お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
地球温暖化、たいへんさに気がついたら、声をかけることからはじめるのがいい・・・ ― 2008/06/24
リアルな数値を突きつけられると、「地球温暖化って大変だ!」とまず思います。その衝撃から、われに返ると、「じゃあ、なにをしたらいいんだろう?」「エコバックとか、こまめに電気を消すとか、だけでいいんだろうか」って考え始めます。その疑問への回答がほしくなります。
それで、いろいろ探して見ると、地球温暖化防止京都ネットワーク代表委員の榊原義道さんが、「京都市にみる--地球温暖化対策に大きな影響を与える環境市民運動」という小論のなかで、つぎのように書いているのを見つけました。
すると、事務所に電話がなり、日本科学者会議の大竹さんから電話。「8月2日に地球温暖化問題の講演と学習会がある」という連絡。・・・なるほど、世論が動き、「化石賞」量産の日本政府を動かす日はそんなに遠くないと思いました。
メモ
気候ネットワーク
1998年4月設立。
1999年11月から特定非営利活動法人。
京都ネット(地球温暖化防止京都ネットワーク)
1997年12月の地球温暖化防止国際会議(COP3)に向けて、「気候フォーラム京都ネット」が結成。1998年3月7日、「地球温暖化防止京都ネットワーク」(通称京都ネット)と名を改め設立。
それで、いろいろ探して見ると、地球温暖化防止京都ネットワーク代表委員の榊原義道さんが、「京都市にみる--地球温暖化対策に大きな影響を与える環境市民運動」という小論のなかで、つぎのように書いているのを見つけました。
今年、各地で「地球温暖化」問題を考える企画が増え、「地球温暖化の話をしてほしい」という声が急増している。そういう集まりで、よく出される声がある。「温暖化問題は大切だが、何をしていいかわからない」。これに対して、最近は、こうこたえている。「まわりに声を掛け、勉強会でもいいから、動いてみるといいですよ」。動いてみると一緒にやろうという人が集まり、運動を続けると、必ず世論も動きます。なるほど、そうでした。
すると、事務所に電話がなり、日本科学者会議の大竹さんから電話。「8月2日に地球温暖化問題の講演と学習会がある」という連絡。・・・なるほど、世論が動き、「化石賞」量産の日本政府を動かす日はそんなに遠くないと思いました。
メモ
気候ネットワーク
1998年4月設立。
1999年11月から特定非営利活動法人。
京都ネット(地球温暖化防止京都ネットワーク)
1997年12月の地球温暖化防止国際会議(COP3)に向けて、「気候フォーラム京都ネット」が結成。1998年3月7日、「地球温暖化防止京都ネットワーク」(通称京都ネット)と名を改め設立。
イオンモール出店反対と地球温暖化対策が重なる日 ― 2008/06/24
ここ数日の梅雨空とはうってかわって、午後から、日差しがとても強くなりました。事務所経費節約や地球温暖化のために、3階立ての事務所は、窓を開け放し、スダレが掛けてあります。排気ガスや工場排煙には困りますけれど。
なんか地球温暖化対策熱中モードになっていますが、先日の「STOP地球温暖化」シンポジウムのパネラー・滋賀県琵琶湖環境科学研究センター・センター長(京都大学名誉教授)の内藤正明さんが作成したパンフがとても面白かったのです。
上下二段で、ありえる未来像が併記されています。上段は、食糧自給、太陽光発電や歩いて生活できるまちづくり。下段は、大量生産・大量消費、高度な輸送手段と原子力発電。車社会を前提とした郊外型大型複合商業施設がならぶまち。
あなたはどっちの未来を選びますか・・・というものです。
「化石燃料はなくなります。化石燃料がなくなれば、車はなくなります。車がなくなれば、郊外型のショッピングセンターがなくなります。そんなものがいらない社会にしないと・・・」という温厚な容姿とはかけ離れた過激で断定的なお話でした。「このようにしなければ、目標数値は絶対達成できません」
これって、私たちが《イオンモール出店反対とまちづくりを考える会》で議論してきたことと同じなんです。当面、まちづくりでも訴えてきましたが、交通渋滞はやめてくれという一致点を中心にした世論に支えられてきました。交通渋滞は重大です。でも、そういう対症療法だけではなく、めざしているのは根本療法、つまり、だれもが安心してくらせるまちづくり、地産地消のまち。自然と共存し、あるいていける距離に身近な商店街をはぐくむまちなのです。
