お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
パンのくずを撒きながら ― 2009/05/30
仕事の手帳をつけています。もう長いこと。
でも、個人の日記を書き始めたのは、
2005年の1月からです。
たぶん、その頃が転機だったと思うのです。
いえいえ、自分で転機を望んでいたのです。
現在の高島市、そのときは今津町。
その平和堂で、ハードバックの日記帳を買いました。
とてもとても寒い冬でした。
雪の降る街で、自問自答をはじめたのです。
私が考えていたのは、仕事人として生きるとともに、
個人としても生きたいということでした。
今の仕事に入ってしばらく、あまりの忙しさに
仕事以外の本を読むことをやめました。
ロシア語の本もそれまでは読み続けていたのですが、
それもやめました。文学書もやめました。
頭だけで生きてきたことがわずらわしく、
目の前の仕事に没頭することにしたのです。
1989年のことでした。
それから数年して、もう一度転機がありました。
しかし、それは仕事の内容が変わることで、
踏みとどまることができました。
その仕事が片付いた1996年を境にして、
私は個人に戻りました。
もちろん、仕事は続けていましたが、
仕事人としてだけではなく、個人としても、
生きる人生を望んでいました。
それらが嵩じてきて、
仕事を続けるかやめるかという際まで行きました。
しかし、続ける決断をしました。
小さな挫折感を感じましたが、個人として
勝負するには、実力も自信もないと思ったのです。
それは、正しい判断でした。
しかし、好むと好まざるとにかかわらず、
仕事を離れるときがやってきます。
それがとても近い将来となった今、
新たな模索をはじめることにしました。
私は、本をふたたび、読むようになりました。
もう一度、新鮮な目で、向かい合いたくなったのです。
もちろん、本である必要はありません。
人との出会いが一番なのでしょうけれど、
そういう機会は限られているのです。
読んだ本から、パンくずをまくように、
感想を残すことにしました。
すべての感想をブログで書くことはできません。
なにをそのとき読んでいたのか、
なにを感じていたのか、は記録できるはずです。
それらをたどって、また元に戻ったり、
考えたりできる気がしたからです。
でも、個人の日記を書き始めたのは、
2005年の1月からです。
たぶん、その頃が転機だったと思うのです。
いえいえ、自分で転機を望んでいたのです。
現在の高島市、そのときは今津町。
その平和堂で、ハードバックの日記帳を買いました。
とてもとても寒い冬でした。
雪の降る街で、自問自答をはじめたのです。
私が考えていたのは、仕事人として生きるとともに、
個人としても生きたいということでした。
今の仕事に入ってしばらく、あまりの忙しさに
仕事以外の本を読むことをやめました。
ロシア語の本もそれまでは読み続けていたのですが、
それもやめました。文学書もやめました。
頭だけで生きてきたことがわずらわしく、
目の前の仕事に没頭することにしたのです。
1989年のことでした。
それから数年して、もう一度転機がありました。
しかし、それは仕事の内容が変わることで、
踏みとどまることができました。
その仕事が片付いた1996年を境にして、
私は個人に戻りました。
もちろん、仕事は続けていましたが、
仕事人としてだけではなく、個人としても、
生きる人生を望んでいました。
それらが嵩じてきて、
仕事を続けるかやめるかという際まで行きました。
しかし、続ける決断をしました。
小さな挫折感を感じましたが、個人として
勝負するには、実力も自信もないと思ったのです。
それは、正しい判断でした。
しかし、好むと好まざるとにかかわらず、
仕事を離れるときがやってきます。
それがとても近い将来となった今、
新たな模索をはじめることにしました。
私は、本をふたたび、読むようになりました。
もう一度、新鮮な目で、向かい合いたくなったのです。
もちろん、本である必要はありません。
人との出会いが一番なのでしょうけれど、
そういう機会は限られているのです。
読んだ本から、パンくずをまくように、
感想を残すことにしました。
すべての感想をブログで書くことはできません。
なにをそのとき読んでいたのか、
なにを感じていたのか、は記録できるはずです。
それらをたどって、また元に戻ったり、
考えたりできる気がしたからです。
雨でも晴れでもお昼寝は続きます ― 2009/05/30
上の写真はモー♂ネコ。
このネコと親しくなったのは、巨大化してからのことです。
拾ってきてから、2年以上経っても、仲良くなれませんでした。
悪いのは私です。
我が家になじもうというときに、冗談で追いかけ回したからです。
子猫のモーにとっては、よほど怖かったと思います。
それで、私の足音や車の音がわが家に近づくと、
寝ていても跳ね起きて、どこかへ逃げていきました。
家族がその様子を教えてくれました。
ですから、近づくことはできないし、
仲良しになることもできませんでした。
しばらくは、その様子が面白くて、
必死に逃げていく足音を聞くだけでした。
