
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
鶴見俊輔 『漫画の戦後思想』(文芸春秋 1973年) ― 2008/07/09
古本屋さんで買って、さっき読み終わりました。
出たのは、1973年ですから、もう40年以上前の本です。
鶴見さんも漫画が好きだったんですね。ほっとしました。
「1 はじめに」は総論。
短い小ですけれど、漫画の起源をグローバル的に触れていて、最近読んだ清水勲さんの本と重なる重さをもっています。
そうそう、つぎのような表現はいかにも鶴見さんらしいと思いました。
取り上げられている作家は、「サザエさん」の長谷川町子以外すべて男性で、現在では古典的な地位をえている作家ばかり。手塚治虫、白戸三平、水木しげる、つげ義春。
少女漫画のジャンルから作家が登場しないのは、鶴見さんの守備範囲もあるでしょうけれど、執筆年代の制約が大だと思われます。
もし私が出版当時に読めば、きっと機械的に反発したであろう箇所もありました。それに、鶴見さんが書いた当時、私は単なるマンガ少年。批判的に読んだり、作家と作品のかかわりなんて考えもしませんでした。あらためて、時代の空気も知り、記憶と重ねて、「そうだったんだ!」と懐かしく思ったり、目からウロコが落ちたりして、手を止めることがしばしばでした。
いまは8人になってしまいましたが、鶴見俊輔さんは「九条の会」の呼びかけ人のお一人。ニ三年前には、(いまは大津市)志賀町で講演をおききしました。
そういうご縁でもありますから、私からのメッセージを書いて見ます。読んでいただけるかどうかは別にして。
出たのは、1973年ですから、もう40年以上前の本です。
鶴見さんも漫画が好きだったんですね。ほっとしました。
「1 はじめに」は総論。
短い小ですけれど、漫画の起源をグローバル的に触れていて、最近読んだ清水勲さんの本と重なる重さをもっています。
そうそう、つぎのような表現はいかにも鶴見さんらしいと思いました。
からだのこるところがちがうように、心のこるところも人によってちがう。自分の精神のもっともこりやすいところに適した体操がある。自分の好きな漫画家とは、自分の精神に生じるこわばりを、その漫画家にしかできない仕方でやわらげる人だ。
取り上げられている作家は、「サザエさん」の長谷川町子以外すべて男性で、現在では古典的な地位をえている作家ばかり。手塚治虫、白戸三平、水木しげる、つげ義春。
少女漫画のジャンルから作家が登場しないのは、鶴見さんの守備範囲もあるでしょうけれど、執筆年代の制約が大だと思われます。
もし私が出版当時に読めば、きっと機械的に反発したであろう箇所もありました。それに、鶴見さんが書いた当時、私は単なるマンガ少年。批判的に読んだり、作家と作品のかかわりなんて考えもしませんでした。あらためて、時代の空気も知り、記憶と重ねて、「そうだったんだ!」と懐かしく思ったり、目からウロコが落ちたりして、手を止めることがしばしばでした。
いまは8人になってしまいましたが、鶴見俊輔さんは「九条の会」の呼びかけ人のお一人。ニ三年前には、(いまは大津市)志賀町で講演をおききしました。
そういうご縁でもありますから、私からのメッセージを書いて見ます。読んでいただけるかどうかは別にして。
敬愛する鶴見俊輔さん、
あなたの仕事に触れて、心から共感できたことをうれしく思いました。
あなたは、九条の会の発足記念講演会のなかで、憲法を守れという思い以外に、「私は敗者の立場にたとうと思ってきました」とおっしゃいました。
「憲法を守ろうという運動が負けるって思っているのかな?」なとど、野暮なつっこみを入れるつもりではありません。
あなたは、戦争中にアメリカ留学していて、敗戦濃厚の日本に帰国するかどうかの選択に立ち会いました。そのとき、死が待っているかもしれないのに、帰国を選ばれました。そのときの思いをこの言葉で表現されましたね。私は、あなたの生きた文脈のなかで、その言葉をかみしめ、「九条の会」をつくられたときのお気持ちを理解しました。
それから数年、九条を選びなおそうという人のつながりはかつてなく広がりました。あなたの憲法への帰国の決意が人を動かしたのです。
憲法改悪の企てがなくなるその日まで、元気でおられることをお祈りします。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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