
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
『朽ちていった命 -被曝治療83日間の記録-』(NHK「東海村臨界事故」取材班) ― 2008/10/27

NHK「東海村臨界事故」取材班の記録。
1999年9月30日の事故報道を私はよく覚えています。
その後、この事故を扱った文書をいくつか読みました。
そこで亡くなった方の悲惨さも記憶していますが、
これほど克明のものを読むのははじめてです。
2001年にNHKスペシャルでも放映されたそうですが、
これは見ていませんでした。
一晩で読みきりました。
底知れない恐怖と
風化への危惧をいだきながら。
1999年9月30日の事故報道を私はよく覚えています。
その後、この事故を扱った文書をいくつか読みました。
そこで亡くなった方の悲惨さも記憶していますが、
これほど克明のものを読むのははじめてです。
2001年にNHKスペシャルでも放映されたそうですが、
これは見ていませんでした。
一晩で読みきりました。
底知れない恐怖と
風化への危惧をいだきながら。
蝶々を見つけて ― 2008/10/27
「森口四郎吉之墓」@旧大津陸軍墓地F24 ― 2008/10/27
「永田吉蔵墓」@旧大津陸軍墓地F23 ― 2008/10/27
この光る青い物体は何!? ― 2008/10/27
これって人面虫? ― 2008/10/27
「稲森金太郎墓」@旧大津陸軍墓地F21 ― 2008/10/27
風雪に削られた130年ぐらい前の
墓碑文を読み解くという単調な作業を
つづけています。
記録が見つからない以上は、
気づいた人間がやるしかないと思って。
仕事の合間なので、それまで積み上げたことも
思い出せなくて、「再発見」を繰り返すのは、
苦笑いモノですけれど・・・。
お仕着せのような決まりきった様式の墓碑文ですが、
それも消えてしまったら、この若者を人間として
追想する手がかりがなくなる気がします。
ですから、なんとしても、読み取りたいと
墓碑をいろんな角度から眺めてみるのです。
「稲盛金太郎」の墓碑は、Fブロックの端にあります。
上の写真で背後に見えているのは、日清戦争期の
墓碑群(206柱)の一部です。
この墓碑も、かなり摩滅しています。
そのうえ、コケなどが付着しているために、
読解が難しいですね。
勝手に、コケを採っていいものなのか。
右側面は、没年月日のはずですが。

これは・・・読めません。
左側面が碑文はどうでしょうか。

Fブロック(37柱)の雰囲気が
わかる写真を載せました。
明治8(1875)年から明治10(1877)年に
亡くなった兵卒と下士官の墓地です。
写真の一番手前が「稲盛金太郎墓」

彫られているのはわかっても、石の質のせいなのか、
文字の角が崩壊しているように見えます。
冒頭の「金太郎」とか、途中の「明治」とかは読めるのですが。
この碑文を読むのはあとにしましょう。
墓碑文を読み解くという単調な作業を
つづけています。
記録が見つからない以上は、
気づいた人間がやるしかないと思って。
仕事の合間なので、それまで積み上げたことも
思い出せなくて、「再発見」を繰り返すのは、
苦笑いモノですけれど・・・。
お仕着せのような決まりきった様式の墓碑文ですが、
それも消えてしまったら、この若者を人間として
追想する手がかりがなくなる気がします。
ですから、なんとしても、読み取りたいと
墓碑をいろんな角度から眺めてみるのです。
「稲盛金太郎」の墓碑は、Fブロックの端にあります。
上の写真で背後に見えているのは、日清戦争期の
墓碑群(206柱)の一部です。
この墓碑も、かなり摩滅しています。
そのうえ、コケなどが付着しているために、
読解が難しいですね。
勝手に、コケを採っていいものなのか。
右側面は、没年月日のはずですが。

これは・・・読めません。
左側面が碑文はどうでしょうか。

Fブロック(37柱)の雰囲気が
わかる写真を載せました。
明治8(1875)年から明治10(1877)年に
亡くなった兵卒と下士官の墓地です。
写真の一番手前が「稲盛金太郎墓」

彫られているのはわかっても、石の質のせいなのか、
文字の角が崩壊しているように見えます。
冒頭の「金太郎」とか、途中の「明治」とかは読めるのですが。
この碑文を読むのはあとにしましょう。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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