そういう構想が、地球温暖化対策と多くの一致点があるという発見は、私たちの主張に未来があると確信できた日でした。
なんか地球温暖化対策熱中モードになっていますが、先日の「STOP地球温暖化」シンポジウムのパネラー・滋賀県琵琶湖環境科学研究センター・センター長(京都大学名誉教授)の内藤正明さんが作成したパンフがとても面白かったのです。
上下二段で、ありえる未来像が併記されています。上段は、食糧自給、太陽光発電や歩いて生活できるまちづくり。下段は、大量生産・大量消費、高度な輸送手段と原子力発電。車社会を前提とした郊外型大型複合商業施設がならぶまち。
あなたはどっちの未来を選びますか・・・というものです。
「化石燃料はなくなります。化石燃料がなくなれば、車はなくなります。車がなくなれば、郊外型のショッピングセンターがなくなります。そんなものがいらない社会にしないと・・・」という温厚な容姿とはかけ離れた過激で断定的なお話でした。「このようにしなければ、目標数値は絶対達成できません」
これって、私たちが《イオンモール出店反対とまちづくりを考える会》で議論してきたことと同じなんです。当面、まちづくりでも訴えてきましたが、交通渋滞はやめてくれという一致点を中心にした世論に支えられてきました。交通渋滞は重大です。でも、そういう対症療法だけではなく、めざしているのは根本療法、つまり、だれもが安心してくらせるまちづくり、地産地消のまち。自然と共存し、あるいていける距離に身近な商店街をはぐくむまちなのです。
そういう構想が、地球温暖化対策と多くの一致点があるという発見は、私たちの主張に未来があると確信できた日でした。
サイト『古屋哲夫の足跡』に ― 2008/06/24
『古屋哲夫の足跡』(←クリック)というサイトがあります。
「大阪鎮台」などをキーワードの検索して見つけました。
サイトを散歩しているうちに、古屋哲夫氏が『新修・大津市史』(近代)の著者の一人であり、私がこの一年間ほど追求している「第九連隊」の章の執筆者であることを知り、驚きました。直接、話ができればと連絡先を探してみました。
《ご挨拶》(←クリック)には、以下のように書かれています。
このご挨拶で、古屋哲夫という人の人柄がよくわかります。そして、サイトを死後も大事に維持されているご遺族に敬意を表します。
昨日から、これもまた最近亡くなられた小田実氏の『「難死」思想』(岩波現代文庫)を読んでいます。戦争と敗戦、社会の崩壊と価値の大転換を経験してきた世代のかけがえのない体験と強烈な思いがつづられています。
古屋哲夫さんのサイトと業績を俯瞰していると、小田実さんと同様の強固な人間の核に向き合っているのを感じました。
「大阪鎮台」などをキーワードの検索して見つけました。
サイトを散歩しているうちに、古屋哲夫氏が『新修・大津市史』(近代)の著者の一人であり、私がこの一年間ほど追求している「第九連隊」の章の執筆者であることを知り、驚きました。直接、話ができればと連絡先を探してみました。
《ご挨拶》(←クリック)には、以下のように書かれています。
私 古屋哲夫は、2006年12月2日午後2時2分、この世を去りました。
自分の人生は、自分の能力からすれば出来すぎだ。
日本人として、初めて敗戦を経験する事も出来て満足している。
神様がもう一度初めから人間をやらせてやると言われても、御断りして、その分長生きさせてくれるよう御願いしたい。
今、死と言うこの世の運命を受け入れ、あの世の新しい運命と取り組みます。
このご挨拶で、古屋哲夫という人の人柄がよくわかります。そして、サイトを死後も大事に維持されているご遺族に敬意を表します。
昨日から、これもまた最近亡くなられた小田実氏の『「難死」思想』(岩波現代文庫)を読んでいます。戦争と敗戦、社会の崩壊と価値の大転換を経験してきた世代のかけがえのない体験と強烈な思いがつづられています。
古屋哲夫さんのサイトと業績を俯瞰していると、小田実さんと同様の強固な人間の核に向き合っているのを感じました。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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