
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
ハナミズキ(白)は咲いていませんでした ― 2008/09/04
ハナミズキ(白)と書いてあるパネルを見つけました。
街路樹に取り付けてあります。
名前がかかれていなければ、どれがハナミズキか
わからないというのが私の花知識レベル。

でも、・・・花が咲いていません。
花期をわきまえない私ですから、咲かない木なのか
それとも、時期がちがうのか?
さっぱり。
この道を通る楽しみができました。
ところで、ハナミズキが気になるというもの、
一青窈という人のせいです。
最近、あざみ子さんのブログ
《きびをむく少女の指先傷つきてラムの琥珀酒カリブの海より来たる》で、 YOUTUBEの埋め込みが使われています。
南方熊楠の紹介は参考になったので、
私も試して見ることにしました。
街路樹に取り付けてあります。
名前がかかれていなければ、どれがハナミズキか
わからないというのが私の花知識レベル。

でも、・・・花が咲いていません。
花期をわきまえない私ですから、咲かない木なのか
それとも、時期がちがうのか?
さっぱり。
この道を通る楽しみができました。
ところで、ハナミズキが気になるというもの、
一青窈という人のせいです。
最近、あざみ子さんのブログ
《きびをむく少女の指先傷つきてラムの琥珀酒カリブの海より来たる》で、 YOUTUBEの埋め込みが使われています。
南方熊楠の紹介は参考になったので、
私も試して見ることにしました。
これまでマンジュウいくつ食ったか覚えているか! ― 2008/09/04
今日は休日。
午前中に私用をすませて、
幼いときから通いなれた商店街を
ぶらぶら歩くことにしました。
シャッターが閉まるお店も多く、入れ替わりも激しい。
しかし、ずっとなじみお店が生きています。
夜店のような太鼓焼きマンジュウの店。
ところで、太鼓焼きってわかりますか?
ハンバーグみたいな形で、中身はタイヤキと同じ、
白いアンコと普通のアンコが入ってます。
冬に母親に買い物に連れられてくるとき、
かならず、おねだりしたものです。
ふ~ふ~いって、出来立てをおいしく食べました。
記憶のあるかぎり、ずっとここにあります。
なつかしくて、近づきました。
「白アン、一個でもいい?」
おっちゃんは、返事もしないで、もぞもぞと
白アンのマンジュウをナマで差し出します。
私は手で受け取って、パクリ。
「おっちゃん、何年ぐらいやってるの?」
「そんなん数えてないなぁ」
ぶっきらぼうでもないけれど、スカした返事。
「私の小さいころから、ずっとお店がある・・・」
というと、すかさず
「これまでマンジュウ食った数、覚えているか?」
「いえいえ」
「まあ、それといっしょやなぁ」
(年齢とマンジュウが同じ?)
「おっちゃん、写真撮っていい?」
少し脅かそうと思っていうと、
「肖像権ってものがあるかなぁ」 とにやにや。
YESなのかNOなのか、あいまい。
まあ、いいや。
「お礼になるくらいたくさん買うときに 頼みなおすわ」
と言って、お店を後にしました。
またくる楽しみができたというものですから。
おっちゃんの方がお客より上です。
さすが商店街の古株!
やりとりで鍛えられているんですね。
でも、なんとなく悔しい(笑)
そこで、おっちゃんの写真はとれなかったけれど、
買ったマンジュウは私のもの。
お行儀は悪いですが、かじりかけの
マンジュウを写して、溜飲を下げました。
午前中に私用をすませて、
幼いときから通いなれた商店街を
ぶらぶら歩くことにしました。
シャッターが閉まるお店も多く、入れ替わりも激しい。
しかし、ずっとなじみお店が生きています。
夜店のような太鼓焼きマンジュウの店。
ところで、太鼓焼きってわかりますか?
ハンバーグみたいな形で、中身はタイヤキと同じ、
白いアンコと普通のアンコが入ってます。
冬に母親に買い物に連れられてくるとき、
かならず、おねだりしたものです。
ふ~ふ~いって、出来立てをおいしく食べました。
記憶のあるかぎり、ずっとここにあります。
なつかしくて、近づきました。
「白アン、一個でもいい?」
おっちゃんは、返事もしないで、もぞもぞと
白アンのマンジュウをナマで差し出します。
私は手で受け取って、パクリ。
「おっちゃん、何年ぐらいやってるの?」
「そんなん数えてないなぁ」
ぶっきらぼうでもないけれど、スカした返事。
「私の小さいころから、ずっとお店がある・・・」
というと、すかさず
「これまでマンジュウ食った数、覚えているか?」
「いえいえ」
「まあ、それといっしょやなぁ」
(年齢とマンジュウが同じ?)
「おっちゃん、写真撮っていい?」
少し脅かそうと思っていうと、
「肖像権ってものがあるかなぁ」 とにやにや。
YESなのかNOなのか、あいまい。
まあ、いいや。
「お礼になるくらいたくさん買うときに 頼みなおすわ」
と言って、お店を後にしました。
またくる楽しみができたというものですから。
おっちゃんの方がお客より上です。
さすが商店街の古株!
やりとりで鍛えられているんですね。
でも、なんとなく悔しい(笑)
そこで、おっちゃんの写真はとれなかったけれど、
買ったマンジュウは私のもの。
お行儀は悪いですが、かじりかけの
マンジュウを写して、溜飲を下げました。
捨て猫と飼い猫の境目で ― 2008/09/04
街中で、細身のトラネコに出会いました。
さっそく記念撮影をしようとカメラを取り出しました。
すると、ネコさんは、ねころぶのをやめ、そそくさと移動。
逃げなくてもいいのにと思いましたが、
それは無理。
だって、飼い主でもない人が
カメラもって迫ってくるんですから。
飼い猫は、それでも人間になれているので、
迷惑そうでも、普通にカメラに収まってくれます。

