お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
歩兵第九連隊隊兵卒の墓碑204基(日清戦争):死亡月と死亡箇所 ― 2007/11/20
Eブロックの兵(上等兵、一等卒、二等卒、輜重輸卒)の墓碑は、206柱。そのうち、明治28(1895)年の3月から出征して、12月末まで遼東半島の守備につくなかで、亡くなった方の墓碑は、204柱。
この204柱について、亡くなった月と死亡箇所を調べました。
●遼東半島守備(1895年4月~12月)期間に没年月日がある墓碑数
一部訂正。
この204柱について、亡くなった月と死亡箇所を調べました。
●遼東半島守備(1895年4月~12月)期間に没年月日がある墓碑数
月 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 合計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
沙家屯 | 16 | 19 | 35 | |||||||
海城 | 2 | 9 | 5 | 7 | 4 | 27 | ||||
柳樹屯 | 12 | 4 | 2 | 2 | 3 | 2 | 1 | 26 | ||
豼子窩 | 5 | 2 | 4 | 6 | 3 | 1 | 17 | |||
劉家店 | 16 | 16 | ||||||||
金州 | 2 | 4 | 3 | 4 | 1 | 2 | 16 | |||
小河沿 | 9 | 2 | 11 | |||||||
折木城 | 1 | 5 | 3 | 9 | ||||||
営口 | 1 | 3 | 1 | 1 | 3 | 9 | ||||
大孤山 | 3 | 2 | 5 | |||||||
林家屯 | 3 | 3 | ||||||||
旅順口 | 2 | 1 | 3 | |||||||
破廠八重河子 | 2 | 1 | 3 | |||||||
孫家屯 | 2 | 2 | ||||||||
劉家屯 | 1 | 1 | ||||||||
蔡家店 | 1 | 1 | ||||||||
大連湾 | 1 | 1 | ||||||||
花家屯 | 1 | 1 | ||||||||
杢家屯 | 1 | 1 | ||||||||
勝家屯 | 1 | 1 | ||||||||
普蘭店 | 1 | 1 | ||||||||
無記入 | 3 | 4 | 3 | 1 | 11 | |||||
読取不可 | 4 | |||||||||
合計 | 64 | 26 | 7 | 28 | 24 | 31 | 14 | 6 | 4 | 204 |
一部訂正。
明治28(1895)年の墓碑だけで4割を占める@旧大津陸軍墓地 ― 2007/11/20
●明治28年死亡の墓碑(223基)は全体の4割
旧大津陸軍墓地の個人墓碑は、1970年代の記録によれば全部で559基あるはずです。
ところが、原因不明で「森田千栄」の墓碑が1基(Mブロック)が失われていますので、いま(2007年)見ることができるのは、594基となります。
このうち、明治28年、つまり1895年に亡くなった方の墓碑は、将校が2基(Aブロック)、下士官が13基(Bブロック)、兵が208基(E、K、Lの3ブロック)、合計で223基です。これは、全体の4割(39.9%)にあたります。
●同年、大津衛戍で病死された将校・兵の墓碑は5基
大津にある第四師団第九連隊は、明治27年12月2日に動員を完了し、翌28年3月28日に出征します。
同じ明治28年でも、出征前に亡くなった方の墓碑、出征せず衛戍大津で病死したと思われる墓碑が5基あります。
将校ではAブロックに1基。明治28年2月18日歿の田中幸太郎少尉の墓碑。日付から見ると、動員から出征までの間に亡くなられたことになります。
兵卒では、4基。
