
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
フォレオ大津一里山店・(仮称)イオンモール草津店に対する意見書(県へ提出)から ― 2008/04/20
大店立地法にもとづくフォレオ大津一里山店への意見書提出の期限が3月9日でした。「イオンモール出店反対とまちづくりを考える会」は、このことを草津市民と大津市民に知らせ、(仮称)イオンモール草津店への意見書(6月13日締切)ともども出そうとよびかけました。県に届けられた意見の数々をご紹介します。
意見書提出については、前回の記事を見てください。
上の写真は、工事がすすむ(仮称)イオンモール草津店
○大津市志賀町・女性
私は京都生まれで京都育ちで、こちらに来るまで京都の町で暮らしてきました。幼い時から商店街が元気で活気があり、そこを中心にくらしというものがあった。それは何十年と続いてきましたが、大型店が地元の反対にもかかわらず進出してからというもの商店街はあっという間にさびれてしまい、そのまわりのまちも崩れてきました。くらしに活気がないというか、人の見えない駐車場だけのまちとなりました。今くらし方そのものが、このままでは成り立たない地球環境になってきているのではないかとひしひし感じています。もう大きければよいという考えを変えねばと思っています。9時から深夜まで電気を使い、人を働かせどれだけのものが得られるのでしょうか。
様々な問題があるからこそ新まちづくり3法が施行されたのです。駆け込みだからと許されるわけではありません。もうつくってはならないのだと思います。また、車で押し寄せる時代は終わりました。高い燃料ももう使えなくなります。高齢化社会が来ると言われているのに誰が郊外まで買い物に行くのでしょう。できてからあとの害の方が大きいから反対するのです。どうぞ、滋賀県がそのような大型店の食い物にされないために、しっかり滋賀の暮らしを守ってください。商業と観光の振興は暮らしあってのものです。
○大津市・瀬田女性
南草津には青年が起業しているお店がたくさんあります。フォレオ、イオンはこのまちを直撃します。大型店が資本力で地元小売店をつぶすのは許せません。青年の開業の夢をつぶす大型店をストップしてください。
今でも渋滞でうんざりしています。許容範囲、基準内の交通量という説明もありますが、これ以上の渋滞は迷惑です。また、迂回路と称して税金で道をつくるのは筋違いです。
死角の多い大型店は子ども110番のお店になりかねません。
イオンはびわ湖の環境に直接悪影響を与えると思います。びわ湖が死んでしまわないように万全の対策をお願いします。
○大津市・瀬田・男性
私の住む湖州平自治会は浜街道が唯一の出口です。今でも浜街道は混雑がすごいのにイオンモールができるとマヒ状態になりことは目に見えています。生死にかかわる重大事です。なんとかしてください。
24時までの営業はショッピングセンターにあらず。せめて21時までにしてください。青少年のためにも・・・。
○大津市・瀬田女性
現在、瀬田から近江大橋を使い、子どもを膳所の障害者通所施設へ送迎しています。現在の所要時間は15分程度。これが近江大橋の交通渋滞で送迎時間が大幅に伸びるようになると、子どもの体への負担が大きくなり、通所に支障をきたします。1日の生活の見直しも必要になります。徹底した交通渋滞の対策をお願いします。
○大津市・瀬田・男性
現時点でも渋滞は最悪です。これ以上悪くなることは許せない。この問題提起は遅きに失する。今さら、どうするのって感じ。
まちが活気づき買い物が安くなれば良いが、治安の悪化が許されないことは言うまでもない。
市・県として税収オンリーの施策で容認しているとしか思えない。
○大津市・瀬田・女性
今の消費社会に拍車をかけるような大型店舗の出店に反対です。既存の店舗だけで生活に不便はないし、過度な競争をあおるようなことはやめてください。
排気ガスによる環境汚染、また、遠方からの買い物客が増えるということはCO2が増えます。環境後進国まっしぐらに歯止めを!
○大津市・瀬田・男性
時代の流れで大型店が進出するのが多いが中小の店もやっていける共存共栄の案と、細かいことも住民の声を聞いて、取り入れてほしい。
大通りを避けて車が枝(道)へ入って、スピードを大通りと(同じように出していいと)勘違いをされると、子どもやお年寄りが事故にある率が増える。大通りで車をさばいてほしい!