でも、このネコが方々でお漏らしをするようになって、
これはまずいと思いました。ストレスだと思ったからです。
そこで、仲良くなろうと努力をはじめました。
自宅でも4メートル以内に近づきません。
階段近くにいたので、寄っていくと、ドドッと逃げて、
最上段まで上り、顔だけ下に向けています。
困った・・・。
ネコですから、「待て!話せばわかる」ってことになりません。
やっぱ、食べ物で信頼を得るしかないのです。
鰹節をおいて、下りてくるのを待つ。
怖さが勝って、とても下りてきません。
私が目に見えないところに隠れても、すぐには来ません。
やはり、そこはネコ。
好奇心と食欲で、下りてきます。
食べ始めても、私の姿が見えると、ドッと逃げていきます。
よほど怖いのですね。
毎日毎日、これを繰り返して、姿が見えても、
逃げなくなるところまで行きました。
距離は3メートル。
驚かないように、つねに、何かを話しかけつづけました。
さわらせてくれたときは感激。
いまや、上の写真のように、まったく無警戒。
雨でも晴れでも、お昼はおやすみ状態。
そういう姿が撮れることがほんとうにうれしい。
このネコと親しくなったのは、巨大化してからのことです。
拾ってきてから、2年以上経っても、仲良くなれませんでした。
悪いのは私です。
我が家になじもうというときに、冗談で追いかけ回したからです。
子猫のモーにとっては、よほど怖かったと思います。
それで、私の足音や車の音がわが家に近づくと、
寝ていても跳ね起きて、どこかへ逃げていきました。
家族がその様子を教えてくれました。
ですから、近づくことはできないし、
仲良しになることもできませんでした。
しばらくは、その様子が面白くて、
必死に逃げていく足音を聞くだけでした。
でも、このネコが方々でお漏らしをするようになって、
これはまずいと思いました。ストレスだと思ったからです。
そこで、仲良くなろうと努力をはじめました。
自宅でも4メートル以内に近づきません。
階段近くにいたので、寄っていくと、ドドッと逃げて、
最上段まで上り、顔だけ下に向けています。
困った・・・。
ネコですから、「待て!話せばわかる」ってことになりません。
やっぱ、食べ物で信頼を得るしかないのです。
鰹節をおいて、下りてくるのを待つ。
怖さが勝って、とても下りてきません。
私が目に見えないところに隠れても、すぐには来ません。
やはり、そこはネコ。
好奇心と食欲で、下りてきます。
食べ始めても、私の姿が見えると、ドッと逃げていきます。
よほど怖いのですね。
毎日毎日、これを繰り返して、姿が見えても、
逃げなくなるところまで行きました。
距離は3メートル。
驚かないように、つねに、何かを話しかけつづけました。
さわらせてくれたときは感激。
いまや、上の写真のように、まったく無警戒。
雨でも晴れでも、お昼はおやすみ状態。
そういう姿が撮れることがほんとうにうれしい。
谷内六郎 『谷内六郎展覧会(春)』 ― 2009/05/30
谷内六郎さんの絵が、「週刊新潮」の表紙を飾っていたのは、
1981年までのことでした。
それまで、TVで毎週、「アカトンボ」の歌とともに、
”週刊新潮は○○発売です”というナレーションが流れていました。
その絵はとてもなつかしく、まるで童謡のような印象をもちました。
それが文庫本になっていたんですね。
『谷内六郎展覧会』(新潮文庫)として。
ページをなつかしげにめくってると、
突然、鮮明な記憶が蘇えりました。
そのきっかけは、「犬さらいがきた日」という絵でした。
私の記憶では、「犬さらい」ではなく、「犬とり」でしたけれど。
谷口六郎さんは書いています。
ここに書かれているとおりでした。
『犬とり(犬さらい)がくる!!』と親から聞かされて、
怖くなって家の中で震えていたのです。
谷内六郎さんの絵から、蘇えった怖い思い出です。
1981年までのことでした。
それまで、TVで毎週、「アカトンボ」の歌とともに、
”週刊新潮は○○発売です”というナレーションが流れていました。
その絵はとてもなつかしく、まるで童謡のような印象をもちました。
それが文庫本になっていたんですね。
『谷内六郎展覧会』(新潮文庫)として。
ページをなつかしげにめくってると、
突然、鮮明な記憶が蘇えりました。
そのきっかけは、「犬さらいがきた日」という絵でした。
私の記憶では、「犬さらい」ではなく、「犬とり」でしたけれど。
谷口六郎さんは書いています。
市役所か区役所から来る野犬狩の人は幼い頃は何かおそろしい人のように思えるものです。・・・中略・・・それは大切な飼い犬の小犬がさらわれるという不安と、本能的な犬や動物への愛情がまるで自分がさらわれる気分となるもののようです。
ここに書かれているとおりでした。
『犬とり(犬さらい)がくる!!』と親から聞かされて、
怖くなって家の中で震えていたのです。
谷内六郎さんの絵から、蘇えった怖い思い出です。
よそネコとの出会い ― 2009/05/30
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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