お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
歩兵第九連隊の日清戦争での行動を追跡する :金州半島兵站病院 ― 2007/11/20
●日清戦争で明治28年4月歿の墓碑は65基
旧大津陸軍墓地の個人墓碑は559基。もっとも古い死亡年月日を持つものは、1872(明治5)年。最後は将校で1930(昭和5)年、兵卒では1924(大正13)年。
このように旧大津陸軍墓地では、半世紀をこえる死者が葬られているなかで、1895(明治28)年の墓碑は、223基と群を抜いて多い。これはすでに見たとおりである。
しかも、その年のなかでも、一番多いのが、4月の死亡者の墓碑である。日清戦争関係だけで、下士官が1基、兵卒が64基、あわせて65基ある。
そのうちの5基については、すでに紹介した。それ以降について、見ていく。
●部隊は船中で待機?
大連湾には、4月11日と13日に到着するが、柳樹屯に上陸するのは、22日と23日になっている。戦地に到着しながら、10日もしくは11日後の上陸となっている。
その原因はなにか。
一方では、すでに17日に日本と清国の間に講和条約が締結されて、戦争が終わったということもあるだろう。しかし、それが原因ではない。「戦役経歴書」には書かれていないが疫病の蔓延が原因であった。
船の中ですでに伝染病に感染しているとすれば、病院に搬送・隔離して、治療するのが当然のことである。だから、大連湾に到着すれば、部隊全体は船中に待機させたとてしても、病人だけをまず下ろすと考えられる。
では、どういう病院が確保されていたのか。
●病院名が刻まれている旧真田山陸軍墓地
同じ第四師団でも、旧真田山陸軍墓地の墓碑には、亡くなった場所だけでなく、病院名も刻まれている。そころが、旧大津陸軍墓地では、病院名がない。『大津市志』の「人物志」では、旧大津陸軍墓地に葬られている同じ兵卒の死亡場所として、病院名が書かれている。
この違いはどこから来るのだろうか。
●兵站病院と検疫所
「金州半島平坦監部各部編成表」(明治28年7月調)によると、検疫所が1つ、兵站病院が3つ、兵站病院と検疫所を兼ねるものが2つある。
最大のものは、柳樹屯兵站病院で、二等軍医正をはじめ軍医が4名配置され、薬剤師、看護長などのスタッフが18、看護手8名、看病人70名となっている。
看護人の規模がそれぞれ56名、50名とすこし人数はすくないが、医者などは同じ規模の兵站病院として、旅順口兵站病院と金州兵站病院がある。
それらの半分の規模で検疫所を兼ねているのが、大孤山兵站病院兼検疫所と営口兵站病院兼検疫所である。それぞれ看護人は25名。
検疫所単独では、大連湾検疫所があり、軍医が4名、看護長などのスタッフが11名、看護手7名、看護人17名がいた。
以上のことを念頭において、死亡場所を考えて見るべきだと思う。
旧大津陸軍墓地の個人墓碑は559基。もっとも古い死亡年月日を持つものは、1872(明治5)年。最後は将校で1930(昭和5)年、兵卒では1924(大正13)年。
このように旧大津陸軍墓地では、半世紀をこえる死者が葬られているなかで、1895(明治28)年の墓碑は、223基と群を抜いて多い。これはすでに見たとおりである。
しかも、その年のなかでも、一番多いのが、4月の死亡者の墓碑である。日清戦争関係だけで、下士官が1基、兵卒が64基、あわせて65基ある。
そのうちの5基については、すでに紹介した。それ以降について、見ていく。
●部隊は船中で待機?
大連湾には、4月11日と13日に到着するが、柳樹屯に上陸するのは、22日と23日になっている。戦地に到着しながら、10日もしくは11日後の上陸となっている。
その原因はなにか。
一方では、すでに17日に日本と清国の間に講和条約が締結されて、戦争が終わったということもあるだろう。しかし、それが原因ではない。「戦役経歴書」には書かれていないが疫病の蔓延が原因であった。
船の中ですでに伝染病に感染しているとすれば、病院に搬送・隔離して、治療するのが当然のことである。だから、大連湾に到着すれば、部隊全体は船中に待機させたとてしても、病人だけをまず下ろすと考えられる。
では、どういう病院が確保されていたのか。
●病院名が刻まれている旧真田山陸軍墓地
同じ第四師団でも、旧真田山陸軍墓地の墓碑には、亡くなった場所だけでなく、病院名も刻まれている。そころが、旧大津陸軍墓地では、病院名がない。『大津市志』の「人物志」では、旧大津陸軍墓地に葬られている同じ兵卒の死亡場所として、病院名が書かれている。
この違いはどこから来るのだろうか。
●兵站病院と検疫所
「金州半島平坦監部各部編成表」(明治28年7月調)によると、検疫所が1つ、兵站病院が3つ、兵站病院と検疫所を兼ねるものが2つある。
最大のものは、柳樹屯兵站病院で、二等軍医正をはじめ軍医が4名配置され、薬剤師、看護長などのスタッフが18、看護手8名、看病人70名となっている。
看護人の規模がそれぞれ56名、50名とすこし人数はすくないが、医者などは同じ規模の兵站病院として、旅順口兵站病院と金州兵站病院がある。
それらの半分の規模で検疫所を兼ねているのが、大孤山兵站病院兼検疫所と営口兵站病院兼検疫所である。それぞれ看護人は25名。
検疫所単独では、大連湾検疫所があり、軍医が4名、看護長などのスタッフが11名、看護手7名、看護人17名がいた。
以上のことを念頭において、死亡場所を考えて見るべきだと思う。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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