お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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田原坂公園から田原坂へ2008/08/25

田原坂公園の駐車場
8月15日。七本官軍墓地、
七本柿木台場薩軍墓地と移動して、
家族をつれて、田原坂公園に急ぎました。

両軍の戦闘の経過を調べていれば、
もっと見所はあったはずなのですが、
まずは実際の田原坂が見たかったのです。

道路わきに、田原坂公園の標識。
なんでもないゲートを通り、
中に入ると、広い駐車場がありました。
やはり、有名な史跡だからですね。

いよいよ田原坂と対面と期待がふくらみましたが
資料館に入り、予備知識を深めることにしました。
資料館は崖に面していて、そこから外を
見渡すことが出来ます。


少し変な気がしました。
平坦な道を通ってきたはずなのに、
高いところにいるからです。

資料館を出て、慰霊塔を通り、
崇烈碑大楠木を見ました。



それで、田原坂はどこ?

坂が見当たらないじゃないかと思いました。
冷静に考えれば、公園は坂の頂上だと
わかるのですけれど。
大楠木の横から、田原坂への
道が通じていました。



田原坂であることを示すのは、
電話ボックスの手前にある小さな看板でした。
私は、どうしても自分の足で歩きたかったのです。
カミさんに車をまかせて、K君とふたりで、
歩いて坂を降りることにしました。
官軍が進んだ方向とは逆に、
三の坂」→「ニの坂」→「一の坂」と
下りました。

のどかな坂にしか見えません、田原坂2008/08/25

田原坂 一の坂
歴史に名を残す土地には、
不思議なオーラがあると思いたいのです。
しかし、それは勝手な思い込みに過ぎません。

西南戦争最大の激戦地であり、
明治10(1877)年3月4日から17日の戦闘で
官軍と薩軍あわせて、1687名の死者を
出した田原坂。



記念館の展示を見た後、
現場を訪れましたが、
のどかな夏の坂道が
まがりくねって伸びているだけに
思えました。



道端に「一の坂」、「ニの坂」、「三の坂」と彫られた
砲弾跡をイメージした掲示板がなければ、
戦争と無縁の坂のように思えます。
このような記念碑を除けば、
感覚的に戦を思わせるものは見当たりません。

しかし、丁寧に観察すれば
この坂の恐ろしさを今でも
感じとることができるのです。

田原坂の戦略的位置と加藤清正の業@西南戦争2008/08/25

田原坂入り口にある掲示板
田原坂は一見平凡な坂道に見えますが、
その位置と構造は、軍事的な重要性と
難所としての性格をもっている・・・
解説書には、そう書いてあります。

実情を知らない私なんかは、別の道を
通ればいいと思うのですが、そうはいかないのです。

西南戦争で福岡から上陸した官軍は、
薩軍に包囲された熊本城の解放に向かいます。
筑紫平野、玉名平野から熊本城に
迫るには、植木台地、北部台地、京町台地と
つならなる小高い台地に上る必要がある。
台地を二階とすれば、平野は一階。
その一階から二階に上がるためには、
田原坂は避けようのない階段にあたるそうです。
しかも、官軍の武器、とくに大砲を輸送しえる
幅をもつ坂道は、ここしかないといいます。

難所というのは、熊本城を築いた加藤清正が
上記のような戦略的位置を見通して、
独特の形をもつ坂道にしたためです。



つまり、坂を掘り抜き道(断面が凹の形)
にして、両側から狙撃できる形にしたこと、
くねくねと曲がる形で見通しもきかず、
伏兵を置きやすくしたのです。
つまり、攻めるに困難、守りに容易。
僅かな兵力でも、大軍を通さない構造です。



開戦から田原坂のたたかいまでの
歴史的経過を簡単にメモしておきます。

西南戦争は、1877年1月29日に鹿児島私学校連が、
草牟田の弾薬庫を襲撃したことに始まります。
ここにいたって、西郷隆盛は決起を決意。
2月15日、薩軍は7大隊編成で鹿児島を出発。
熊本鎮台の置かれている熊本城に進軍します。
明治政府は2月19日に鹿児島暴徒征討令を
発し、本格的な内戦となります。
2月22日と23日。薩軍は1万3千の勢力で
熊本城を総攻撃。守備はわずか3千ですが、
落とすことはできません。
官軍は、福岡に上陸し、熊本城めざして南下。
熊本から出て迎え撃つ薩軍と
2月25日から26日に、高瀬で会戦。
兵力はともに約3千。優勢な官軍に、薩軍は退却。
薩軍は、上記のように加藤清正が築いた防衛の要害、
田原坂で、官軍の熊本進軍を阻止することになります。

これを守れるかどうかが、熊本城の運命
ひいては薩軍の勝敗に直結するため、
西南戦争で最も多い犠牲者を生んだ
激しいたたかいになったのです。
1877年3月4日から20日のことです。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)