Lブロックに3基、歩兵一等卒・永井兼太郎、歩兵二等卒・森本徳松、歩兵二等卒・吉川重吉(大津市資料では名前が解読不能)。
Kブロックに1基。歩兵二等卒・杉本傳吉。これらの方の墓碑は、日清戦争出征により亡くなった兵の墓地(Eブロック)とは別に下段の東西に分かれて置かれていました。
●台湾征服戦争で亡くなった方の墓碑は3基
第九連隊は、明治28(1895)年3月28日に出征して、同年12月末に凱旋帰営しています。ところが、わずか数日で再度出征を命じられます。翌明治29年1月8日に出征。それは、台湾征服戦争への出兵でした。帰営は7月6日。
この出兵で亡くなった下士官の墓碑が1基(Bブロック)。兵卒の墓碑2基(Eブロック)あります。
●遼東半島守備で亡くなられた方の墓碑は218基
第九連隊は、日清戦争のとき、3月28日に大津を出征。広島の宇品港を4月11日と13日に出港して、大連湾に4月14日と16日に到達しています。ところが、清国との間に休戦協定が締結されます。そして、正式の講和条約の締結。このために、部隊は戦闘に参加することなく、遼東半島の守備を命じられます。
半年後、交代のために帰還命令が出て、11月23日と28日にそれぞれ任地の海城と折木城を離れます。遼東半島から、広島の宇品港をへて、全部隊が大津に帰還するのは、12月31日となりました。
この期間に病死された将校の墓碑が1基(Aブロック)、下士官の墓碑が13基(Bブロック)、兵卒の墓碑が204基(Eブロック)、合計218基あるのです。
旧大津陸軍墓地の個人墓碑は、1970年代の記録によれば全部で559基あるはずです。
ところが、原因不明で「森田千栄」の墓碑が1基(Mブロック)が失われていますので、いま(2007年)見ることができるのは、594基となります。
このうち、明治28年、つまり1895年に亡くなった方の墓碑は、将校が2基(Aブロック)、下士官が13基(Bブロック)、兵が208基(E、K、Lの3ブロック)、合計で223基です。これは、全体の4割(39.9%)にあたります。
●同年、大津衛戍で病死された将校・兵の墓碑は5基
大津にある第四師団第九連隊は、明治27年12月2日に動員を完了し、翌28年3月28日に出征します。
同じ明治28年でも、出征前に亡くなった方の墓碑、出征せず衛戍大津で病死したと思われる墓碑が5基あります。
将校ではAブロックに1基。明治28年2月18日歿の田中幸太郎少尉の墓碑。日付から見ると、動員から出征までの間に亡くなられたことになります。
兵卒では、4基。
Lブロックに3基、歩兵一等卒・永井兼太郎、歩兵二等卒・森本徳松、歩兵二等卒・吉川重吉(大津市資料では名前が解読不能)。
Kブロックに1基。歩兵二等卒・杉本傳吉。これらの方の墓碑は、日清戦争出征により亡くなった兵の墓地(Eブロック)とは別に下段の東西に分かれて置かれていました。
●台湾征服戦争で亡くなった方の墓碑は3基
第九連隊は、明治28(1895)年3月28日に出征して、同年12月末に凱旋帰営しています。ところが、わずか数日で再度出征を命じられます。翌明治29年1月8日に出征。それは、台湾征服戦争への出兵でした。帰営は7月6日。
この出兵で亡くなった下士官の墓碑が1基(Bブロック)。兵卒の墓碑2基(Eブロック)あります。
●遼東半島守備で亡くなられた方の墓碑は218基
第九連隊は、日清戦争のとき、3月28日に大津を出征。広島の宇品港を4月11日と13日に出港して、大連湾に4月14日と16日に到達しています。ところが、清国との間に休戦協定が締結されます。そして、正式の講和条約の締結。このために、部隊は戦闘に参加することなく、遼東半島の守備を命じられます。
半年後、交代のために帰還命令が出て、11月23日と28日にそれぞれ任地の海城と折木城を離れます。遼東半島から、広島の宇品港をへて、全部隊が大津に帰還するのは、12月31日となりました。
