
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
『清水男外吉之墓』(K131) 23歳の墓碑 ― 2008/10/13
彦根の大洞陸軍墓地から、旧大津陸軍墓地に移葬された5柱の兵卒の墓碑を一つ一つ見ていきます。
まずは、一番左にある『清水男外吉之墓』

この裏面に、碑文が彫られていますが、いまでもはっきり読み取ることが出来ます。

このままでは、よくわからない箇所がありました。
たとえば、「貫属卒」
調べると、「貫属」とは、本籍がある土地のこと。
また「卒」とは「卒族」のこと。明治初年の族称の一つ。
広辞苑によれば「中間、足軽などの下級武士を
旧来の慣用に従い「卒」として士族と区別して設けた」と
あります。
「嘉永庚戌」は、西暦では1850年。
「明治壬申」は、明治5(1872)年。
K131は、私がつけた墓碑番号。
まずは、一番左にある『清水男外吉之墓』

この裏面に、碑文が彫られていますが、いまでもはっきり読み取ることが出来ます。

男外吉石川縣貫属卒加賀石川郡金沢大工町清水彦三男嘉永庚戌二月廿五日生明治壬申三月應徴為歩兵十八番大隊兵卒同年四月廿七日病没於大阪鎮台第一分営彦根屯所時年二十三
このままでは、よくわからない箇所がありました。
たとえば、「貫属卒」
調べると、「貫属」とは、本籍がある土地のこと。
また「卒」とは「卒族」のこと。明治初年の族称の一つ。
広辞苑によれば「中間、足軽などの下級武士を
旧来の慣用に従い「卒」として士族と区別して設けた」と
あります。
「嘉永庚戌」は、西暦では1850年。
「明治壬申」は、明治5(1872)年。
K131は、私がつけた墓碑番号。
『長谷吉太郎之墓』(K132) 20歳の墓碑 ― 2008/10/13
『新畑周二之墓』(K133) 24歳の墓碑 ― 2008/10/13
『辻安次之墓』(K134) 22歳の墓碑 ― 2008/10/13
『岡田滌良之墓』(K135) 24歳の墓碑 ― 2008/10/13
四鎮台時代に、彦根におかれてい大阪鎮台彦根小営。
駐屯していのは、壮兵からなる第十八番大隊。
一小隊は60人。一中隊は2小隊。一大隊は五中隊。
となると、600名だったのか。
わずか3年程度の駐屯時代に病死した兵卒の墓碑が
現在、旧大津陸軍墓地に5柱あります。
これが紹介してきたものの最後の墓碑。
「岡田滌良之墓」。

私には、この若者の名前の読み方さえわかりません。
こういう漢字であろうとは思うのですが。
碑文も読みづらい。

最初の一行ですが、出身は、「敦賀縣」と読めませんか。
つまり、「滌良敦賀縣貫属卒若狭遠敷郡府中村」と。
生年月日は「嘉永巳酉四月十日生」(1849年)
入営は「明治壬申三月應徴為歩兵十八番大隊兵卒」
死亡年月日「同年八月十五日病没」(1872年)
二十四年の生涯。
駐屯していのは、壮兵からなる第十八番大隊。
一小隊は60人。一中隊は2小隊。一大隊は五中隊。
となると、600名だったのか。
わずか3年程度の駐屯時代に病死した兵卒の墓碑が
現在、旧大津陸軍墓地に5柱あります。
これが紹介してきたものの最後の墓碑。
「岡田滌良之墓」。

私には、この若者の名前の読み方さえわかりません。
こういう漢字であろうとは思うのですが。
碑文も読みづらい。

最初の一行ですが、出身は、「敦賀縣」と読めませんか。
つまり、「滌良敦賀縣貫属卒若狭遠敷郡府中村」と。
生年月日は「嘉永巳酉四月十日生」(1849年)
入営は「明治壬申三月應徴為歩兵十八番大隊兵卒」
死亡年月日「同年八月十五日病没」(1872年)
二十四年の生涯。
コスモス ― 2008/10/13
20代前半の下級士族出身の若者の墓碑に ― 2008/10/13
地名の部分が読めない墓碑がありますが、
5柱の十八番大隊の兵卒の墓碑文は
だいたいわかりました。
ちなみに5名とは、(年齢は数え年)
K131 清水男外吉 (23歳で歿)
K132 長谷吉太郎 (20歳で歿)
K133 新畑 周二 (24歳で歿)
K134 辻 安次 (22歳で歿)
K135 岡田 滌良 (24歳で歿)
です。
それぞれのエントリーに内容は書いてあります。
5名の若者はすべて、20代前半。
「卒」(足軽などの下級武士)出身で
明治5年3月に兵卒として入営。
そして、4月、6月、7月、8月に「病死」。
出身地は、敦賀縣と石川縣。
彦根もしくは近辺の出身ではありません。
彦根から離れた出身地となっているのは、
もともと小浜に大阪鎮台の第一小営を
置く予定で、その近辺から兵を集めた
結果だと思えます。
出身地との関係を見てみたくなりました。
出発点は、「南保一義大尉之墓」
碑文が一番の手がかりなのですが、
摩滅しきってほとんど解読不可能です。
それでも、兵卒の墓碑と同じく5行。
最後の行の一文字目が「鎮」と読めます。
5名の兵卒の墓碑から、南保大尉にたどりつく
手がかりはあるのでしょうか?
まずは、やってみます。
5柱の十八番大隊の兵卒の墓碑文は
だいたいわかりました。
ちなみに5名とは、(年齢は数え年)
K131 清水男外吉 (23歳で歿)
K132 長谷吉太郎 (20歳で歿)
K133 新畑 周二 (24歳で歿)
K134 辻 安次 (22歳で歿)
K135 岡田 滌良 (24歳で歿)
です。
それぞれのエントリーに内容は書いてあります。
5名の若者はすべて、20代前半。
「卒」(足軽などの下級武士)出身で
明治5年3月に兵卒として入営。
そして、4月、6月、7月、8月に「病死」。
出身地は、敦賀縣と石川縣。
彦根もしくは近辺の出身ではありません。
彦根から離れた出身地となっているのは、
もともと小浜に大阪鎮台の第一小営を
置く予定で、その近辺から兵を集めた
結果だと思えます。
出身地との関係を見てみたくなりました。
出発点は、「南保一義大尉之墓」
碑文が一番の手がかりなのですが、
摩滅しきってほとんど解読不可能です。
それでも、兵卒の墓碑と同じく5行。
最後の行の一文字目が「鎮」と読めます。
5名の兵卒の墓碑から、南保大尉にたどりつく
手がかりはあるのでしょうか?
まずは、やってみます。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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