お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
岩田重則『「お墓」の誕生――死者祭祀の民俗誌』 ― 2008/11/07
墓碑をよく取り上げるので、私は、よほど「お墓」に関心があると思われているはずです。しかし、2007年夏以前に「お墓」に興味を持つことはありませんでした。「お墓」は必要ないというのが私の考えで、家族を困らせていました。
20年近く前に、数十万を出して新しい「お墓」を購入しようとしたときも、私は反対だったのです。
カミさんは伝統とか風習を大切にしたいほうですから、とても合意をえられないのですけれど。ともかく、新しい家族の墓地と「お墓」はもっています。
私が「そんものいらない」としたのは、感覚的に必要ないと思っていただけで、根拠とか理屈をもってはいませんでした。
この本は、そんな私でも、いや私だからこそかも知れませんが、興味深いものでした。
たとえば、次のような箇所です。
学者の方に「たかだか」400年といわれても、十分古いじゃないかと思う方が多いでしょうけれど、埋葬の歴史は縄文時代よりも古いのです。そう考えれば、ごく最近の現象となります。
これは、目から鱗のひとつでした。
20年近く前に、数十万を出して新しい「お墓」を購入しようとしたときも、私は反対だったのです。
カミさんは伝統とか風習を大切にしたいほうですから、とても合意をえられないのですけれど。ともかく、新しい家族の墓地と「お墓」はもっています。
私が「そんものいらない」としたのは、感覚的に必要ないと思っていただけで、根拠とか理屈をもってはいませんでした。
この本は、そんな私でも、いや私だからこそかも知れませんが、興味深いものでした。
たとえば、次のような箇所です。
「お墓」とされる石塔の歴史は新しく、近世社会では徐々に建立が増え、それがさらに、近現代社会で拡大したものにすぎない。・・・この石塔についてみても、戒名を刻む個人のそれからはじまり、現在一般的に見られる先祖代々墓へと徐々に移行していった。石塔を歴史的にみれば、もっとも古くてもたかだか約四○○年をさかのぼるにすぎない。・・・石塔(=われわれがお墓と呼ぶもの BIN★)とは、現在をも含む近現代に浸透しつつある、現在進行形の社会現象であると理解する方が適切であると考えられる。つまり、墓と「お墓」はちがうのです。後者は近世以降のもの。
学者の方に「たかだか」400年といわれても、十分古いじゃないかと思う方が多いでしょうけれど、埋葬の歴史は縄文時代よりも古いのです。そう考えれば、ごく最近の現象となります。
これは、目から鱗のひとつでした。
現代日本における人間とその死との関係、もっとも具体的には、「お墓」という共同幻想としてあらわれているその関係は、石製の物体への跪拝としても存在していることになる。加工される以前、中国大陸にねむっている状態の花崗岩は、ただの岩石、自然物にすぎなかった。それが採石され原料として商品価値をもたされ、さらには、加工されることにより商品価値を高め、「お墓」として日本列島へやってくる。そしていま、このようにして、商品価値をもたされた「お墓」が、日本列島を席巻しつつある。私は、自分の反発の意味がこれでようやく理解できたのです。
土葬地域にせよ、民俗的火葬地域にせよ、古くからの民俗的な墓制は解体しつつあり、角柱型石塔による先祖代々墓として、現代の「お墓」に画一化されつつある。この画一的な「お墓」の誕生と不即不離の関係にあるのが、こうした商品価値をもたされた「お墓」の誕生でもあったように思われてならないのである。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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