この期間に病死された将校の墓碑が1基(Aブロック)、下士官の墓碑が13基(Bブロック)、兵卒の墓碑が204基(Eブロック)、合計218基あるのです。
歩兵第九連隊の日清戦争での行動を追跡する :出征 ― 2007/11/20
第九連隊の「戦役経歴書」を読み、これと重ねて、旧大津陸軍墓地に眠る人々の姿を追跡して見ることにする。
●動員
「戦役略歴書」の最初の記事は、動員である。「明治27年12月2日動員完成」とある。
しかし、「大津市史」ではもう少し詳しく書かれている。
つまり、11月26日に動員下令。12月2日に完結。18日の軍旗祭にあわせて、第九連隊の管区(滋賀・三重・京都・奈良)の有志発起の出征豫餞会が練兵場を開催。第四師団長が臨席。『令旨に曰く「予等死をもって彼等に報ひざるべからず」と。参集せるものは感泣せざるはなく、地方官民の熱誠はその極点に達した』とある。
この動員完成から、出征まではほぼ4ヶ月近くの間がある。この4ヶ月については、よくわからないが、「大津市史」の記述は雰囲気を伝えている。
『然るに動員令おりたるまま出征の命に接せず久しく待命し、捷報臻る毎に徒に髀肉の嘆を発しつつあったが』ようやく命令が下りたと書かれている。
第九連隊は、第二軍に編入されることとなった。
●出征
出征は3月28日。大津を出て、広島に向かう。
戦争全体の流れを見ておくと、3月19日に、清国講和会議全権・李鴻章が来日し、20日から下関で会議開始。24日に講和への流れを変える事件が発生。李鴻章が狙撃される。
こういう情勢のもとで第九連隊は出征していくのである。
●広島滞在 3月28日~4月11日・13日
第九連隊が、他の第四師団の隊と同様に、広島の宇品港を出港するのは、4月11日と13日である。したがって、広島には3月28日からこの日まで二週間ほど滞在したことになる。
実は、同じ期間、正岡子規が従軍記者として、戦場にいくために、広島に滞在していた。正岡子規は近衛師団、その友人は第四師団に従軍して、大陸に向かうのである。
この広島滞在中の3月30日に、日本と清国の間で休戦協定が締結される。あとの問題は、講和の条件ということになるのだろう。
●4月6日歿の墓碑が3柱
Eブロックの兵の墓碑のなかに、3基が4月6日歿とある。経歴書のとおりだとすれば、広島滞在中の死となる。葬るところが同じEブロックなので、大津での死ではない。
このうち2基は、歿年月日だけで、死亡場所についての記事が書かれていない。具体的には、陸軍歩兵一等卒・岩田夛吉(大津市の名簿では多吉)、陸軍歩兵一等卒・幾田幾之助。
もう1基には、死亡場所が書かれている。それは、陸軍歩兵一等卒・森田阪松の墓碑で「明治二十八年四月六日於柳樹屯歿」と刻まれている。このとおりだとすれば、先遣隊なのか。
この三つの墓碑については、後日考えてみることにする。
●宇品出航
いよいよ第九連隊が属する第四師団は、広島から出航することになる。
第一と第二大隊は、4月11日、その他は4月13日。
大連湾に到着は、それぞれ4月13日と16日である。つまり、2ないし3日費やしている。
大連湾に到着してまもなく、日清に講和条約が締結された。4月17日のことである。
つまり、戦争は終わったのだ。
●4月11日の死亡者
下士官に1柱、兵卒に1柱、「明治二十八年四月十一日歿」と刻まれた墓碑がある。
ひとつは、陸軍歩兵二等卒・吉田清次郎の墓碑。しかし、死亡場所の記事は、省略されている。
もうひとつは、陸軍特務曹長・尾嵜常人の墓碑である。そこには、はっきり次のように刻まれている。
「明治二十八年四月11日於征清従軍航海舩中歿」
死亡原因は書かれていないが、遼東半島にむかう第四師団の船の中で、重大な伝染病の感染が広がっていたのである。
・・・つづく。
●動員
「戦役略歴書」の最初の記事は、動員である。「明治27年12月2日動員完成」とある。
しかし、「大津市史」ではもう少し詳しく書かれている。
