
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
第五師管軍法会議判士長 陸軍歩兵少佐 中山充蔵 ― 2007/11/27
●中山充蔵
旧大津陸軍墓地の将校の墓地には、「陸軍歩兵中佐従五位勲四等中山充蔵墓」がある。
この方については、ほとんどわからない状態で、11月24日を迎えた。資料の調べ方に慣れてきたので、検索に再度挑戦。いくつかヒットした。
それは第九連隊とはあまり縁のないと思われる軍法会議の判士長としての中山充蔵の経歴だった。下の文書は、「第五師団長男爵山口素臣||第五師管軍法会議判士長陸軍歩兵少佐中山充蔵||第五師管軍法会議判士陸軍歩兵大尉河南環」によって作成されている。
●軍曹勲位等褫奪の件(明治30年6月23日~明治30年6月30日)
肆第二五四号 二四八七号 第五師団 勲章弁従軍記章還納之件 提出 三十一年六月 日 士員勲局総裁ヘ申入案 歩兵第二十一連隊第六中隊 陸軍歩兵二等軍曹 右勲位並明治二十七八年従軍記章褫奪相成候ニ付勲章並記章等収奪之上左記之通還納@也 陸軍省受領 送甲第一五二八号 六いい有二十二日 記 一勲章 箱共 一个 一勲記 仝 一枚 一年金証 一枚 一記章 箱共 一个 一証状 一枚 肆第二五四号 二四八七号 第五師団 勲章弁従軍記章還納之件 提出 三十一年 月 日 第五師団司令部江 歩兵第二十一連隊第六中隊 陸軍歩兵二等軍曹 右
明治31年 「肆大日記 6月」
C07071415700
明治34年の時点では、同じ地位を陸軍歩兵大佐石橋健蔵が占めている。
ちなみに、山口素臣は、二代目の第九連隊長である。
旧大津陸軍墓地の将校の墓地には、「陸軍歩兵中佐従五位勲四等中山充蔵墓」がある。
この方については、ほとんどわからない状態で、11月24日を迎えた。資料の調べ方に慣れてきたので、検索に再度挑戦。いくつかヒットした。
それは第九連隊とはあまり縁のないと思われる軍法会議の判士長としての中山充蔵の経歴だった。下の文書は、「第五師団長男爵山口素臣||第五師管軍法会議判士長陸軍歩兵少佐中山充蔵||第五師管軍法会議判士陸軍歩兵大尉河南環」によって作成されている。
●軍曹勲位等褫奪の件(明治30年6月23日~明治30年6月30日)
肆第二五四号 二四八七号 第五師団 勲章弁従軍記章還納之件 提出 三十一年六月 日 士員勲局総裁ヘ申入案 歩兵第二十一連隊第六中隊 陸軍歩兵二等軍曹 右勲位並明治二十七八年従軍記章褫奪相成候ニ付勲章並記章等収奪之上左記之通還納@也 陸軍省受領 送甲第一五二八号 六いい有二十二日 記 一勲章 箱共 一个 一勲記 仝 一枚 一年金証 一枚 一記章 箱共 一个 一証状 一枚 肆第二五四号 二四八七号 第五師団 勲章弁従軍記章還納之件 提出 三十一年 月 日 第五師団司令部江 歩兵第二十一連隊第六中隊 陸軍歩兵二等軍曹 右
明治31年 「肆大日記 6月」
C07071415700
明治34年の時点では、同じ地位を陸軍歩兵大佐石橋健蔵が占めている。
ちなみに、山口素臣は、二代目の第九連隊長である。
大尉中山充蔵落失換印鑑廻付義申入(明治12年9月) ― 2007/11/27
将校の墓碑から見えてくるものはなにか@旧大津陸軍墓地 ― 2007/11/27
●将校の墓碑から見えてくるもの
旧陸軍墓地には、20基の将校の墓碑があります。
将校の経歴を調べながら、
「この人の墓碑がここにあるのには、
それなりの深い理由がある」
と思うようになりました。
墓碑は直接には語りませんが、
経歴のなかから浮かびあがるものがあるのです。
●井戸順行中佐の場合
たとえば、
第五代第九連隊長の井戸順行の場合は、
家族が建立した碑ではありません。
碑から読み取れることは、
彼氏には子どもがなく、
その功績や生き方を語り継ぐ人がないということ、
そして、同僚からの信望。
「滋賀県山上の地の石で建てる」という文書は、
この地への井戸順行のかかわりとして
興味深いものがあります。
●草場彦輔少将の場合
草場彦輔の場合は、
もっとも輝かしい経歴を
つんだところが第九連隊であったこと、
それゆえ、滋賀県大津市の膳所に
居住していたのだと思われます。
何代か前の第九連隊長、
たとえば、山口素臣の場合は、
第五師団長などへ登っていきますから、
ここに墓碑をおく必要はないのです。
草場は、自分の故郷を離れたこの地に、
遺言で墓碑を建てるように言い残しています。
そして、妻もこの地に眠っています。
故郷(福岡県)を離れた軍人が、
「軍こそわが故郷」と
いっているように思えるのです。
電話帳で、草場という名前を調べてみても、
大津市には見当たりません。
愛着をもつこの地でしたが、
眠る人たちの思いを語る係累は
もはやどこにもいないのでしょうか。
旧陸軍墓地には、20基の将校の墓碑があります。
将校の経歴を調べながら、
「この人の墓碑がここにあるのには、
それなりの深い理由がある」
と思うようになりました。
墓碑は直接には語りませんが、
経歴のなかから浮かびあがるものがあるのです。
●井戸順行中佐の場合
たとえば、
第五代第九連隊長の井戸順行の場合は、
家族が建立した碑ではありません。
碑から読み取れることは、
彼氏には子どもがなく、
その功績や生き方を語り継ぐ人がないということ、
そして、同僚からの信望。
「滋賀県山上の地の石で建てる」という文書は、
この地への井戸順行のかかわりとして
興味深いものがあります。
●草場彦輔少将の場合
草場彦輔の場合は、
もっとも輝かしい経歴を
つんだところが第九連隊であったこと、
それゆえ、滋賀県大津市の膳所に
居住していたのだと思われます。
何代か前の第九連隊長、
たとえば、山口素臣の場合は、
第五師団長などへ登っていきますから、
ここに墓碑をおく必要はないのです。
草場は、自分の故郷を離れたこの地に、
遺言で墓碑を建てるように言い残しています。
そして、妻もこの地に眠っています。
故郷(福岡県)を離れた軍人が、
「軍こそわが故郷」と
いっているように思えるのです。
電話帳で、草場という名前を調べてみても、
大津市には見当たりません。
愛着をもつこの地でしたが、
眠る人たちの思いを語る係累は
もはやどこにもいないのでしょうか。
「旧大津陸軍墓地を考える会」(準備中)の今後について ― 2007/11/27
11月24日に約30名の方が参加していただいて、「旧大津陸軍墓地を見て考え語り合う集い」をしました。いろんな思いで参加されたと思いますし、十分語り合う時間がなかったことが残念でした。
さて今後のことについて書きたいと思います。
24日に語り合った大切な結論は、いろんな立場があるにしても、旧大津陸軍墓地が大切な場所だということです。
奉賛会の方々は「英霊が眠る場所」として、献身的に清掃と保全にあたっていらっしゃいます。その無償の行為は、今後の担い手という問題をもちながらも、継続されていくことでしょう。私も、ときに参加するつもりです。
私がつくろうとしている会は、墓地としての保全ということとともに、墓地の成り立ちやとそこに眠る人たちの生き方の意味を、客観的事実を明らかにしながら、考えようというものです。具体的には、墓地の成り立ちについての資料を探し足して保全すること、墓碑が読み取れる間に、その文言を残す作業などが大切な中身になると思います。
それは、奉賛会のみなさんの活動と重なりながらも、ちがった仕事になると思うのです。
せっかく24日に集まっていただきましたが、墓地について調べた結果をお話するのがせいぜいで、会をつくるというお話は、ほとんど出来ませんでした。いまはじめた作業も、いつまでも一人で続けるという訳にはいかないと思います。
ですから、会そのものを立ち上がるということを主題にして、活動をはじめたいと思います。
できれば、24日に参加していただいた人に案内して、暖かい(笑)室内の会場で感想会を開きながら、お話ができたらと考えています。
私が調べて先日発表した文章は、より正確にして、「旧真田山陸軍墓地とその保全を考える会」に送ります。そういえば、私もこの会の会員にしていただきましたので。
同時に、大津の興味を持っていただける人たちに、見ていただけるように、パンフレットにできないものかと考えています。24日の文は、少し難解な書き方でした。その点を反省して、写真などを入れて、作ってみたいと思います。
さて今後のことについて書きたいと思います。
24日に語り合った大切な結論は、いろんな立場があるにしても、旧大津陸軍墓地が大切な場所だということです。
奉賛会の方々は「英霊が眠る場所」として、献身的に清掃と保全にあたっていらっしゃいます。その無償の行為は、今後の担い手という問題をもちながらも、継続されていくことでしょう。私も、ときに参加するつもりです。
私がつくろうとしている会は、墓地としての保全ということとともに、墓地の成り立ちやとそこに眠る人たちの生き方の意味を、客観的事実を明らかにしながら、考えようというものです。具体的には、墓地の成り立ちについての資料を探し足して保全すること、墓碑が読み取れる間に、その文言を残す作業などが大切な中身になると思います。
それは、奉賛会のみなさんの活動と重なりながらも、ちがった仕事になると思うのです。
せっかく24日に集まっていただきましたが、墓地について調べた結果をお話するのがせいぜいで、会をつくるというお話は、ほとんど出来ませんでした。いまはじめた作業も、いつまでも一人で続けるという訳にはいかないと思います。
ですから、会そのものを立ち上がるということを主題にして、活動をはじめたいと思います。
できれば、24日に参加していただいた人に案内して、暖かい(笑)室内の会場で感想会を開きながら、お話ができたらと考えています。
私が調べて先日発表した文章は、より正確にして、「旧真田山陸軍墓地とその保全を考える会」に送ります。そういえば、私もこの会の会員にしていただきましたので。
同時に、大津の興味を持っていただける人たちに、見ていただけるように、パンフレットにできないものかと考えています。24日の文は、少し難解な書き方でした。その点を反省して、写真などを入れて、作ってみたいと思います。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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