○草津市・女性
車に乗らないと行けないような所に大型店舗ができ、近くの小売店がなくなれば、高齢者にとって買い物ができなくなります。
今でも草津から大津へ行くとき、特に土曜日、日曜日は大渋滞で、すごく時間がかかって困っています。近江大橋の手前に4,000台以上の車が行くようになったら、どうなることかと思います。空気汚染も心配です。
24時間営業とか、深夜営業があるのは異常だと思います。
もし、思ったように利益が上がらなくてイオンが撤退したら、どうなるのですか?あとはゴーストタウンにならない保障はあるのですか。そうなったとき、イオンに責任を持つように約束させてください。
意見書提出については、前回の記事を見てください。
上の写真は、工事がすすむ(仮称)イオンモール草津店
破壊をまぬがれた「戦友」の歌碑@京都 ― 2008/04/20
京都の知恩院の近くに良正院があります。そこに「こ々は御国を何百里」と刻まれた『戦友』の歌碑が建っています。
歌碑の前には、「良正院由来」という立て札があり、そのなかで「戦友」の歌碑についても触れています。
1200年を越える古都にある真新しい戦争の碑です。
ちなみに歌詞は以下のとおりです。著作権が歌詞については切れているそうなので、そのまま引用します。
細井師がどのような弁護をされたのか興味はあります。しかし、この歌詞を現在どう読むのかは、それぞれの生き方に深くかかわるものとなるでしょう。
日露戦争が終わる明治三十八年の作でした。
歌碑の前には、「良正院由来」という立て札があり、そのなかで「戦友」の歌碑についても触れています。
「良正院由来」より
『・・・門前の「戦友」の歌碑は、作詞者真下飛泉氏の終焉の地に近く、氏の教え子1824人が顕彰して昭和2年(1927)建立した。文字は「肉弾」等の著者桜井忠熊氏である。終戦後歌詞が軍国調であるとして進駐軍より破壊を命じられたが、当時の住職細井照道師の弁護により破壊を免れ、今ここに在る。』
1200年を越える古都にある真新しい戦争の碑です。
ちなみに歌詞は以下のとおりです。著作権が歌詞については切れているそうなので、そのまま引用します。
細井師がどのような弁護をされたのか興味はあります。しかし、この歌詞を現在どう読むのかは、それぞれの生き方に深くかかわるものとなるでしょう。
戦友 作詞:真下 飛泉
一、
ここは御国を何百里 離れて遠き満州の
赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下
二、
思えば悲し昨日まで 真っ先駈けて突進し
敵を散々懲らしたる 勇士はここに眠れるか
三、
ああ戦いの最中に 隣に居ったこの友の
俄かにはたと倒れしを 我は思わず駆け寄って
四、
軍律厳しき中なれど これが見捨てて置かりょうか
しっかりせよと抱き起こし 仮包帯も弾の中
五、
折から起こる突貫に 友はようよう顔上げて
「お国の為だかまわずに 遅れてくれな」と目に涙
六、
後に心は残れども 残しちゃならぬこ身体(からだ)
「それじゃ行くよ」と別れたが 永の別れとなったのか
七、
戦いすんで日が暮れて 探しに戻る心では
どうぞ生きてて居てくれよ ものなといえど願(ねご)うたに
八、
虚しく冷えて魂は 故郷(くに)に帰ったポケットに
時計ばかりがコチコチと 動いているも情けなや
九、
思えば去年船出して 御国が見えずなった時
玄海灘で手を握り 名を名乗ったが始めにて
十、
それから後は一本の タバコも二人で分けてのみ
着いた手紙も見せ合(お)うて 身の上話繰り返し
十一、
肩を抱いては口癖に どうせ命は無いものよ
死んだら骨を頼むぞと 言い交わしたる二人仲
十二、
思いもよらず我一人 不思議に命永らえて
赤い夕日の満州に 友の塚穴掘ろうとは
十三、
隈なく晴れた月今宵 心しみじみ筆とって
友の最後をこまごまと 親御へ送るこの手紙
十四、
筆の運びは拙いが 行燈(あんど)の陰で親達の
読まるる心思いやり 思わず落とす一滴(ひとしずく)
日露戦争が終わる明治三十八年の作でした。
時のながれ、季節のながれを感じて ― 2008/04/20
木につるがまきついて、均等に葉をつけています。その規則正しさが面白くて、去年から眺めていました。
10月の写真は、これ(←クリック)ですし、12月の写真は(クリック→)これです。
年を越すあたりから葉が落ち、つるさえ目に映らなくなっていました。冬のあいだは、その存在すら気がつきません。春になったら、どうなるんだろうと思っていました。3月に見ると、小さな小さな葉の芽がでていました。それを撮影しようと思っていたら、もう4月。葉はすっかり復活しています。
この葉の変化を見ながら、頭に浮かんだことを書いてみます。
BS2がピアニストのアファナシエフを取り上げた番組を制作し、再放送していました。感想を少し書いたことがありますが、心にひっかかって仕方がなかったことは、日本文学、とくにアファナシエフの場合は、「徒然草」が大きな影響を与え、心のよりどころの一つになっていたことでした。
なぜ、ひっかかっていたのか。
