お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
明治28(1895)年の墓碑だけで4割を占める@旧大津陸軍墓地 ― 2007/11/20
●明治28年死亡の墓碑(223基)は全体の4割
旧大津陸軍墓地の個人墓碑は、1970年代の記録によれば全部で559基あるはずです。
ところが、原因不明で「森田千栄」の墓碑が1基(Mブロック)が失われていますので、いま(2007年)見ることができるのは、594基となります。
このうち、明治28年、つまり1895年に亡くなった方の墓碑は、将校が2基(Aブロック)、下士官が13基(Bブロック)、兵が208基(E、K、Lの3ブロック)、合計で223基です。これは、全体の4割(39.9%)にあたります。
●同年、大津衛戍で病死された将校・兵の墓碑は5基
大津にある第四師団第九連隊は、明治27年12月2日に動員を完了し、翌28年3月28日に出征します。
同じ明治28年でも、出征前に亡くなった方の墓碑、出征せず衛戍大津で病死したと思われる墓碑が5基あります。
将校ではAブロックに1基。明治28年2月18日歿の田中幸太郎少尉の墓碑。日付から見ると、動員から出征までの間に亡くなられたことになります。
兵卒では、4基。
Lブロックに3基、歩兵一等卒・永井兼太郎、歩兵二等卒・森本徳松、歩兵二等卒・吉川重吉(大津市資料では名前が解読不能)。
Kブロックに1基。歩兵二等卒・杉本傳吉。これらの方の墓碑は、日清戦争出征により亡くなった兵の墓地(Eブロック)とは別に下段の東西に分かれて置かれていました。
●台湾征服戦争で亡くなった方の墓碑は3基
第九連隊は、明治28(1895)年3月28日に出征して、同年12月末に凱旋帰営しています。ところが、わずか数日で再度出征を命じられます。翌明治29年1月8日に出征。それは、台湾征服戦争への出兵でした。帰営は7月6日。
この出兵で亡くなった下士官の墓碑が1基(Bブロック)。兵卒の墓碑2基(Eブロック)あります。
●遼東半島守備で亡くなられた方の墓碑は218基
第九連隊は、日清戦争のとき、3月28日に大津を出征。広島の宇品港を4月11日と13日に出港して、大連湾に4月14日と16日に到達しています。ところが、清国との間に休戦協定が締結されます。そして、正式の講和条約の締結。このために、部隊は戦闘に参加することなく、遼東半島の守備を命じられます。
半年後、交代のために帰還命令が出て、11月23日と28日にそれぞれ任地の海城と折木城を離れます。遼東半島から、広島の宇品港をへて、全部隊が大津に帰還するのは、12月31日となりました。
この期間に病死された将校の墓碑が1基(Aブロック)、下士官の墓碑が13基(Bブロック)、兵卒の墓碑が204基(Eブロック)、合計218基あるのです。
旧大津陸軍墓地の個人墓碑は、1970年代の記録によれば全部で559基あるはずです。
ところが、原因不明で「森田千栄」の墓碑が1基(Mブロック)が失われていますので、いま(2007年)見ることができるのは、594基となります。
このうち、明治28年、つまり1895年に亡くなった方の墓碑は、将校が2基(Aブロック)、下士官が13基(Bブロック)、兵が208基(E、K、Lの3ブロック)、合計で223基です。これは、全体の4割(39.9%)にあたります。
●同年、大津衛戍で病死された将校・兵の墓碑は5基
大津にある第四師団第九連隊は、明治27年12月2日に動員を完了し、翌28年3月28日に出征します。
同じ明治28年でも、出征前に亡くなった方の墓碑、出征せず衛戍大津で病死したと思われる墓碑が5基あります。
将校ではAブロックに1基。明治28年2月18日歿の田中幸太郎少尉の墓碑。日付から見ると、動員から出征までの間に亡くなられたことになります。
兵卒では、4基。
Lブロックに3基、歩兵一等卒・永井兼太郎、歩兵二等卒・森本徳松、歩兵二等卒・吉川重吉(大津市資料では名前が解読不能)。
Kブロックに1基。歩兵二等卒・杉本傳吉。これらの方の墓碑は、日清戦争出征により亡くなった兵の墓地(Eブロック)とは別に下段の東西に分かれて置かれていました。
●台湾征服戦争で亡くなった方の墓碑は3基
第九連隊は、明治28(1895)年3月28日に出征して、同年12月末に凱旋帰営しています。ところが、わずか数日で再度出征を命じられます。翌明治29年1月8日に出征。それは、台湾征服戦争への出兵でした。帰営は7月6日。
この出兵で亡くなった下士官の墓碑が1基(Bブロック)。兵卒の墓碑2基(Eブロック)あります。
●遼東半島守備で亡くなられた方の墓碑は218基
第九連隊は、日清戦争のとき、3月28日に大津を出征。広島の宇品港を4月11日と13日に出港して、大連湾に4月14日と16日に到達しています。ところが、清国との間に休戦協定が締結されます。そして、正式の講和条約の締結。このために、部隊は戦闘に参加することなく、遼東半島の守備を命じられます。
半年後、交代のために帰還命令が出て、11月23日と28日にそれぞれ任地の海城と折木城を離れます。遼東半島から、広島の宇品港をへて、全部隊が大津に帰還するのは、12月31日となりました。
この期間に病死された将校の墓碑が1基(Aブロック)、下士官の墓碑が13基(Bブロック)、兵卒の墓碑が204基(Eブロック)、合計218基あるのです。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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