つまり、11月26日に動員下令。12月2日に完結。18日の軍旗祭にあわせて、第九連隊の管区(滋賀・三重・京都・奈良)の有志発起の出征豫餞会が練兵場を開催。第四師団長が臨席。『令旨に曰く「予等死をもって彼等に報ひざるべからず」と。参集せるものは感泣せざるはなく、地方官民の熱誠はその極点に達した』とある。
この動員完成から、出征まではほぼ4ヶ月近くの間がある。この4ヶ月については、よくわからないが、「大津市史」の記述は雰囲気を伝えている。
『然るに動員令おりたるまま出征の命に接せず久しく待命し、捷報臻る毎に徒に髀肉の嘆を発しつつあったが』ようやく命令が下りたと書かれている。
第九連隊は、第二軍に編入されることとなった。
●出征
出征は3月28日。大津を出て、広島に向かう。
戦争全体の流れを見ておくと、3月19日に、清国講和会議全権・李鴻章が来日し、20日から下関で会議開始。24日に講和への流れを変える事件が発生。李鴻章が狙撃される。
こういう情勢のもとで第九連隊は出征していくのである。
●広島滞在 3月28日~4月11日・13日
第九連隊が、他の第四師団の隊と同様に、広島の宇品港を出港するのは、4月11日と13日である。したがって、広島には3月28日からこの日まで二週間ほど滞在したことになる。
実は、同じ期間、正岡子規が従軍記者として、戦場にいくために、広島に滞在していた。正岡子規は近衛師団、その友人は第四師団に従軍して、大陸に向かうのである。
この広島滞在中の3月30日に、日本と清国の間で休戦協定が締結される。あとの問題は、講和の条件ということになるのだろう。
●4月6日歿の墓碑が3柱
Eブロックの兵の墓碑のなかに、3基が4月6日歿とある。経歴書のとおりだとすれば、広島滞在中の死となる。葬るところが同じEブロックなので、大津での死ではない。
このうち2基は、歿年月日だけで、死亡場所についての記事が書かれていない。具体的には、陸軍歩兵一等卒・岩田夛吉(大津市の名簿では多吉)、陸軍歩兵一等卒・幾田幾之助。
もう1基には、死亡場所が書かれている。それは、陸軍歩兵一等卒・森田阪松の墓碑で「明治二十八年四月六日於柳樹屯歿」と刻まれている。このとおりだとすれば、先遣隊なのか。
この三つの墓碑については、後日考えてみることにする。
●宇品出航
いよいよ第九連隊が属する第四師団は、広島から出航することになる。
第一と第二大隊は、4月11日、その他は4月13日。
大連湾に到着は、それぞれ4月13日と16日である。つまり、2ないし3日費やしている。
大連湾に到着してまもなく、日清に講和条約が締結された。4月17日のことである。
つまり、戦争は終わったのだ。
●4月11日の死亡者
下士官に1柱、兵卒に1柱、「明治二十八年四月十一日歿」と刻まれた墓碑がある。
ひとつは、陸軍歩兵二等卒・吉田清次郎の墓碑。しかし、死亡場所の記事は、省略されている。
もうひとつは、陸軍特務曹長・尾嵜常人の墓碑である。そこには、はっきり次のように刻まれている。
「明治二十八年四月11日於征清従軍航海舩中歿」
死亡原因は書かれていないが、遼東半島にむかう第四師団の船の中で、重大な伝染病の感染が広がっていたのである。
・・・つづく。
歩兵第九連隊の日清戦争での行動を追跡する :金州半島兵站病院 ― 2007/11/20
●日清戦争で明治28年4月歿の墓碑は65基
旧大津陸軍墓地の個人墓碑は559基。もっとも古い死亡年月日を持つものは、1872(明治5)年。最後は将校で1930(昭和5)年、兵卒では1924(大正13)年。
このように旧大津陸軍墓地では、半世紀をこえる死者が葬られているなかで、1895(明治28)年の墓碑は、223基と群を抜いて多い。これはすでに見たとおりである。
しかも、その年のなかでも、一番多いのが、4月の死亡者の墓碑である。日清戦争関係だけで、下士官が1基、兵卒が64基、あわせて65基ある。
そのうちの5基については、すでに紹介した。それ以降について、見ていく。
●部隊は船中で待機?
