路 福知山 松山 丸亀 善通寺 大里 福岡 小倉 計C06040143000

各地俘虜収容所俘虜死亡人員表2007/11/18

各地俘虜収容所収容以来月末俘虜人員表 三十七年五月 六月 七月 八月 九月 十月 十一月 十二月 三十八年一月 二月 三月 四月 五月 六月 七月 八月 九月 十月 習志野 佐倉 高崎 仙台 豊橋 名古屋 静岡 大津 伏見 浜寺 大阪 似島 山口 熊本 久留米 弘前 秋田 山形 金沢 敦賀 鯖江 姫路 福知山 松山 丸亀 善通寺 小倉 福岡 大里 計C06040143100

4より埋葬地開墾竣成上申(明治10年10月7日)2007/11/18

●旧大津陸軍墓地(大津第九営附属埋葬地)の竣工をつたえる資料

 この資料に書かれている日付=明治10(1877)年10月7日が節目となる日付ということになります。

 姫路と大津の数字がちがうように思えるのですが。姫路が第営で、大津が第営ではないのでしょうか?

工千三十八号 埋葬地開墾竣成ノ義ニ付申進
一大津第七営附属埋葬地
一姫路第九営附属埋葬地
右夫々開墾方作業竣成相成候間此段申進候也
明治十年十月七日
工兵第四方面提理代理陸軍大尉谷邨猪介
陸軍卿山縣有朋殿代理陸軍中将西郷従道
申出ノ趣ニ付爾来同地ヘ埋葬可致旨大坂鎮台ヘ相達候事但此等ノ件ハ@@可伺出義ト可心得事

C04027507100

 ちなみに、姫路にあった陸軍墓地は、戦後に大改修され、名古山公園となっているそうです。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)