ほんとうの捨て猫なら、そうはいきません。
う~ん、そうでもないかな。
捨て子猫なら、けんめいに寄ってくる
かもしれませんね。
《犬と歩けばゴミを拾う in 沖縄》の
ばるタンさんが、ずいぶん悩まれた結果、
黒猫(ニャンギラスという名前に)を飼うことになりました。
気の毒な捨て猫を見るにみかねてという事情。
よくわかります。
一匹飼ったあと、
つぎつぎと捨て猫を飼うはめに
陥ったのは、わが家も同じです。
ただ病気の感染が心配。
最近、よくおじゃましている
《猫の耳もとで 今夜もひとりごと》の
sophiamamaさんちには、
飼い猫だけで5匹いるとか。苦労がわかります。
わが家では最初にメー♀ネコを飼いました。

その次にきたのがムー♂ネコ。

あまり記憶がありませんが、やはり、
検査結果がでないまえは、隔離していたと
いっています。
結果は問題なく、しばらくして、二匹はまあ
普通に暮らせるようになりました。
最後に来たのが、モー♂ネコ。

このネコは、コロナウィルスを持っていました。
感染力が低いとききましたが、メーと
ムーに予防注射をして、いっしょにしました。
隔離期間のせいなのか、モー♂ネコは、
なかなか家族になじみませんでした。
なじんでいたのは、毎日毎日世話をした
カミさんだけでした。
.モーは、メーにも、ムーにも嫌われて
とても気の毒でした。
近づいていっては、ネコパンチされて
すごすご引き返しては、めそめそしていました。
いまも多少その傾向あり。
さっそく記念撮影をしようとカメラを取り出しました。
すると、ネコさんは、ねころぶのをやめ、そそくさと移動。
逃げなくてもいいのにと思いましたが、
それは無理。
だって、飼い主でもない人が
カメラもって迫ってくるんですから。
飼い猫は、それでも人間になれているので、
迷惑そうでも、普通にカメラに収まってくれます。

ほんとうの捨て猫なら、そうはいきません。
う~ん、そうでもないかな。
捨て子猫なら、けんめいに寄ってくる
かもしれませんね。
《犬と歩けばゴミを拾う in 沖縄》の
ばるタンさんが、ずいぶん悩まれた結果、
黒猫(ニャンギラスという名前に)を飼うことになりました。
気の毒な捨て猫を見るにみかねてという事情。
よくわかります。
一匹飼ったあと、
つぎつぎと捨て猫を飼うはめに
陥ったのは、わが家も同じです。
ただ病気の感染が心配。
最近、よくおじゃましている
《猫の耳もとで 今夜もひとりごと》の
sophiamamaさんちには、
飼い猫だけで5匹いるとか。苦労がわかります。
わが家では最初にメー♀ネコを飼いました。

その次にきたのがムー♂ネコ。

あまり記憶がありませんが、やはり、
検査結果がでないまえは、隔離していたと
いっています。
結果は問題なく、しばらくして、二匹はまあ
普通に暮らせるようになりました。
最後に来たのが、モー♂ネコ。