大連湾には、4月11日と13日に到着するが、柳樹屯に上陸するのは、22日と23日になっている。戦地に到着しながら、10日もしくは11日後の上陸となっている。
その原因はなにか。
一方では、すでに17日に日本と清国の間に講和条約が締結されて、戦争が終わったということもあるだろう。しかし、それが原因ではない。「戦役経歴書」には書かれていないが疫病の蔓延が原因であった。
船の中ですでに伝染病に感染しているとすれば、病院に搬送・隔離して、治療するのが当然のことである。だから、大連湾に到着すれば、部隊全体は船中に待機させたとてしても、病人だけをまず下ろすと考えられる。
では、どういう病院が確保されていたのか。
●病院名が刻まれている旧真田山陸軍墓地
同じ第四師団でも、旧真田山陸軍墓地の墓碑には、亡くなった場所だけでなく、病院名も刻まれている。そころが、旧大津陸軍墓地では、病院名がない。『大津市志』の「人物志」では、旧大津陸軍墓地に葬られている同じ兵卒の死亡場所として、病院名が書かれている。
この違いはどこから来るのだろうか。
●兵站病院と検疫所
「金州半島平坦監部各部編成表」(明治28年7月調)によると、検疫所が1つ、兵站病院が3つ、兵站病院と検疫所を兼ねるものが2つある。
最大のものは、柳樹屯兵站病院で、二等軍医正をはじめ軍医が4名配置され、薬剤師、看護長などのスタッフが18、看護手8名、看病人70名となっている。
看護人の規模がそれぞれ56名、50名とすこし人数はすくないが、医者などは同じ規模の兵站病院として、旅順口兵站病院と金州兵站病院がある。
それらの半分の規模で検疫所を兼ねているのが、大孤山兵站病院兼検疫所と営口兵站病院兼検疫所である。それぞれ看護人は25名。
検疫所単独では、大連湾検疫所があり、軍医が4名、看護長などのスタッフが11名、看護手7名、看護人17名がいた。
以上のことを念頭において、死亡場所を考えて見るべきだと思う。
旧大津陸軍墓地の個人墓碑は559基。もっとも古い死亡年月日を持つものは、1872(明治5)年。最後は将校で1930(昭和5)年、兵卒では1924(大正13)年。
このように旧大津陸軍墓地では、半世紀をこえる死者が葬られているなかで、1895(明治28)年の墓碑は、223基と群を抜いて多い。これはすでに見たとおりである。
しかも、その年のなかでも、一番多いのが、4月の死亡者の墓碑である。日清戦争関係だけで、下士官が1基、兵卒が64基、あわせて65基ある。
そのうちの5基については、すでに紹介した。それ以降について、見ていく。
●部隊は船中で待機?
大連湾には、4月11日と13日に到着するが、柳樹屯に上陸するのは、22日と23日になっている。戦地に到着しながら、10日もしくは11日後の上陸となっている。
その原因はなにか。
一方では、すでに17日に日本と清国の間に講和条約が締結されて、戦争が終わったということもあるだろう。しかし、それが原因ではない。「戦役経歴書」には書かれていないが疫病の蔓延が原因であった。
船の中ですでに伝染病に感染しているとすれば、病院に搬送・隔離して、治療するのが当然のことである。だから、大連湾に到着すれば、部隊全体は船中に待機させたとてしても、病人だけをまず下ろすと考えられる。
では、どういう病院が確保されていたのか。
●病院名が刻まれている旧真田山陸軍墓地
同じ第四師団でも、旧真田山陸軍墓地の墓碑には、亡くなった場所だけでなく、病院名も刻まれている。そころが、旧大津陸軍墓地では、病院名がない。『大津市志』の「人物志」では、旧大津陸軍墓地に葬られている同じ兵卒の死亡場所として、病院名が書かれている。
この違いはどこから来るのだろうか。
●兵站病院と検疫所
「金州半島平坦監部各部編成表」(明治28年7月調)によると、検疫所が1つ、兵站病院が3つ、兵站病院と検疫所を兼ねるものが2つある。
最大のものは、柳樹屯兵站病院で、二等軍医正をはじめ軍医が4名配置され、薬剤師、看護長などのスタッフが18、看護手8名、看病人70名となっている。
看護人の規模がそれぞれ56名、50名とすこし人数はすくないが、医者などは同じ規模の兵站病院として、旅順口兵站病院と金州兵站病院がある。
それらの半分の規模で検疫所を兼ねているのが、大孤山兵站病院兼検疫所と営口兵站病院兼検疫所である。それぞれ看護人は25名。
検疫所単独では、大連湾検疫所があり、軍医が4名、看護長などのスタッフが11名、看護手7名、看護人17名がいた。
以上のことを念頭において、死亡場所を考えて見るべきだと思う。
第4師団患者輸送部 ― 2007/11/20
臨発第2219号に基き意見 歩兵第8連隊第2大隊長陸軍歩兵少佐草場彦輔 ― 2007/11/20
歩兵第八連隊第二九隊長 陸軍歩兵少佐 草場彦輔 意見書 編制 獣医官付属セシムルヲ要シ中隊ニ看護手増シ二名トスルノ必要アリ 理由戦時歩兵連隊ニアル馬匹ノ数ハ殆ント百九十頭ノ多キニ達ス而シテ此多数ノ馬匹
明治28年8月 「軍事上百般の改良意見第4師団」
C06060489700
明治28年8月 「軍事上百般の改良意見第4師団」
C06060489700
比良山には雪が見える・・・私は風邪かも ― 2007/11/20
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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