お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
歩兵第九連隊の日清戦争での行動を追跡する :出征 ― 2007/11/20
第九連隊の「戦役経歴書」を読み、これと重ねて、旧大津陸軍墓地に眠る人々の姿を追跡して見ることにする。
●動員
「戦役略歴書」の最初の記事は、動員である。「明治27年12月2日動員完成」とある。
しかし、「大津市史」ではもう少し詳しく書かれている。
つまり、11月26日に動員下令。12月2日に完結。18日の軍旗祭にあわせて、第九連隊の管区(滋賀・三重・京都・奈良)の有志発起の出征豫餞会が練兵場を開催。第四師団長が臨席。『令旨に曰く「予等死をもって彼等に報ひざるべからず」と。参集せるものは感泣せざるはなく、地方官民の熱誠はその極点に達した』とある。
この動員完成から、出征まではほぼ4ヶ月近くの間がある。この4ヶ月については、よくわからないが、「大津市史」の記述は雰囲気を伝えている。
『然るに動員令おりたるまま出征の命に接せず久しく待命し、捷報臻る毎に徒に髀肉の嘆を発しつつあったが』ようやく命令が下りたと書かれている。
第九連隊は、第二軍に編入されることとなった。
●出征
出征は3月28日。大津を出て、広島に向かう。
戦争全体の流れを見ておくと、3月19日に、清国講和会議全権・李鴻章が来日し、20日から下関で会議開始。24日に講和への流れを変える事件が発生。李鴻章が狙撃される。
こういう情勢のもとで第九連隊は出征していくのである。
●広島滞在 3月28日~4月11日・13日
第九連隊が、他の第四師団の隊と同様に、広島の宇品港を出港するのは、4月11日と13日である。したがって、広島には3月28日からこの日まで二週間ほど滞在したことになる。
実は、同じ期間、正岡子規が従軍記者として、戦場にいくために、広島に滞在していた。正岡子規は近衛師団、その友人は第四師団に従軍して、大陸に向かうのである。
この広島滞在中の3月30日に、日本と清国の間で休戦協定が締結される。あとの問題は、講和の条件ということになるのだろう。
●4月6日歿の墓碑が3柱
Eブロックの兵の墓碑のなかに、3基が4月6日歿とある。経歴書のとおりだとすれば、広島滞在中の死となる。葬るところが同じEブロックなので、大津での死ではない。
このうち2基は、歿年月日だけで、死亡場所についての記事が書かれていない。具体的には、陸軍歩兵一等卒・岩田夛吉(大津市の名簿では多吉)、陸軍歩兵一等卒・幾田幾之助。
もう1基には、死亡場所が書かれている。それは、陸軍歩兵一等卒・森田阪松の墓碑で「明治二十八年四月六日於柳樹屯歿」と刻まれている。このとおりだとすれば、先遣隊なのか。
この三つの墓碑については、後日考えてみることにする。
●宇品出航
いよいよ第九連隊が属する第四師団は、広島から出航することになる。
第一と第二大隊は、4月11日、その他は4月13日。
大連湾に到着は、それぞれ4月13日と16日である。つまり、2ないし3日費やしている。
大連湾に到着してまもなく、日清に講和条約が締結された。4月17日のことである。
つまり、戦争は終わったのだ。
●4月11日の死亡者
下士官に1柱、兵卒に1柱、「明治二十八年四月十一日歿」と刻まれた墓碑がある。
ひとつは、陸軍歩兵二等卒・吉田清次郎の墓碑。しかし、死亡場所の記事は、省略されている。
もうひとつは、陸軍特務曹長・尾嵜常人の墓碑である。そこには、はっきり次のように刻まれている。
「明治二十八年四月11日於征清従軍航海舩中歿」
死亡原因は書かれていないが、遼東半島にむかう第四師団の船の中で、重大な伝染病の感染が広がっていたのである。
・・・つづく。
●動員
「戦役略歴書」の最初の記事は、動員である。「明治27年12月2日動員完成」とある。
しかし、「大津市史」ではもう少し詳しく書かれている。
つまり、11月26日に動員下令。12月2日に完結。18日の軍旗祭にあわせて、第九連隊の管区(滋賀・三重・京都・奈良)の有志発起の出征豫餞会が練兵場を開催。第四師団長が臨席。『令旨に曰く「予等死をもって彼等に報ひざるべからず」と。参集せるものは感泣せざるはなく、地方官民の熱誠はその極点に達した』とある。
この動員完成から、出征まではほぼ4ヶ月近くの間がある。この4ヶ月については、よくわからないが、「大津市史」の記述は雰囲気を伝えている。
『然るに動員令おりたるまま出征の命に接せず久しく待命し、捷報臻る毎に徒に髀肉の嘆を発しつつあったが』ようやく命令が下りたと書かれている。
第九連隊は、第二軍に編入されることとなった。
●出征
出征は3月28日。大津を出て、広島に向かう。
戦争全体の流れを見ておくと、3月19日に、清国講和会議全権・李鴻章が来日し、20日から下関で会議開始。24日に講和への流れを変える事件が発生。李鴻章が狙撃される。
こういう情勢のもとで第九連隊は出征していくのである。
●広島滞在 3月28日~4月11日・13日
第九連隊が、他の第四師団の隊と同様に、広島の宇品港を出港するのは、4月11日と13日である。したがって、広島には3月28日からこの日まで二週間ほど滞在したことになる。
実は、同じ期間、正岡子規が従軍記者として、戦場にいくために、広島に滞在していた。正岡子規は近衛師団、その友人は第四師団に従軍して、大陸に向かうのである。
この広島滞在中の3月30日に、日本と清国の間で休戦協定が締結される。あとの問題は、講和の条件ということになるのだろう。
●4月6日歿の墓碑が3柱
Eブロックの兵の墓碑のなかに、3基が4月6日歿とある。経歴書のとおりだとすれば、広島滞在中の死となる。葬るところが同じEブロックなので、大津での死ではない。
このうち2基は、歿年月日だけで、死亡場所についての記事が書かれていない。具体的には、陸軍歩兵一等卒・岩田夛吉(大津市の名簿では多吉)、陸軍歩兵一等卒・幾田幾之助。
もう1基には、死亡場所が書かれている。それは、陸軍歩兵一等卒・森田阪松の墓碑で「明治二十八年四月六日於柳樹屯歿」と刻まれている。このとおりだとすれば、先遣隊なのか。
この三つの墓碑については、後日考えてみることにする。
●宇品出航
いよいよ第九連隊が属する第四師団は、広島から出航することになる。
第一と第二大隊は、4月11日、その他は4月13日。
大連湾に到着は、それぞれ4月13日と16日である。つまり、2ないし3日費やしている。
大連湾に到着してまもなく、日清に講和条約が締結された。4月17日のことである。
つまり、戦争は終わったのだ。
●4月11日の死亡者
下士官に1柱、兵卒に1柱、「明治二十八年四月十一日歿」と刻まれた墓碑がある。
ひとつは、陸軍歩兵二等卒・吉田清次郎の墓碑。しかし、死亡場所の記事は、省略されている。
もうひとつは、陸軍特務曹長・尾嵜常人の墓碑である。そこには、はっきり次のように刻まれている。
「明治二十八年四月11日於征清従軍航海舩中歿」
死亡原因は書かれていないが、遼東半島にむかう第四師団の船の中で、重大な伝染病の感染が広がっていたのである。
・・・つづく。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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