このネコは、コロナウィルスを持っていました。
感染力が低いとききましたが、メーと
ムーに予防注射をして、いっしょにしました。
隔離期間のせいなのか、モー♂ネコは、
なかなか家族になじみませんでした。
なじんでいたのは、毎日毎日世話をした
カミさんだけでした。
.モーは、メーにも、ムーにも嫌われて
とても気の毒でした。
近づいていっては、ネコパンチされて
すごすご引き返しては、めそめそしていました。
いまも多少その傾向あり。
「西南戦争余話」の”ていぞう”さんへ ― 2008/09/04

ていぞう様
サイト「西南戦争余話」を興味深く拝見しています。西南戦争の遺跡がすべて明らかになっているわけではないことを知りました。いろんな発見がこれから先もあるかと思うと、楽しみになります。
先日、私がはじめて「西南戦争余話・掲示板」に書き込んだ後、「大津市に西南役で亡くなられた兵士のお墓があるとは知りませんでした」とレスに書かれていました。そのことに触発されて、書いてみたいと思いました。
ていぞうさんは、大津市に、墓があるとは思わなかったという驚きですが、私は、墓どころか、犠牲者があったとは知らなかった、もちろん、お墓(正確には記念碑)がこの地にあるとは知らなかったのです。
確かに、大津市には、大阪鎮台の営所が置かれていました。しかし、そのことと西南戦争がどうかかわったのか知りませんでした。
それだけ大津市在住者にとって、西南戦争が遠い出来事になっていると片付けることもできます。しかし、私には、未来に生かすべき大事な史実がなおざりになっているのではないかと不安になったのです。
掲示板に載せた写真は、申し訳ありませんが、日清戦争で病死した兵士の墓地であって、西南戦争の犠牲者の墓碑ではありません。大津に営所をもった第九連隊に属していて、西南戦争で亡くなった兵士の墓地は、ていぞうさんがおられる九州の戦場(つまり官軍墓地)、そして、大阪衛戍病院でなくなった兵士の墓地である旧真田山陸軍墓地にしかないと思います。
私が知った最も衝撃的な事実は、西南戦争の戦場から生還したはずの兵士が、凱旋帰郷の途で、おりしも蔓延しつつあったコレラにつぎつぎと倒れ、死亡していったことです。京都までは汽車が開通。そこからは、徒歩で大津や名古屋の営所に向かうわけですが、街道をゆくなかで発症。助けをもとめた宿場からは締め出され、怒った兵士が爆発する事件も起こっています。
旧大津陸軍墓地には、1基だけ「西南之役」と刻まれた名古屋鎮台の兵の墓碑があります。

推測にすぎませんが、帰途で倒れた人を葬ったのではないかと思っています。
大津市には、大阪衛戍病院の分院(霊山)がおかれていました。そこで亡くなったのではないかと思います。残念ながら、記録は残っていません。
大津市にあるのは、個人墓碑ではなく「記念碑」です。

その記念碑は、高さが数メートルという巨大なものです。5メートルぐらいの土盛の上におかれていますので、見上げれば相当なものです。

しかし、その場は、崩れが目立ちます。
この碑には、「記念碑」としか刻まれていません。

西南戦争とのかかわりは、碑の台座に刻まれた碑文(その一部がトップの写真)から、読み取ることができるのみです。
西南戦争は、一地方の戦争ではありません。日本全国の兵、つまり若者を巻き込んで、戦い抜かれた近代日本最大で最後の内戦です。
ということは、全国どこでも傷跡があるってことです。
近畿地方で、当時、軍隊が常駐したのは、大阪、姫路、大津の3箇所。そこから出陣し、帰還できなかった若者が数百名いるわけです。その衝撃は大きかったと思います。
それらがどういう影響を当時の人々に及ぼしたのか。
さらに、日清、日露と、今度は外国へ出征していくわけですから、それとの関係はどうなんだろうと、私はつぎつぎに浮かぶ疑問に促されえ、自己流ですが、調べはじめたのです。
来年正月に、九州に行く予定。その機会に、何箇所か訪問できたらいいなと思っています。今後とも、よろしくお願いします。
サイト「西南戦争余話」を興味深く拝見しています。西南戦争の遺跡がすべて明らかになっているわけではないことを知りました。いろんな発見がこれから先もあるかと思うと、楽しみになります。
先日、私がはじめて「西南戦争余話・掲示板」に書き込んだ後、「大津市に西南役で亡くなられた兵士のお墓があるとは知りませんでした」とレスに書かれていました。そのことに触発されて、書いてみたいと思いました。
ていぞうさんは、大津市に、墓があるとは思わなかったという驚きですが、私は、墓どころか、犠牲者があったとは知らなかった、もちろん、お墓(正確には記念碑)がこの地にあるとは知らなかったのです。
確かに、大津市には、大阪鎮台の営所が置かれていました。しかし、そのことと西南戦争がどうかかわったのか知りませんでした。
それだけ大津市在住者にとって、西南戦争が遠い出来事になっていると片付けることもできます。しかし、私には、未来に生かすべき大事な史実がなおざりになっているのではないかと不安になったのです。
掲示板に載せた写真は、申し訳ありませんが、日清戦争で病死した兵士の墓地であって、西南戦争の犠牲者の墓碑ではありません。大津に営所をもった第九連隊に属していて、西南戦争で亡くなった兵士の墓地は、ていぞうさんがおられる九州の戦場(つまり官軍墓地)、そして、大阪衛戍病院でなくなった兵士の墓地である旧真田山陸軍墓地にしかないと思います。
私が知った最も衝撃的な事実は、西南戦争の戦場から生還したはずの兵士が、凱旋帰郷の途で、おりしも蔓延しつつあったコレラにつぎつぎと倒れ、死亡していったことです。京都までは汽車が開通。そこからは、徒歩で大津や名古屋の営所に向かうわけですが、街道をゆくなかで発症。助けをもとめた宿場からは締め出され、怒った兵士が爆発する事件も起こっています。
旧大津陸軍墓地には、1基だけ「西南之役」と刻まれた名古屋鎮台の兵の墓碑があります。

