お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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このトリの名前を、教えてください2008/02/13

名前をおしえてください、このトリ。
湖岸に人口的に造られた「なぎさ公園」。
ユリカモメ、スズメ、ハト、セキレイなどを
見たあと、事務所に戻ろうと振り返ると
出会いました。

大きさは、スズメの二回りぐらい大きい。

2月12日(火)の夕方です。

「鉄道記念物 逢坂山ずい道東口」の立て札2008/02/13

「鉄道記念物 逢坂山ずい道東口」の立て札
国道1号線が161号線へと分岐する地点に、この立て札があります。「昭和35年10月16日指定 日本国」と書かれています。

「逢坂山ずい道」と書かれた立て札から見ると2008/02/13

逢坂山ずい道
入り口に建てられた立て札から見ると、トンネルの入り口が右に開いているのがわかります。そこに説明の看板が見えますね。

「鉄道記念物 逢坂山ずい道東口」とは・・・2008/02/13

旧逢坂山ずい道の説明
昭和36年10月14日に日本国有鉄道(現在のJR)が立てた看板です。

鉄道記念物
旧逢坂山ずい道東口
このずい道は明治11年10月5日東口から、また同年12月5日西口からそれぞれ掘さくを始め、約1年8ヶ月の歳月を費やして、明治13年6月28日に竣工したもので、大正10年8月1日線路変更により廃線となるまで、東海道本線の下り線として使用されていたものであります。
 全長664.8mにおよぶこのずい道は
日本人技術者が外国技術の援助を得ずに設計施工した、我が国最初の山岳ずい道として歴史的な意義をもつものであります。
坑門上部にある石額は竣工を記念して時の太政大臣三条実美の筆になるものであります。

以上のように書かれています。

「逢坂山ずい道東口」を正面から見る2008/02/13

正面から逢坂山ずい道東口を見る
正面に回りました。トンネルは二つあるんですね?
下り線は当時も複線でしたっけ?

太政大臣三条実美の石額@逢坂山ずい道坑門2008/02/13

三条実美の石額
先の看板の説明では、石額は三条実美の筆だそうです。
「功頼成楽」と刻まれているのがそれ。
もっとも、読み方は右から左でしょうけれど。
その横に小さく三条実美の名前が見えます・・・。

逢坂山ずい道の内部= レンガ造り2008/02/13

逢坂山ずい道の内部
逢坂山ずい道の内部です。これ以上は入れないようにしてありますね。

石とレンガの継ぎ目@逢坂山ずい道2008/02/13

石とレンガのつなぎ目@逢坂山ずい道
表は石でできています。
中はレンガ。

その継ぎ目を見てみました。

こんな風なんですね。

鉄道ついでに、「貴婦人」C57128を2008/02/13

C57
大津市の県立体育館の横の公園においてあります。
蒸気機関車C57「貴婦人」です。
説明はつぎの写真をご覧ください。

「C57機関車」の説明2008/02/13

C57128の説明です。
クリックしておおきくすれば、読めます。

C157機関車
1937(昭和12)年から1947(昭和22)年まで旅客用として201両が誕生し、そのスタイルが美しいことから「貴婦人」の愛称で呼ばれています。
 C157128は、1940(昭和15)年に生まれ、1973年に幡但線を最後に引退するまで走行距離は2,235,421.4kmでおよそ地球を56周走ったことになります。この車両は、東海道線などを走り、幡但線を最後に昭和51年4月5日に科学館に展示用として設置されました。科学館が膳所本町の生涯学習センターに移転したのを機に、平成3年、旧科学館の跡地の「遊びの森SL公園」に設置され、大津SL愛好会の皆様に守られ、多くの方々に見てもらっています。
大津市科学館

以上が記入されている中身です。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)