
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
歩兵「第十八番大隊」の姿を求めて ― 2008/10/06
約一年、間が開いているので、自分がどこまで追求したのかさえ、わからなくなっています。それでも、澤地久枝『火はわが胸中にあり』などに刺激をうけながら、再度、「十八(番)大隊」について調べてみる気になったのです。
ですから、これまでとの重複はお許しください。私個人のノートのつもりで書き込みます。
そもそも中央集権をめざす新政府が自前の軍隊を必要としていることは当然のこととして理解できます。ただ、その創出の過程がどうなっていったのかについては、無知でした。
戊辰戦争を終えたとき、当面、薩長土肥の4藩の藩兵をその用にあてたことは知られています。一方で、士族を擁した旧藩との対抗、他方で農民騒擾がおこるなかで、奇兵隊すらそのままで引き継ぐわけにはゆかない事情もあったことは、一坂太郎『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』(中公新書)で知り、衝撃をうけました。
戊辰戦争で亡くなった人たちと同様に、新政府によって切り捨てられていく奇兵隊の若者にも心ひかれました。
それは、澤地さんが西南戦争で命がけで戦った徴兵された若者がその処遇への抗議と正義をもとめて「竹橋事件」を起こし、異例の苛烈な処分を受けたことと重なる思いがしたのです。
ともかく、明治政府が軍事力をつくりだす過程は、思った以上に複雑で困難なものであったことを知ったのです。
話を「十八番大隊」にもとにもどして。
明治4(1871)年、四鎮台制ができます。東京、大阪、鎮西、東北。このときの兵力は、歩兵23大隊。このときは「壮兵」(旧藩の士族の志願兵)でした。
十八番大隊は、大阪鎮台に属して、第一分営の小浜に配備される予定でした。彦根駐屯は、明治4(1871)年12月から明治6(1873)年5月までのことで、徴兵制へ移行する過渡的な兵力であったことがわかります。
具体的に、彦根で、どういう任務を果たしたのか。
記録で見ると、明治6年の3月に敦賀県、5月に北条県で起きた農民騒擾鎮圧に出動しています。

これが明治6年3月の記録。

これが明治6年5月の記録。
この後すぐ、つまり同月に、伏見へ移駐します。
明治6(1873)年5月から翌7年5月まで、伏見屯営第十八大隊と呼ばれることになります。

では、その後はどうなったのか。

上記の明治7年5月5日付け文書によれば、6月に第十八連隊の満期となる隊員はひとまとめに退役。第十八大隊の名称も廃止。残りの隊員を新徴兵とともに、第八連隊、第九連隊、第十連隊に配属する大隊に改組します。
したがって、第十八大隊は、明治4年から7年まで、わずか3年間存在したに過ぎない壮兵部隊ということになります。
このように文献でしか知ることのできなかった「第十八大隊」の兵卒の横顔を、旧大津陸軍墓地で垣間見ることができます。
ですから、これまでとの重複はお許しください。私個人のノートのつもりで書き込みます。
そもそも中央集権をめざす新政府が自前の軍隊を必要としていることは当然のこととして理解できます。ただ、その創出の過程がどうなっていったのかについては、無知でした。
戊辰戦争を終えたとき、当面、薩長土肥の4藩の藩兵をその用にあてたことは知られています。一方で、士族を擁した旧藩との対抗、他方で農民騒擾がおこるなかで、奇兵隊すらそのままで引き継ぐわけにはゆかない事情もあったことは、一坂太郎『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』(中公新書)で知り、衝撃をうけました。
戊辰戦争で亡くなった人たちと同様に、新政府によって切り捨てられていく奇兵隊の若者にも心ひかれました。
それは、澤地さんが西南戦争で命がけで戦った徴兵された若者がその処遇への抗議と正義をもとめて「竹橋事件」を起こし、異例の苛烈な処分を受けたことと重なる思いがしたのです。
ともかく、明治政府が軍事力をつくりだす過程は、思った以上に複雑で困難なものであったことを知ったのです。
話を「十八番大隊」にもとにもどして。
明治4(1871)年、四鎮台制ができます。東京、大阪、鎮西、東北。このときの兵力は、歩兵23大隊。このときは「壮兵」(旧藩の士族の志願兵)でした。
十八番大隊は、大阪鎮台に属して、第一分営の小浜に配備される予定でした。彦根駐屯は、明治4(1871)年12月から明治6(1873)年5月までのことで、徴兵制へ移行する過渡的な兵力であったことがわかります。
具体的に、彦根で、どういう任務を果たしたのか。
記録で見ると、明治6年の3月に敦賀県、5月に北条県で起きた農民騒擾鎮圧に出動しています。

これが明治6年3月の記録。

これが明治6年5月の記録。
この後すぐ、つまり同月に、伏見へ移駐します。
明治6(1873)年5月から翌7年5月まで、伏見屯営第十八大隊と呼ばれることになります。

では、その後はどうなったのか。

上記の明治7年5月5日付け文書によれば、6月に第十八連隊の満期となる隊員はひとまとめに退役。第十八大隊の名称も廃止。残りの隊員を新徴兵とともに、第八連隊、第九連隊、第十連隊に配属する大隊に改組します。
したがって、第十八大隊は、明治4年から7年まで、わずか3年間存在したに過ぎない壮兵部隊ということになります。
このように文献でしか知ることのできなかった「第十八大隊」の兵卒の横顔を、旧大津陸軍墓地で垣間見ることができます。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント