お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
『霊土』の碑@旧大津陸軍墓地 ― 2007/11/30
1976年以前には存在しなかった小さな碑が、現在、旧大津陸軍墓地にある。それが、「天 霊土」と刻まれた碑である。由来は、どこにも書いていない。ごく小さなものであるだけに、何度も、足を運んだ私も気がつかなかった。ある日、気がついて、ともかく写真を撮った。11月24日の会のあと、西大津駅の喫茶店に入って、お話しをするうちに、やっとその意味がわかった。
●237柱の墓地の移葬
1976年まで、上段・中段・下段と分かれていた旧大津陸軍墓地に、重大な事態が生まれる。それは、バイパスを墓地内を通過させること、そして、そのために、墓地を移設するという話である。事の良し悪しは問わないが、その結果、下段の墓地全体を破壊することとなった。奉賛会の人たちは反対したが、押し切れらたのだ。
●骨は溶けるが革靴は残る
下段は、兵卒の墓碑が237柱並んでいた。全体の3分の1以上になる。移すために、掘り返すことになった。それらの兵士の墓は、土葬であった。しかも、座った状態で棺にいられれて葬られていた。「骨は溶けてなくなっていたが、革靴などはそのまま残っていた」「多くの砂が棺のなかに入っていた」「なんともいえない臭いがした」などの話である。その生々しい話に私は息をのんだ。
●遺品を新しい墓地に埋める
それらの遺品は、丁寧に新しい墓地にそれぞれ埋めなおす作業が行われた。奉賛会の人たちの「(バイパスの)車が平気で遺骸の上をまたぐことは許さない」という強い主張で、棺のなかの砂はすべて新しい墓地にもっていくことになった。現在、お地蔵さんのある場所に移した。
●霊土の意味
それでもなお、砂は収まりきれないほど多かった。そこで、さらに別の場所に盛って、「霊土」と名づけて、供養することになったのである。
●鬼火 最後に火をかける
墓石や遺品、そして、棺の最後の一粒の砂を運び去ったあとで、それまで、237柱の墓碑があった土地に火をかけた。火は、赤々と燃え上がったが、そのなかに、青い火が方々に見えた。闇に浮かぶ、赤い火と、それに混じる青い火の光景は、忘れられないという。
●237柱の墓地の移葬
1976年まで、上段・中段・下段と分かれていた旧大津陸軍墓地に、重大な事態が生まれる。それは、バイパスを墓地内を通過させること、そして、そのために、墓地を移設するという話である。事の良し悪しは問わないが、その結果、下段の墓地全体を破壊することとなった。奉賛会の人たちは反対したが、押し切れらたのだ。
●骨は溶けるが革靴は残る
下段は、兵卒の墓碑が237柱並んでいた。全体の3分の1以上になる。移すために、掘り返すことになった。それらの兵士の墓は、土葬であった。しかも、座った状態で棺にいられれて葬られていた。「骨は溶けてなくなっていたが、革靴などはそのまま残っていた」「多くの砂が棺のなかに入っていた」「なんともいえない臭いがした」などの話である。その生々しい話に私は息をのんだ。
●遺品を新しい墓地に埋める
それらの遺品は、丁寧に新しい墓地にそれぞれ埋めなおす作業が行われた。奉賛会の人たちの「(バイパスの)車が平気で遺骸の上をまたぐことは許さない」という強い主張で、棺のなかの砂はすべて新しい墓地にもっていくことになった。現在、お地蔵さんのある場所に移した。
●霊土の意味
それでもなお、砂は収まりきれないほど多かった。そこで、さらに別の場所に盛って、「霊土」と名づけて、供養することになったのである。
●鬼火 最後に火をかける
墓石や遺品、そして、棺の最後の一粒の砂を運び去ったあとで、それまで、237柱の墓碑があった土地に火をかけた。火は、赤々と燃え上がったが、そのなかに、青い火が方々に見えた。闇に浮かぶ、赤い火と、それに混じる青い火の光景は、忘れられないという。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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