お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
カエルの不思議なタテジマ ― 2008/08/20
「七本官軍墓地」で大阪鎮台第九連隊兵士の墓碑を探す ― 2008/08/20
西南戦争で戦死した官軍将校と兵士の墓地を見て回りたいというのが昨年からの私の希望でした。今年の夏、その一部がかなうことになりました。
強引に家族を連れ出しましたが、H君は「お父さんの趣味につきあわされる」といって苦笑しています。
8月15日。九州に到着したその日に出かけました。
午後からの半日の日程しかありません。ですから、「田原坂」と「七本(なもと)官軍墓地」をめざして、竹田市から出かけました。
車で2時間近く走り、ようやく道沿いに「七本官軍墓地」の看板を見つけました。私は勇んでハンドルを切りましたが、家族はどうも迷惑そうです。
ここには約300名の墓碑があります。
1柱づつじっくり見て回りたかったのですが、家族のことを考えるとそうはいきません。K君に手伝ってもらって、ある墓碑を探しました。それは、私の住む大津市にあった「大阪鎮台歩兵第九連隊」兵士の墓碑です。
時間がなかったので、すべての墓碑に目を通したつもりでも見落としがあるかも知れません。見つけたのはこの1柱だけでした。
それでも、大津に営所を置いた第九連隊の兵士の墓碑が現地に存在するということが推測や伝聞だけでなく、事実として確認できたことは収穫だと思いました。
K君は聞きました。
「お父さん、こんなことしてなんの意味があるの」
言葉につまりました。
とてもひとことではいえなかったからです。
その間に、K君は別のところに関心が移ったようで、話題は流れていきました。
私がK君にいいそびれたのは、一つの問いかけです。
明治政府により強制的に徴兵され、わずか2年間で激戦地に派兵され、亡くなった若者たち。その墓がここにある・・・。第二次世界大戦まで続く軍国主義・日本の悲劇の最初の犠牲者がここに眠る。その若者たちに、130年の時をへだてて、私が向かい合いたいと願うのは、なんのためだと思いますか。
強引に家族を連れ出しましたが、H君は「お父さんの趣味につきあわされる」といって苦笑しています。
8月15日。九州に到着したその日に出かけました。
午後からの半日の日程しかありません。ですから、「田原坂」と「七本(なもと)官軍墓地」をめざして、竹田市から出かけました。
車で2時間近く走り、ようやく道沿いに「七本官軍墓地」の看板を見つけました。私は勇んでハンドルを切りましたが、家族はどうも迷惑そうです。
ここには約300名の墓碑があります。
1柱づつじっくり見て回りたかったのですが、家族のことを考えるとそうはいきません。K君に手伝ってもらって、ある墓碑を探しました。それは、私の住む大津市にあった「大阪鎮台歩兵第九連隊」兵士の墓碑です。
時間がなかったので、すべての墓碑に目を通したつもりでも見落としがあるかも知れません。見つけたのはこの1柱だけでした。
それでも、大津に営所を置いた第九連隊の兵士の墓碑が現地に存在するということが推測や伝聞だけでなく、事実として確認できたことは収穫だと思いました。
K君は聞きました。
「お父さん、こんなことしてなんの意味があるの」
言葉につまりました。
とてもひとことではいえなかったからです。
その間に、K君は別のところに関心が移ったようで、話題は流れていきました。
私がK君にいいそびれたのは、一つの問いかけです。
明治政府により強制的に徴兵され、わずか2年間で激戦地に派兵され、亡くなった若者たち。その墓がここにある・・・。第二次世界大戦まで続く軍国主義・日本の悲劇の最初の犠牲者がここに眠る。その若者たちに、130年の時をへだてて、私が向かい合いたいと願うのは、なんのためだと思いますか。
カニをはさみうち ― 2008/08/20
庭の花 ― 2008/08/20
反核ウォーキングで軍都大津の遺跡をめぐる(8月6日) ― 2008/08/20
昨年の「原爆に日」は、恒例となっている
三井寺の原爆慰霊祭に行きました。
今年は、新日本スポーツ連盟のお誘いをうけて、
「反核ウォーキング」に参加したのです。
平日で猛暑の最中、10名程度の集まりでしたが、
汗を拭き吹き皇子が丘公園から坂道を登りました。
久しぶりに準備体操をしたのが新鮮でした。
このウォーキングは”軍都大津の遺跡をめぐる”
というテーマを持っていました。
私の役割は、旧大津陸軍墓地のガイドでした。
与えられたのはごく短い時間でしたので、
資料を用意して、不足を埋めることにしました。
その一部を掲載します。
興味ある方はお読みください。
参加された方、いきなりの豪雨で驚きましたね。
また誘ってください。
三井寺の原爆慰霊祭に行きました。
今年は、新日本スポーツ連盟のお誘いをうけて、
「反核ウォーキング」に参加したのです。
平日で猛暑の最中、10名程度の集まりでしたが、
汗を拭き吹き皇子が丘公園から坂道を登りました。
久しぶりに準備体操をしたのが新鮮でした。
このウォーキングは”軍都大津の遺跡をめぐる”
というテーマを持っていました。
私の役割は、旧大津陸軍墓地のガイドでした。
与えられたのはごく短い時間でしたので、
