
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
サハロフ(Андрей Сахаров)『回想録』 ― 2008/11/01
昨日、ブックオフで見つけました。サハロフ『回想録』(上下:読売新聞社)。いまから20年近く前の出版です。
息子たちは、アンドレイ・サハロフ(Андрей Дмитриевич Сахаров)の名前を知りません。そして、私も、今ではあまり頭に浮かべることもありません。
ソ連の「原爆の父」。そして、1960年代の末から、息の詰まりそうな閉塞社会だった旧ソ連のなかで、反体制の声を響かせていた人です。1980年のソ連のアフガン侵攻への抗議と流刑。ペレストロイカの時代にはその父として尊敬を集めながら、1989年に死去しました。
ソ連崩壊という大事件は、それまでのなにもかもを押し流したように見えます。
息子が大学の図書館から借りてきたこともあって、アメリカの原爆の父・オッペンハイマーの伝記を買いたいと思っていましたが、旧ソ連の父の本を先に手に入れることとなりました。
この本の訳者は、金光不二夫氏と木村晃三氏です。
サハロフの本は、『進歩・平和共存および知的自由』(みすず書房)、『サハロフは発言する』(新潮社)などがあるが、まだ手に入るのでしょうか。
息子たちは、アンドレイ・サハロフ(Андрей Дмитриевич Сахаров)の名前を知りません。そして、私も、今ではあまり頭に浮かべることもありません。
ソ連の「原爆の父」。そして、1960年代の末から、息の詰まりそうな閉塞社会だった旧ソ連のなかで、反体制の声を響かせていた人です。1980年のソ連のアフガン侵攻への抗議と流刑。ペレストロイカの時代にはその父として尊敬を集めながら、1989年に死去しました。
ソ連崩壊という大事件は、それまでのなにもかもを押し流したように見えます。
息子が大学の図書館から借りてきたこともあって、アメリカの原爆の父・オッペンハイマーの伝記を買いたいと思っていましたが、旧ソ連の父の本を先に手に入れることとなりました。
この本の訳者は、金光不二夫氏と木村晃三氏です。
サハロフの本は、『進歩・平和共存および知的自由』(みすず書房)、『サハロフは発言する』(新潮社)などがあるが、まだ手に入るのでしょうか。
蜘蛛のお仕事 ― 2008/11/01
この赤い花はなにでしょうか ― 2008/11/01
こっちのピンクもなんの花でしょうか ― 2008/11/01
野草の実 ― 2008/11/01
戦死と病死---Fブロック調査の区切りで思うこと ― 2008/11/02
10月22日から10日間かけて、明治8年から10年にかけて病死した兵卒・下士官の墓碑37柱を読み解く作業を続けてきました。その結果は、1柱づつブログにエントリーしていますが、11月1日になってようやく完結しました。まだ読み解けない部分や再調査がいる柱もあります。私のような素人がする仕事かと不安になります。しかし、墓碑の風化を考えれば、無意味な作業ではないのだと自分にいいきかせています。
一通りできることを終えたので、疲労感をともないながら、自分が感じていることを形にしたいと思っています。
軍隊というものは、平時ですら、人の命の消耗が烈しいと思いました。一聯隊(3大隊)で一千数百人という規模のはず。徴兵制度がはじまったばかりですから、最初は1大隊、それを2年以上かけて3大隊に増員していった時代です。3学年ある普通高校の人数とほぼ同じです。私が在籍した大学もこの程度の規模でした。
そこで、2年間に37名の病死者がでたというのは、異常なことです。
全国で徴兵のがれや血税騒ぎがあったと聞きますから、農民出身が多い徴兵された若者にとっては、うれしいことではなかったはず。貴重な労働力を奪われ、しかも、病死。本人も不幸ですが、両親の嘆きはひとしおだったと思われます。墓碑に農民出身を示す「農」の文字をはじめて見つけたときは、無念の声が聞こえた気がしました。
明治10年の墓碑を見ると、西南戦争の影を感じます。後備兵が臨時に召集されて亡くなった墓碑があるからです。
軍隊は戦闘もしくは戦争が主要な任務です。
死はいかなる意味でも不幸ですが、戦闘はそれを平時には考えられない規模で引き起こします。
私は2年間で19歳から25歳までの若者が軍隊生活のなかで次々と死んだことに哀れさを感じたと書きましたが、明治10年3月からは農民出身の若者がはじめて大規模に実戦に投入されます。西南戦争です。そこに参加したのは、大津営所で教練をはじめて長くて2年の若者です。相手は勇猛をならした薩摩軍、そして西郷隆盛。
恐怖を感じながらの出征だったはず。その結果は、平時の死者数をはるか後景に押しやるすさまじさでした。
官軍全体の戦死者は6,843名(新修大津市史)、大津営所の第九聯隊は、441名。全国から派遣されましたが、聯隊単位では、2番目に多い戦死者数でした。