それは、当の日本人にとって、いえいえ一般化してはいけません、私にとって、日本の古典文学は、生き方とか美意識などを築く土壌ではなかったからです。以前、自分の住む大津市が自らのよさを自覚せず破壊してばかりいるとフェノロサを例にひいて書いたことがあります。同じ批判が自分に向くわけです。
もう一つ。
グレン・グールドについての番組が、5月からNHKで始まります。(なんかNHKネタが多いですが)宮沢淳一氏が語り部ですが、テキストを読めば、夏目漱石の「草枕」が登場します。
グレン・グールドが臨終の床につきながら、最後まで枕元に置いていたのがこの本でした。もちろん、夏目漱石とグレン・グールドを扱った本があるのは知っていましたが、少し洒落た挿話程度だと思って購入しながら読みもしていませんでした。
アファナシエフといい、グレン・グールドといい、すぐれた音楽家が日本の美意識に惹かれているのです。
過去につながっていない自分に対して、なさけない気分です。
自己弁護するつもりはありませんが、かつての美意識との断絶は、現代日本がかかえる過度の競争やゆとりのなさと関係がある現象ではないでしょうか。
そういえば、宮沢和史さんも、そういうことを書いていました。
カメラを買って、まちや風景や花を撮ることで、自分が取り戻しつつある感覚があります。それは、季節の流れ、時の流れの感覚だと思います。
同じ地上には、人間などとはまったくかかわりなく進むものがある・・・そういう時の流れが存在することに気づいたのです。うまくいえませんが、わかっていただけることと思います。
10月の写真は、これ(←クリック)ですし、12月の写真は(クリック→)これです。
年を越すあたりから葉が落ち、つるさえ目に映らなくなっていました。冬のあいだは、その存在すら気がつきません。春になったら、どうなるんだろうと思っていました。3月に見ると、小さな小さな葉の芽がでていました。それを撮影しようと思っていたら、もう4月。葉はすっかり復活しています。
この葉の変化を見ながら、頭に浮かんだことを書いてみます。
BS2がピアニストのアファナシエフを取り上げた番組を制作し、再放送していました。感想を少し書いたことがありますが、心にひっかかって仕方がなかったことは、日本文学、とくにアファナシエフの場合は、「徒然草」が大きな影響を与え、心のよりどころの一つになっていたことでした。
なぜ、ひっかかっていたのか。
それは、当の日本人にとって、いえいえ一般化してはいけません、私にとって、日本の古典文学は、生き方とか美意識などを築く土壌ではなかったからです。以前、自分の住む大津市が自らのよさを自覚せず破壊してばかりいるとフェノロサを例にひいて書いたことがあります。同じ批判が自分に向くわけです。
もう一つ。
グレン・グールドについての番組が、5月からNHKで始まります。(なんかNHKネタが多いですが)宮沢淳一氏が語り部ですが、テキストを読めば、夏目漱石の「草枕」が登場します。
グレン・グールドが臨終の床につきながら、最後まで枕元に置いていたのがこの本でした。もちろん、夏目漱石とグレン・グールドを扱った本があるのは知っていましたが、少し洒落た挿話程度だと思って購入しながら読みもしていませんでした。
アファナシエフといい、グレン・グールドといい、すぐれた音楽家が日本の美意識に惹かれているのです。
過去につながっていない自分に対して、なさけない気分です。
自己弁護するつもりはありませんが、かつての美意識との断絶は、現代日本がかかえる過度の競争やゆとりのなさと関係がある現象ではないでしょうか。
そういえば、宮沢和史さんも、そういうことを書いていました。
カメラを買って、まちや風景や花を撮ることで、自分が取り戻しつつある感覚があります。それは、季節の流れ、時の流れの感覚だと思います。
同じ地上には、人間などとはまったくかかわりなく進むものがある・・・そういう時の流れが存在することに気づいたのです。うまくいえませんが、わかっていただけることと思います。
黄色いゲスト? ― 2008/04/20
わが家の玄関には、「ニオイマツリカ」(匂い蕃茉莉 )が植わっています。暖かかくなってきましたので、新芽も出て、木全体が元気になりはじめています。
ニオイマツリカの花の色は、赤紫であり、青紫。
ところが、見慣れない色の花が足元で咲いています。
去年は、たしか見たことがないんですが?
わが家は公園に面した場所にありますので、そこから種が飛んできたのかも知れません。
黄色いゲストを歓迎します。けれど、名前が?
ニオイマツリカの花の色は、赤紫であり、青紫。
ところが、見慣れない色の花が足元で咲いています。
去年は、たしか見たことがないんですが?
わが家は公園に面した場所にありますので、そこから種が飛んできたのかも知れません。
黄色いゲストを歓迎します。けれど、名前が?

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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