お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
バイパス工事による移葬地@旧大津陸軍墓地 ― 2008/03/20
旧大津陸軍墓地は、1877(明治10)年10月に竣工した。当初の形態は、丘陵地に段々畑のような形状であり、中央に通路をはさんで、上段・中段・下段の三段構造になっていた。
だが、当初の形態から、少なくとも2度、大きな形状変更があった。
一度目は、日清戦争終結直後の1897(明治30)年頃。このときは、中段を西方向に拡張するものであった。
二度目は、下段を取り壊して、そこにあった237柱もの兵卒の墓碑を、中段をさらに西に拡張して、移葬するという大改編であった。これは、1970年代にバイパス工事を行い、このために下段を道路用地として、埋め立てたためである。
上の写真は、二度目の改変のときに、つくられた土地全体の姿である。この改変は、旧来の墓を掘り起こして、遺骨や遺品、大量の土を移動させるというものであっただけに、鎮魂のために記念碑がつくられることとなった。
碑は、ひとつではない。中央にあるものと、黒い石の碑である。
だが、当初の形態から、少なくとも2度、大きな形状変更があった。
一度目は、日清戦争終結直後の1897(明治30)年頃。このときは、中段を西方向に拡張するものであった。
二度目は、下段を取り壊して、そこにあった237柱もの兵卒の墓碑を、中段をさらに西に拡張して、移葬するという大改編であった。これは、1970年代にバイパス工事を行い、このために下段を道路用地として、埋め立てたためである。
上の写真は、二度目の改変のときに、つくられた土地全体の姿である。この改変は、旧来の墓を掘り起こして、遺骨や遺品、大量の土を移動させるというものであっただけに、鎮魂のために記念碑がつくられることとなった。
碑は、ひとつではない。中央にあるものと、黒い石の碑である。
「超日月光 霊土」の碑@旧大津陸軍墓地 ― 2008/03/20
元あった埋葬地をバイパス工事によって撤去するということは、反対なしには進まなかった。
旧陸軍墓地に対してどういう見解をもとうとも、死者への冒涜ともいえる行為だからである。
陸軍が解散し、陸軍墓地を移管された財務事務所は、それを「無償」で、大津市に貸し出して、悪い言い方をすれば、管理をおしつける格好となった。
その旧陸軍墓地の清掃と管理は、大津市とボランティア組織である「奉賛会」によって担われることとなった。
奉賛会は、墓地を壊すことに反対の立場であったが、国の圧力の前にどうすることもできず、墓地を掘り返して、すべての遺品を移葬することを条件に、納得せざるをえなかったという。
上の「超日月光」ということばの意味は私にはわからない。しかし、「霊土」の意味は、教えてもらうことはできた。土葬された237もの兵卒の墓を暴いたときに出てきた土をすべて移動して、「霊土」となずけたのである。
「一粒として、車の足蹴にさせない」と語った会長の語気は強かった。
単純な土木事業ではなく、鎮魂の意味をもたざるをえなかったことは、この祭壇の大きさから推し量ることができる。
旧陸軍墓地に対してどういう見解をもとうとも、死者への冒涜ともいえる行為だからである。
陸軍が解散し、陸軍墓地を移管された財務事務所は、それを「無償」で、大津市に貸し出して、悪い言い方をすれば、管理をおしつける格好となった。
その旧陸軍墓地の清掃と管理は、大津市とボランティア組織である「奉賛会」によって担われることとなった。
奉賛会は、墓地を壊すことに反対の立場であったが、国の圧力の前にどうすることもできず、墓地を掘り返して、すべての遺品を移葬することを条件に、納得せざるをえなかったという。
上の「超日月光」ということばの意味は私にはわからない。しかし、「霊土」の意味は、教えてもらうことはできた。土葬された237もの兵卒の墓を暴いたときに出てきた土をすべて移動して、「霊土」となずけたのである。
「一粒として、車の足蹴にさせない」と語った会長の語気は強かった。
単純な土木事業ではなく、鎮魂の意味をもたざるをえなかったことは、この祭壇の大きさから推し量ることができる。
移葬地を見渡せる「超日月光 霊土」の祭壇@旧大津陸軍墓地 ― 2008/03/20
「超日月光 霊土」の碑の背面に刻まれた文字@旧大津陸軍墓地 ― 2008/03/20
バイパス工事によって移葬された237柱の兵士の霊を慰めるための「超日月光 霊土」の碑の背面には、「昭和52年11月10日」という日付とともに、これをかかわった二つの団体名が刻まれている。
一つは、「建設省近畿地方建設局滋賀県国道工事事務所」
もう一つは、「大津陸軍墓地護持奉賛会」である。
上の写真の左には、「明治三十七年戦役兵卒戦病死者合葬碑」、つまり、日露戦争のときの兵卒の合葬碑が見える。これも、バイパス工事のために、移動を余儀なくされている。
木立のむこうには、琵琶湖の湖面が見えている。
旧大津陸軍墓地は、琵琶湖が見渡せる、住宅地から離れた丘陵地に建設されていたのである。だが、バイパス工事は、その環境をすっかり損なうことになった。
一つは、「建設省近畿地方建設局滋賀県国道工事事務所」
もう一つは、「大津陸軍墓地護持奉賛会」である。
上の写真の左には、「明治三十七年戦役兵卒戦病死者合葬碑」、つまり、日露戦争のときの兵卒の合葬碑が見える。これも、バイパス工事のために、移動を余儀なくされている。
木立のむこうには、琵琶湖の湖面が見えている。
旧大津陸軍墓地は、琵琶湖が見渡せる、住宅地から離れた丘陵地に建設されていたのである。だが、バイパス工事は、その環境をすっかり損なうことになった。