推測にすぎませんが、帰途で倒れた人を葬ったのではないかと思っています。
大津市には、大阪衛戍病院の分院(霊山)がおかれていました。そこで亡くなったのではないかと思います。残念ながら、記録は残っていません。
大津市にあるのは、個人墓碑ではなく「記念碑」です。

その記念碑は、高さが数メートルという巨大なものです。5メートルぐらいの土盛の上におかれていますので、見上げれば相当なものです。

しかし、その場は、崩れが目立ちます。
この碑には、「記念碑」としか刻まれていません。

西南戦争とのかかわりは、碑の台座に刻まれた碑文(その一部がトップの写真)から、読み取ることができるのみです。
西南戦争は、一地方の戦争ではありません。日本全国の兵、つまり若者を巻き込んで、戦い抜かれた近代日本最大で最後の内戦です。
ということは、全国どこでも傷跡があるってことです。
近畿地方で、当時、軍隊が常駐したのは、大阪、姫路、大津の3箇所。そこから出陣し、帰還できなかった若者が数百名いるわけです。その衝撃は大きかったと思います。
それらがどういう影響を当時の人々に及ぼしたのか。
さらに、日清、日露と、今度は外国へ出征していくわけですから、それとの関係はどうなんだろうと、私はつぎつぎに浮かぶ疑問に促されえ、自己流ですが、調べはじめたのです。
来年正月に、九州に行く予定。その機会に、何箇所か訪問できたらいいなと思っています。今後とも、よろしくお願いします。
花も実も・・・ ― 2008/09/04
「花も実もある人生」っていいます。
ということは、実がないと
花だけでは不十分ってこと。
背が高く伸びている木のさきに
丸くない形の赤い実が見えました。
上の写真です。
望遠レンズをおいてきたので、
これ以上大きくは写りません。
なんだろうって見ている
青空に飛行機雲。

自宅近くを歩いていて、きれいに
刈り込んだお家がありました。
そこにも青い(実際は緑)実がついています。
葉っぱ顔負けの色と丸い形が気に入って
撮りました。

その先は、ケイトウ通りとでもいうのか、
去年よりもふえたケイトウが花盛りの
道でした。

さらにいくと、丸いっていうより
すこししゃくれている形の実がありました。
なんか食べられそうな気がしました。
さて、実を捜しましたが、
どれもこれも、なんの実なのか
さっぱりわかりません。
今日一日、花も実もある人生・・・でも、
もともとの意味とは少し違いますね。
ということは、実がないと
花だけでは不十分ってこと。
背が高く伸びている木のさきに
丸くない形の赤い実が見えました。
上の写真です。
望遠レンズをおいてきたので、
これ以上大きくは写りません。
なんだろうって見ている
青空に飛行機雲。

自宅近くを歩いていて、きれいに
刈り込んだお家がありました。
そこにも青い(実際は緑)実がついています。
葉っぱ顔負けの色と丸い形が気に入って
撮りました。

その先は、ケイトウ通りとでもいうのか、
去年よりもふえたケイトウが花盛りの
道でした。

さらにいくと、丸いっていうより
すこししゃくれている形の実がありました。
なんか食べられそうな気がしました。
さて、実を捜しましたが、
どれもこれも、なんの実なのか
さっぱりわかりません。
今日一日、花も実もある人生・・・でも、
もともとの意味とは少し違いますね。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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