田原坂などでの官軍戦死者300柱が眠る七本官営墓地
その若者たちの個人墓は、旧大津陸軍墓地で見ることはできません。戦死者は現地で葬られ、大津には記念碑があるだけです。
もしも西南戦争の戦死者の個人墓碑をこの場所で建てるとしたら、たちまち、葬る場所はなくなっていたでしょう。
もともと病死者を葬る場所ですから、旧大津陸軍墓地からは戦争の悲惨さを直接見ることができない仕組みになっています。少なくとも、明治10年の西南戦争の場合は。
私は戦争の悲惨さを墓碑を通じて感じたい、知らせたいという動機でこの調査をはじめました。しかし、Fブロックに見たのは「病死」。すなわち、平時の悲劇だったのです。
一通りできることを終えたので、疲労感をともないながら、自分が感じていることを形にしたいと思っています。
軍隊というものは、平時ですら、人の命の消耗が烈しいと思いました。一聯隊(3大隊)で一千数百人という規模のはず。徴兵制度がはじまったばかりですから、最初は1大隊、それを2年以上かけて3大隊に増員していった時代です。3学年ある普通高校の人数とほぼ同じです。私が在籍した大学もこの程度の規模でした。
そこで、2年間に37名の病死者がでたというのは、異常なことです。
全国で徴兵のがれや血税騒ぎがあったと聞きますから、農民出身が多い徴兵された若者にとっては、うれしいことではなかったはず。貴重な労働力を奪われ、しかも、病死。本人も不幸ですが、両親の嘆きはひとしおだったと思われます。墓碑に農民出身を示す「農」の文字をはじめて見つけたときは、無念の声が聞こえた気がしました。
明治10年の墓碑を見ると、西南戦争の影を感じます。後備兵が臨時に召集されて亡くなった墓碑があるからです。
軍隊は戦闘もしくは戦争が主要な任務です。
死はいかなる意味でも不幸ですが、戦闘はそれを平時には考えられない規模で引き起こします。
私は2年間で19歳から25歳までの若者が軍隊生活のなかで次々と死んだことに哀れさを感じたと書きましたが、明治10年3月からは農民出身の若者がはじめて大規模に実戦に投入されます。西南戦争です。そこに参加したのは、大津営所で教練をはじめて長くて2年の若者です。相手は勇猛をならした薩摩軍、そして西郷隆盛。
恐怖を感じながらの出征だったはず。その結果は、平時の死者数をはるか後景に押しやるすさまじさでした。
官軍全体の戦死者は6,843名(新修大津市史)、大津営所の第九聯隊は、441名。全国から派遣されましたが、聯隊単位では、2番目に多い戦死者数でした。

田原坂などでの官軍戦死者300柱が眠る七本官営墓地
その若者たちの個人墓は、旧大津陸軍墓地で見ることはできません。戦死者は現地で葬られ、大津には記念碑があるだけです。
もしも西南戦争の戦死者の個人墓碑をこの場所で建てるとしたら、たちまち、葬る場所はなくなっていたでしょう。
もともと病死者を葬る場所ですから、旧大津陸軍墓地からは戦争の悲惨さを直接見ることができない仕組みになっています。少なくとも、明治10年の西南戦争の場合は。
私は戦争の悲惨さを墓碑を通じて感じたい、知らせたいという動機でこの調査をはじめました。しかし、Fブロックに見たのは「病死」。すなわち、平時の悲劇だったのです。
水鳥の飛翔 ― 2008/11/02
大江健三郎・画 大江ゆかり 『「新しい人」の方へ』『「自分の木」の下で』 ― 2008/11/02
MKさん、これは実ですか、病気ですか? ― 2008/11/02
この実なんの実なんでしょう? ― 2008/11/02

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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