資料を用意して、不足を埋めることにしました。
その一部を掲載します。
興味ある方はお読みください。
参加された方、いきなりの豪雨で驚きましたね。
また誘ってください。
旧大津陸軍墓地から、平和のためになにを学ぶことができるのか
反核ウォーキングの参加者のみなさんへ
2008年8月6日(水) BIN★
はじめに
昨年の11月24日にここ旧大津陸軍墓地で「旧大津陸軍墓地を見て考え語り合う集い」を行いました。主催は、私と護持奉賛会の奥村和治さんでした。私は、旧大津陸軍墓地が戦争と軍について考える貴重な遺産であり、その調査と保存をすべきだという立場から、奥村さんは、英霊を追悼する聖なる場としてこの墓地を多くの人に知ってほしいという立場だったと思います。
その集いには、大阪の「旧真田山陸軍墓地とその保存について考える会」からも参加がありました。旧真田山陸軍墓地は日本最大の陸軍墓地です。その研究と保存のために活動している会です。同様のものを、私は旧大津陸軍墓地についてもつくりたいと願っています。今年の3月23日には、同会の第8回研究会で、私は旧大津陸軍墓地についての調査報告をさせてもいただきました。
今日のウォーキングで話しようと思ったのは、上記の活動の一環として、この墓地の意義と保存を多くの人に訴えるためです。
与えられた時間は、10分ですので、語りつくせるものではありませんので、必要なことを文書としてお配りすることにしました。
●陸軍墓地とはなにか、靖国神社とはどこがちがうのか
天皇のために命をささげた英霊が眠る場所が靖国神社。それは、日本が19世紀後半から行った侵略戦争を美化し、あらたな英霊をつくりだそうとする施設です。
陸軍墓地はちがいます。
明治政府が士族によらない独自の軍隊をつくりだすプロセスから生まれたものです。すなわち、徴兵制度をしき、6鎮台制のもとで、連隊の営所を建設する。訓練がはじまると死者が出る。それを葬る場所として陸軍墓地が必要となりました。
大津には、明治8年に大阪鎮台第九連隊が置かれることになりました。そこに600人以上の若者が常駐。激しい訓練となります。その結果、死者がうまれますが、交通手段の発達していない当時、遠い故郷に葬ることができないために、営所近くに附属埋葬地として造られました。大津に完成したのは、西南戦争の直後、明治10年10月でした。
当初の名称は、「大津営所付埋葬地」でした。
創立された徴兵軍は、国内では西南戦争、対外的には日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦を戦います。そのなかで、この墓地にも、戦死者を祭られる碑も作られました。
しかし、靖国神社と決定的にちがうのは、俘虜(捕虜)の墓碑が置かれていることです。靖国神社に敵国兵士が祭られることは、ありえません。
●旧大津陸軍墓地での外国俘虜の墓碑
旧大津陸軍墓地には、ほぼ600の個人墓碑があります。将校、下士官、兵士は、段々畑のような構造となっていることを利用して、階級的に区別されています。
そのなかに、3基の外国人墓碑を見ることができます。
それらすべてこの大津市の俘虜収容所に連行され、そこで亡くなくなった人の墓碑です。
1名はロシア人。日露戦争の俘虜です。2名は中国人。日清戦争の俘虜です。
全国的には、松山に大きなロシア人墓地があります。旧真田山墓地にも、清国兵士の墓碑やドイツ人兵士(第一次世界大戦)の墓碑があります。
したがって、大津だけのものではありません。
●2基の中国人墓碑
まもなく北京オリンピックが始まります。
その関係もあり、中国人墓碑についてだけ、ご紹介します。
1894年から96年(下関条約以降の台湾征服戦争も含め)に日清戦争を行いました。このときに、多数の俘虜を抱えます。日本にとってはじめての体験でした。それらの人々を、国内に輸送し、収容します。収容所が置かれたのは、広島、松山、大阪、大津、名古屋、豊橋、東京、高崎、佐倉の9箇所です。
そのうち、死者が出たのは、名古屋を除く8箇所。しかし、墓碑があるのは、大阪、広島、豊橋そして大津です。
大阪・真田山に6基(死亡者は10名もしくは9名)、広島に4基、豊橋に1基、そして大津に2基。合計13基に過ぎません。
その意味では、日清戦争の実態をつたえる貴重な遺産なのです。
いつ、どのような経路で俘虜が移送され、どこに収容され、どこで死亡したのかについては、新聞記事を資料としてつけてあります。
「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」で知り合った塚崎昌之さんが届けてくれた資料です。公式の報告書も存在して、インターネットで閲覧することもできます。
見ての通り、JR大津駅近くの別院と京阪札の辻駅付近の本長寺です。 残念ながら、ふたつの寺院では資料がないそうです。
●最後に調査と保存を訴える
口頭で。
ムー♂ネコ ただいま6㎏ ― 2008/08/20
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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