大量に出土した「霊土」の碑@旧大津陸軍墓地 ― 2008/03/20
1976年にバイパス工事のために、旧大津陸軍墓地の下段の墓碑237柱が掘り返され、移葬されることとなった。
埋葬当時は、土葬。そのために、強烈な異臭が漂う作業となった。座棺で葬られていて、骨は失われていたが、靴などはそのまま残っていた。同時に、大量の土砂が棺に入っていたという。
それぞれの兵士の遺留品は移葬した墓碑に埋めなおされたが、土はまとめて、「超日月光 霊土」の祭壇の下に埋められた。しかし、それだけでは収まりきらない量であった。
「ひとかけらといえども、道路の足蹴にしない」という奉賛会の意向もあり、その土は、「霊土」と名づけられて、もう一箇所別に埋める場所が確保された。それが、中段(現在の下段)の東側Bブロック付近である。
そこに目印として、「霊土」の碑が置かれている。
埋葬当時は、土葬。そのために、強烈な異臭が漂う作業となった。座棺で葬られていて、骨は失われていたが、靴などはそのまま残っていた。同時に、大量の土砂が棺に入っていたという。
それぞれの兵士の遺留品は移葬した墓碑に埋めなおされたが、土はまとめて、「超日月光 霊土」の祭壇の下に埋められた。しかし、それだけでは収まりきらない量であった。
「ひとかけらといえども、道路の足蹴にしない」という奉賛会の意向もあり、その土は、「霊土」と名づけられて、もう一箇所別に埋める場所が確保された。それが、中段(現在の下段)の東側Bブロック付近である。
そこに目印として、「霊土」の碑が置かれている。
「旧大津陸軍墓地移転対策委員会」の碑文@旧大津陸軍墓地 ― 2008/03/20
あらためて1976年移転地全体を見る@旧大津陸軍墓地 ― 2008/03/20
旧大津陸軍墓地は、1977(明治10)年に竣工したときは、上段・中段・下段という三層構造であった。つぎつぎと拡張されていったのは、中段である。最終的には、バイパス工事のために、下段は失われ、中段の一番西に移った。
移ったといっても、平らな土地があったわけではない。
谷を埋め立てて、それだけの土地を確保したのである。
したがって、中段は、
①当初あった部分(1877年)
②日清戦争の結果増設された部分(1897年)
③戦後バイパス工事のために造成され移設された部分(1976年)
に分かれる。
この墓地を調査し始めたころは、そのことを全く知ることはできなかった。
旧大津陸軍墓地は、上・下二段の構造であるとしか思わなかったのである
上の写真(既述のもの)は、上段から、1976年に増設され移葬された墓地を移したものである。
左のまとまりを、私は、Lブロック、手前のまとまりをKブロックと呼ぶことにした。
移ったといっても、平らな土地があったわけではない。
谷を埋め立てて、それだけの土地を確保したのである。
したがって、中段は、
①当初あった部分(1877年)
②日清戦争の結果増設された部分(1897年)
③戦後バイパス工事のために造成され移設された部分(1976年)
に分かれる。
この墓地を調査し始めたころは、そのことを全く知ることはできなかった。
旧大津陸軍墓地は、上・下二段の構造であるとしか思わなかったのである
上の写真(既述のもの)は、上段から、1976年に増設され移葬された墓地を移したものである。
左のまとまりを、私は、Lブロック、手前のまとまりをKブロックと呼ぶことにした。
中段に新たに移設された地蔵尊@旧大津陸軍墓地 ― 2008/03/20
この間、ずっと個人墓碑を調べてきた。バイパス工事による改変についても、同様であり、それ以外については、ほとんど注意を払うゆとりはなかった。
23日(明日)に予定されているミニ研究会では、旧大津陸軍墓地の全体像を報告するのがよいと思われるので、墓地全体を見ておくことにしたい。
上の写真(既出)には、「七地蔵」とロシア人俘虜の墓碑が写っている。右の樹の脇にぽつんと一基だけあるのが、ロシア人墓碑である。
●ロシア人俘虜の墓碑の位置について
戦前にこの場所に来た方の記憶によれば、ロシア人墓碑は、がけっぷちにあったという。となると、これは、移動させたのか、それとも、バイパス工事のときに、土地を下手に拡張したか、どちかである。
●七地蔵尊はどこにあったのか
「七地蔵」は、そもそもこの場所には、存在しなかった。バイパス工事以前の位置は、兵卒の墓地(下段)のすみにあったのである。
そのことに触れた碑文がある。
23日(明日)に予定されているミニ研究会では、旧大津陸軍墓地の全体像を報告するのがよいと思われるので、墓地全体を見ておくことにしたい。
上の写真(既出)には、「七地蔵」とロシア人俘虜の墓碑が写っている。右の樹の脇にぽつんと一基だけあるのが、ロシア人墓碑である。
●ロシア人俘虜の墓碑の位置について
戦前にこの場所に来た方の記憶によれば、ロシア人墓碑は、がけっぷちにあったという。となると、これは、移動させたのか、それとも、バイパス工事のときに、土地を下手に拡張したか、どちかである。
●七地蔵尊はどこにあったのか
「七地蔵」は、そもそもこの場所には、存在しなかった。バイパス工事以前の位置は、兵卒の墓地(下段)のすみにあったのである。
そのことに触れた碑文がある。
「七地蔵尊」移設の経過@旧大津陸軍墓地 ― 2008/03/20
1980年新設の「供養塔」@旧大津陸軍墓地 ― 2008/03/20
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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